大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 平成6年(う)1200号 判決 1998年7月01日

目次

主文

理由

第一部 控訴趣意とこれに対する判断の概要

第一 控訴趣意

一 検察官の控訴趣意

二 被告人甲野の弁護人の控訴趣意

三 両控訴趣意の要旨

四 控訴審での主な争点

第二 当裁判所の判断の概要

第二部 銃撃事件の銃撃実行者を乙野と認めなかったのを不当とする検察官の控訴趣意(乙野の犯人性)について

第一 検察官の主張

第二 原判決の判断の要旨

第三 事件の発生とその前後の状況

一 事件の発生

二 事件発生後の事情聴取状況

三 銃撃事件の証拠の構造と輪郭

四 被害及び現場の客観的状況

第四 共犯者に必要な条件について

(検察官の控訴趣意中、「共犯者の条件とこれを満たす人物」の主張《同控訴趣意第二章第一節》)

一 検討された対象者の範囲について

二 共犯者に必要な適格条件について

第五 乙野の犯行現場への臨場性(その一 レンタカー借り出しの関係《同第二節第一分節》)について

一 原判決は検察官の主張を取り違えて判断しているとの主張について

二 乙野バンの使途に関する主張について

1 原判決の判断及びこれに対する検察官の主張

(一) 原判決の判断

(二) 検察官の主張

2 乙野バンの使途に関する乙野の供述経過

3 (A)の説示を不当とする所論について

4 (B)の説示を不当とする所論について

(一) 第一関門(乙野はOG三W号の入出航の遅れを知り得たか)

(二) 第二関門(バン借り出し前の行動)

(三) 第三関門(タイヤのパンクなど)

(四) 第四関門(集荷中止後の行動)

(五) 第五関門(現実の集荷と発送の遅れ)

(六) 小括

5 その他の集荷目的にバンが使用されたことはないとの主張について

6 本件バンの走行距離について

7 乙野がバレーレンタカーの存在を秘匿していたことについて

第六 乙野の犯行現場への臨場性(その二 いわゆるアンテナ問題《同第二節第二分節第一》)について

一 問題の所在

二 サシャーアンテナ(以下、Sアンテナという。)の原物性について

1 検察官の主張

2 Sマストが「純正品」であることとその原物性との関係に関する所論の主張について

3 折損頻度に関する所論の主張について

4 乙野バン及びSマスト自体に即した原物性の主張について

5 レンタル契約書中の「GOO乙野」の記載とアンテナの状態に関する所論の主張について

6 本件貸出し当日のマストの折損可能性に関する所論の主張について

三 車両の特徴による同一性の識別

第七 犯行に加担する動機の有無《同第三節第二の一》について

第八 乙野と甲野との謀議《同第三節第一の一》について

一 謀議を要する事項と謀議の必要性

二 謀議の機会と方法

1 謀議の機会

2 国際電話

3 渡米時の共謀

4 本件前日の共謀

第九 殺人報酬の約束と支払い《同第三節第二の一》

一 検察官の主張

二 乙野への一八三万円の入金

三 甲野の出金

第一〇 乙野とライフル銃との結びつきについて《同第三節第二の二》

第一一 乙野のアリバイについて《同第二節第二分節第二》

第一二 乙野バンがレンタカーであった事実の主張について《同第二節第二分節第三》

第一三 殴打事件に関する乙野の言動について《同第三節第一の二》

一 チャイナドレスの女のこと

二 凶器のハンマーのこと

第一四 乙野を銃撃実行者とする殺人の訴因についての総合判断と結論について《同第四節》

一 乙野の銃撃行為への関与を疑わせる事実

二 乙野の銃撃行為への関与に疑問を感じさせる事実

三 現実性の評価

第三部 甲野の弁護人の控訴趣意中、訴因問題(同控訴趣意第二及び第四)の主張について

第一 手続経過

第二 当裁判所の判断

第四部 甲野に関する自判(その一。主として、銃撃事件の銃撃実行者を氏名不詳者とする殺人の予備的訴因について)

第一 主位的訴因について

第二 予備的訴因の追加請求とその内容

一 予備的訴因の要旨

二 予備的訴因の追加を相当と判断した理由

1 争点化の必要

2 両当事者の意見

三 予備的訴因における実質的争点

第三 銃撃実行者が未解決である事実

第四 犯行の動機について(検察官が主張する情況事実 一)

一 夫婦関係の冷却とCに対する愛情の喪失について

二 フルハムロードの営業資金の必要性、保険契約締結の事情等について

三 今回渡米時に締結した保険契約について

四 小括

第五 共犯者の物色について(検察官が主張する情況事実 二)

一 野澤清重に対する打診

二 福原光治に対する打診

三 Oに対する打診

四 渡部哲に対する打診

五 乙野に対する打診

六 小括

第六 殴打事件について(検察官が主張する情況事実 三)

一 D供述の信用性について

二 D供述を信用できないとする弁護人の主張について

1 ハンマー様凶器による殴打について

2 Dの供述の変遷について

3 小括

第七 甲野が本件と酷似する殺人方法を殴打事件当時に提案していたとされる事実について(検察官が主張する情況事実 四)

一 D供述がされた時期

二 D供述の特徴

三 小括

第八 謀議の成立に疑問を持たせる事情

一 犯行態様と謀議の不可欠性

二 甲野にとっての謀議の機会

第九 渡米経過と出発前後の事情について

第一〇 銃撃現場の状況について(検察官が主張する情況事実 五)

一 検察官が甲野の犯人性を示すと主張する点

二 目撃証言と甲野の供述

1 目撃証言の内容と証言評価に当たっての留意点

2 甲野の原審公判供述の概要

三 白いバンの停車とその移動等

1 白いバンの存在

2 白いバンは先着していたか

3 バンは本件銃撃後に立ち去ったか

四 白いバンで走り去った人物の現場での動静について

五 銃撃の態様、銃撃位置等の関係

六 強盗犯の存否

1 強盗犯による銃撃の客観的可能性(銃撃の位置関係)

2 強盗の動きは目撃されているか

3 その他関連する情況事実の検討

4 小括

第一一 甲野の供述の虚偽性について(検察官の主張する情況事実 六)

第一二 殺人の予備的訴因についての結論(情況事実を総合しての結論)

一 甲野の犯行関与を疑わせる事実

二 甲野の犯行関与に疑問を感じさせる事実

三 結論

第五部 甲野に関する自判(その二。その他の事件について)

第一 銃撃事件に関連する詐欺の訴因について

第二 昭和六三年一二月一六日付け起訴状第二記載の詐欺の事実について

第六部 本件全体の結論及び甲野に関する自判

(罪となるべき事実)

(証拠の標目)

(法令の適用)

(一部無罪の理由)

第一 起訴にかかる公訴事実の要旨

第二 当裁判所の判断

主文

一  原判決中被告人甲野に関する部分を破棄する。

同被告人を懲役一年に処する。

同被告人に対し、この裁判確定の日から三年間その刑の執行を猶予する。

原審訴訟費用中、証人O(原審第六八回)、同田中潤(同第六九回)及び同土肥俊雄(同第七〇回)に支給した分は同被告人の負担とする。

本件公訴事実中、昭和六三年一一月一〇日付け起訴にかかる殺人、同月一九日付け起訴にかかる詐欺及び同年一二月一六日付け起訴にかかる公訴事実第一の詐欺の各事実については、同被告人は無罪。

二  検察官の被告人乙野に対する控訴を棄却する。

理由

第一部  控訴趣意とこれに対する判断の概要

第一  控訴趣意

一  検察官の控訴趣意

東京地方検察庁検察官甲斐中辰夫作成名義の控訴趣意書に記載のとおりであり、これに対する答弁は、被告人甲野の関係では同被告人の弁護人弘中惇一郎、同鈴木淳二、同喜田村洋一、同渡辺務、同加城千波連名作成名義の答弁書に記載のとおりであり、被告人乙野の関係では同被告人の弁護人伊藤卓藏、同安井桂之介、同加藤義樹、同濱涯廣子、同土赤弘子連名作成名義の答弁書に記載のとおりである。

二  被告人甲野の弁護人の控訴趣意

弁護人弘中惇一郎、同鈴木淳二、同喜田村洋一、同渡辺務、同加城千波連名作成名義の控訴趣意書及び同補充書に記載のとおりであり(なお、同弁護人らは、控訴趣意中、殺人の事実に関する原判決の認定を審判の請求を受けない事件について判決したものと主張している中には、訴訟手続の法令違反の主張を含む趣旨であると釈明した。)、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官山田弘司作成名義の答弁書に記載のとおりである。

これらをそれぞれ引用する。

三  両控訴趣意の要旨

両控訴趣意とも詳細、膨大であるが、その要旨は次のとおりである。すなわち、

1 検察官の控訴趣意は、要するに、原審において、検察官は、「被告人甲野と同乙野は、共謀の上、生命保険金を取得する目的で、被告人甲野の妻Cの殺害を企て、昭和五六年一一月一八日、ロスアンジェルス市北フリーモント通り二〇〇ブロックの路上で、同女の頭部に二二口径のライフル銃で撃った銃弾を命中させて、殺害した」事実を訴因として主張したところ、原判決は、被告人乙野(以下、乙野という。)をC(以下、Cという。)銃撃の実行者と断定することにはなお合理的な疑いが残るとして、この訴因については乙野を無罪とし、一方被告人甲野(以下、甲野という。)については、前記訴因を変更しないまま、「甲野は氏名不詳者と共謀の上」、その氏名不詳者に銃撃させ、Cを殺害したとの事実を認定した、しかし、原判決が銃撃の実行者を乙野と認めなかったことは、乙野の関係では勿論、甲野についても、その共犯者が誰であったかに関して事実誤認であるというのであり、

2 甲野の弁護人の控訴趣意は、要するに、訴訟手続に関する主張と事実誤認に関する主張とに分かれるが、訴訟手続に関する主張としては、

(一) 検察官が主張する「甲野は乙野と共謀の上」Cを殺害したとの殺人の訴因につき、原審裁判所が訴因変更の手続をとらないまま、判決中で突然「甲野は氏名不詳者と共謀の上」同女を殺害したと認定したのは、訴因を逸脱した認定であって、これは、刑訴法上、審判の請求を受けない事件について判決をした違法(刑訴法三七八条三号)に当たるか、そうでなくても、判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反(同法三七九条)に当たり、また、このような原審の手続は憲法三一条に違反する、

(二) 原判決は、「氏名不詳者と共謀の上」と判示するだけで、「罪となるべき事実」の判示に必要な具体的事実を記載せず、特に共謀共同正犯における共謀の相手方を特定していない、更に共謀の相手方及び共謀を構成する具体的事実について厳格な証明を行わせず、判決にその証拠を挙示してもいない、これらの点は、理由不備ないし理由齟齬に当たる、

(三) 原判決は、原審審理を通じて、訴訟関係者のすべてが甲野と「乙野との共謀」の成否を争点と考え、そこに証拠調べを集中し、それ以外の主張・立証を行っていないときに、全く釈明権を行使することもないまま、率然として甲野は「氏名不詳者と共謀の上、その氏名不詳者が銃撃した」との事実を認定したが、その訴訟手続には、不意打ち、審理不尽の違法がある、

(四) 原審裁判所は、殴打事件の犯人であり、銃撃事件にとっても重要証人とされるDの証人尋問請求を一旦採用しながら、その後、同女が国外にいることを理由として同女の検察官調書を刑訴法三二一条一項該当の書面(国外滞在)として採用して取り調べ、以後同女を証人として尋問しなかった、しかしDが国外にいたのは原審審理期間中の一時期だけのことであって、審理の途中には帰国していたのであるから、このような原審の審理手続は刑訴法三二一条一項の解釈を誤り、憲法三七条に違反する、その点で判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反に当たる、というのであり、

事実誤認に関する主張としては、

(五) 原判決は、甲野が「氏名不詳者と共謀の上」Cを殺害したとの事実を認定し、殺人(昭和六三年一一月一〇日付け起訴状)及び生命保険金等詐欺の事実(同月一九日付け起訴状記載の公訴事実第一及び第二並びに同年一二月一六日付け起訴状記載の公訴事実第一)につき有罪としたが、原判決がいう「氏名不詳者」は客観的には存在せず、甲野とこの「氏名不詳者」との間での殺人の共謀はあり得ないから、これらの罪の関係で、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、

(六) 原判決は、動産保険金詐欺の事実(同年一二月一六日付け起訴状記載の公訴事実第二)につき甲野を有罪としたが、原判決が認定根拠とした田中潤及び土肥俊雄の各証言は信用性に乏しく、甲野が破損していない商品を故意に破損させて保険金請求をさせたとの事実を認定した点には重大な疑問があり、原判決にはその点で判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、等というのである。

四  以上によれば、当控訴審での主な争点は、

1 本件銃撃事件の銃撃実行者を乙野であると認めること及びその乙野と甲野との共謀を認めることには合理的な疑いが残るとした原判決の認定の当否の問題(甲野及び乙野の両名の関係。後記第二部で判断する。)、

2 検察官が、殺人の訴因として、「甲野は乙野と共謀の上」Cを殺害したという事実を掲げているときに、その訴因を変更することなく、判決中で、突然、「甲野は氏名不詳者と共謀の上」同女を殺害したとの事実を認定することは訴因制度上許されるかという訴訟手続上の問題(甲野関係。後記第三部で判断する。)

3 原判決が、原審で取調済みの証拠に基づいて、銃撃実行者を氏名不詳者としたまま、その者と甲野との共謀成立の事実を認定したことの当否の問題(甲野関係。後記第四部で判断する。)、

4 最後に、これと関連する保険金詐欺及びこれとは別の動産保険金詐欺の事実認定に関する問題(甲野関係。第五部で判断する。)等である。

第二  当裁判所の判断の概要

一  当裁判所は、原審記録及び証拠物を調査するとともに、事案の重大性にかんがみ当審でも必要な証拠調べを尽くし、慎重な検討を続けた末に、頭書の結論に達した。その判断の概要は次に取りまとめて述べるとおりであり、詳細な理由はそれに引き続いて述べるとおりである。すなわち、

1 本件証拠によれば、原判決が、本件殺人事件の銃撃実行者を乙野と断定することにはなお合理的な疑いが残ると判断したのは相当であって、その点に事実誤認があるとはいえない。

すなわち、検察官は、銃撃実行者を乙野であると主張する主たる根拠として、犯行時に現場で目撃されたのと車種が同じで車体の塗色がよく似たカーゴバンを、乙野が、事件前日から当日にかけて、レンタカー会社から借り出していた事実があることを指摘し(以下、乙野が借り出していたこのバンを乙野バンという。)、このバンは本件犯行に使用する以外に使途がなかったし、また本件発生時にバンを借り出していた事実とそのレンタカー会社名を、乙野は忘れていたといって捜査機関に素直に述べず、レンタル契約書を突きつけられてようやく認めた供述経過は、このバンを本件犯行に使用した事実を最後まで隠そうとしたことを疑わせると主張する。この点に関する検察官の情況証拠の分析とこれに基づく推論は、極めて詳細、緻密であり、その点に限っていえばかなり説得的であって、検察官が乙野に対して嫌疑を抱いたのももっともであったと一応首肯させる点がある。

しかし、このことだけを根拠として、犯行現場で目撃されたバン(以下、現場バンという。)は乙野バンであったと断定することは、本件ではまだできない。すなわち、証拠上、現場バンにはアンテナが装着されていなかったか、あるいは最初は装着されていたが破損して無装着状態になっていたことが明らかとなっているところ、関係証拠によれば、乙野バンには、その当時、アンテナがついていた可能性がかなり高いと推認すべき根拠があり、そうなると、両車は、車種が同じで車体の塗色は似ているけれども、別個のバンであった疑いが生じるからである。その他、乙野には犯行に加担する動機が全く見当たらないこと、本件前に乙野と甲野とが謀議をする機会が現実にはほとんどなく、かつ現実に謀議をした痕跡も全く見当たらないこと、犯行への加担に対する報酬授受の事実もないことなど、乙野の犯行関与を打ち消しているとしか理解できない周辺事実を含めて総合考慮すると、検察官が主張するとおりの、銃撃実行者は乙野であって、その乙野と甲野との間に共謀が成立していたとの事実を認めるには、どうみても合理的な疑いが残ると判断せざるを得ない。

2 甲野に対する殺人の公訴事実について、検察官が訴因として、「甲野と乙野との共謀」を掲げ、かつ、甲野の共謀の相手方としては乙野以外には考えられないとの立証を続けた原審での審理経過を前提として、原審裁判所が、訴因変更手続をとることなく、判決中で、突然これとは異なる「甲野と氏名不詳者との共謀」を認定した訴訟手続には、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違反があり(刑訴法三七九条)、その点で原判決は破棄を免れない。

3 原判決を破棄した上、「氏名不詳者との共謀」の事実等について、この上更に証拠を取り調べる余地があるのであれば、本件を原審に差し戻し、そこでより一層の真相解明を期待することも考えられなくはない。しかし、何といっても本件発生後すでに一六年以上(起訴後九年以上)の年月が経過しており、しかも事件の発生地が外国であるため証拠収集上の制約も多く、加えて、検察官は、原審で、乙野以外に銃撃犯人がいるとは考えられない旨の立証を繰り広げてきた経過があって、今後その点について新たな証拠が現れることはほとんど望み得ない状況にある。そして、本件の核心は、主として取調済みの情況証拠に対する評価とこれに基づく推論過程にあることを勘案すれば、いまさら原審に差し戻すことは適切ではなく、この段階で当審において自判するのが相当と考えられる。

4 そこで、自判することとするが、検察官が甲野に対して掲げる殺人の主位的訴因の事実、すなわち銃撃実行者を乙野とし、同人と甲野が共謀して乙野にCを銃撃させたとの事実については、前記のとおり合理的な疑いが残るから、証明不十分としなければならない。

次に、予備的訴因の事実、すなわち、直接の銃撃実行者を不明としたままで、その氏名不詳の銃撃実行者と甲野が共謀して、その氏名不詳者にCを銃撃させたとの事実について有罪の認定をするためには、本件ではその共謀が甲野と本件とを結びつける中核的事実であることにかんがみ、その者からどのような弁明や供述等がなされても、甲野がその氏名不詳者と共謀して銃撃させたことに間違いがないことを裏付けるに足りるだけの確かな証拠が必要だと考えられる。そこで、甲野についてこれをみると、同人の場合には、例えば殴打事件前に共犯者探しともみえる一連の不可解な言動が認められ、その後に発生した殴打事件をめぐる行動には被害者Cの殺害とその保険金取得をねらったとしか思えない加害意思を読み取ることができ、その三か月後に起こった本件との間には犯行態様その他について何やら共通性も見え隠れし、しかも、銃撃事件発生時の現場の状況に関する甲野の供述、中でも銃撃犯人をグリーンの車で来た二人組の強盗犯である、白いバンには気づかなかったと述べる点には虚偽供述との疑いが強く持たれるなど、乙野の場合よりもはるかに強い嫌疑を抱かせる事情が認められることは否定できず、検察官が、少なくとも甲野の犯行関与は間違いがないと主張することにもかなりの程度理由があるといえる。

しかし、他方、Cに引き続いて甲野もライフル銃で銃撃・被弾している本件の犯行態様からみて、本件は、共犯者抜きには考えられない態様の犯行であることは明らかで、その点がまさに中核的な要証事実となっているところ、検察官がこの者以外には共犯者は考えられないと主張して立証に努めた乙野について、原判決は証拠不十分の判断をし、この判断は、関係証拠に照らして、当審においても維持するほかなく、しかもそれ以外には共犯者とおぼしき者が全く見当たらない状況にある。証拠上、共犯者が単に特定されていないというだけではなく、全く解明されていないのである。加えて、日本にいた甲野において、アメリカにいたと想定するほかない氏名不詳の共犯者を新たに見つけ、その者との間で特に殴打事件後本件発生までの間に銃撃事件について謀議をし、これを完了しておくまでの機会はほとんどなく、かつ、現実に謀議をした痕跡は全く見当たらないこと、Cを連れて渡米した経過にはむしろ犯行計画を否定しているかのような事情が認められること、犯行加担に対する報酬支払いの事実が全くないこと等々の、いずれも共犯者の存在を否定する趣旨の情況事実が多く認められる証拠関係にあること等の周辺事実を含めて総合考慮すると、検察官が主張するような、銃撃犯人は不明でもその氏名不詳者と甲野との間に共謀が成立していたこと及び甲野がその者にCを銃撃させたことに間違いはないと推断するに足りるだけの確かな証拠は見当たらず、なお合理的な疑いが残るといわざるを得ない。

5 そうすると、甲野が関与したことを前提とする前記保険金詐欺の訴因についても、有罪の認定をすることはできない。

二  本件の事実認定に関連して一言付言しておくこととする。

1 本件は、情況証拠から諸々の間接事実を立証し、いわばモザイク状の間接事実を多数積み重ねて犯罪事実全体の立証をするという、微妙・困難な証拠関係にある事件である。ただ、このような場合、もし情況証拠から推認をする過程にいくらかの疑問が残ることを理由として、事実の認定に決断力を欠き、安易に疑いが残ると判断して証明不十分とするならば、情況証拠による犯罪立証の余地は、大幅に狭められ過ぎることになりかねない。もとより、刑事裁判における有罪認定には、「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度」の立証が必要であり、また「疑わしきは被告人の利益に」が鉄則とされていて、そのこと自体に異論はないが、この際あえて言えば、ここに合理的な疑いを差し挟む余地がないとは、反対事実の疑いを全く残さない場合をいうのではなく、抽象的には反対事実の疑いを入れる余地がある場合であっても、社会経験上はその疑いに合理性がないと一般的に判断されるような場合は、有罪認定を可能とする趣旨であって、このことは、専ら情況証拠によって犯罪事実の立証を行うほかない本件のような事案の場合に強く認識しておく必要があると考えられる。その意味では検察官の意見にも首肯できる点がある。しかし、反面、このことは、専ら情況証拠を積み重ねて立証するほかない事案の場合には立証の程度が低くてもよいという意味ではもとよりない。やはり、中核となる要証事実について、質の高い情況証拠による立証が不可欠とされることは、刑事責任の帰属に関するという事柄の性質上当然である。だから、もし、右に述べた観点からみても合理的な疑いを入れる余地のない立証がされたとはいえないと判断されるときには、その人物が第六感的感覚からはいかに疑わしいと感じられ、あるいは実際に証拠の一部に疑わしい点が認められても、それがまだ疑わしいとの域にとどまっている限り、刑事裁判の性質上、有罪の認定をすることはできないし、その旨判断することにはばかるところがあってはならない。

2 保険金取得目的で、妻を銃撃させたとされる本件公訴事実の内容は、もしそれが真実であるとすればいかにもおぞましい犯行であって、社会的に放置できないことはいうまでもない。検察官は、銃撃実行者を乙野であると判断し、その乙野と甲野との間にかねての面識関係を基盤とする共謀が成立していたと認定して、両名を起訴した。銃撃実行者を乙野とするこの認定は、乙野に対する刑事責任追求の前提として必要であったことは勿論であるが、それのみにとどまらず、甲野に対する関係でも、銃撃実行者を特定することによって同人に対する立証上の難点を切り抜けるねらいを持っていると理解される。銃撃実行者の立証を抜きにしては甲野に対する事実の立証も容易でないことを見通したもので、検察官のこの判断は、一般論としてはまさにそのとおりと考えられる(銃撃犯人不明のままで、甲野だけを本件殺人の共犯者として起訴に踏み切ることができたかを考えてみれば明らかである。)。これに対して、原審裁判所は、銃撃行為への乙野の関与を証拠不十分と判断し、その結果銃撃実行者不明のまま、それでも甲野は氏名不詳の誰かと共謀してCを銃撃させたことに間違いはないと認定した。しかし、銃撃実行者は誰か、またその者との共謀成立経過という、まさに甲野と本件犯行とを結びつけている中核的な要証事実の立証を欠いたままの状態で、更にいえば、乙野以外にはこれに相当する共犯者は見当たらないと検察官が主張し、立証を尽くした状態のままで、なお甲野を氏名不詳者との共謀共同正犯者と認定できるとする原審の判断には、やはり無理があると当裁判所は考える。

3 本件は、ロス疑惑銃撃事件として、激しい報道合戦が繰り広げられたいきさつのある事件である。マスコミの調査報道が先行して事件を掘り起こし、これが引き金になって警察の捜査に発展した経過があったことと、事件の謎めいた内容や、犯人と疑われた甲野の言動の特異さ等が加わって、格別世間の注目をひいた。週刊誌や芸能誌、テレビのワイドショーなどを中心として激しい報道が繰り返されたが、こうした場面では、報道する側において、報道の根拠としている証拠が、反対尋問の批判に耐えて高い証明力を保持し続けることができるだけの確かさを持っているかどうかの検討が十分でないまま、総じて嫌疑をかける側に回る傾向を避け難い。

ところが、その後公判廷での証拠調べを通じて、本件の証拠関係は極めて微妙であり、広く報道されているほど単純ではないことが明らかになっている。争点は極めて多岐にわたるのに、目撃者の供述内容には変遷が多く、事案の解明につながる物証はなく、甲野の本件関係での捜査官に対する供述調書は一通もなく、また乙野についても自白調書と呼べるものはない。結局、情況証拠を洗い出し、矛盾する証拠をも無視しないで、モザイク状の証拠と事実をつき合わせて全体像を推認してゆく以外には手がない証拠関係にあるところ、検察官からは、甲野は、保険金取得のために、乙野に指示してライフル銃で妻Cを銃撃させ、かつ、被害者を偽装する目的で自分の大腿部にも銃弾を撃ち込ませたとの主張がされ、弁護人らからは、そのように判断できる証拠はどこにもないではないかとの反論がされて、証拠の評価をめぐる対立は際立っている。この対立は、証拠を歪みなく評価しても当事者としての立場の違いによって避けられないものなのか、それともそれぞれが都合のよい証拠だけを強調し、そうでない証拠を無視する結果として生じているだけなのか、証拠に直に接する機会がない者には判断のしようがない状態にある。

ところで、証拠調べの結果が右のとおり微妙であっても、報道に接した者が最初に抱いた印象は簡単に消えるものではない。それどころか、最初に抱いた印象を基準にして判断し、逆に公判廷で明らかにされた方が間違っているのではないかとの不信感を持つ者がいないとも限らない。そうした誤解や不信を避けるためには、まず公判廷での批判に耐えた確かな証拠によってはっきりした事実と、報道はされたが遂に証拠の裏付けがなく、いわば憶測でしかなかった事実とを区別して判示し、その結果、証拠に基づいた事実関係の見直しを可能にすることの重要性が痛感される。

4 加えて、本件においては、原審で、甲野が乙野に指示して行わせた犯行であるという検察官が当初に描いた犯行の構図のうち、銃撃実行者を乙野とする部分については十分な証拠がないとして同被告人には無罪が言い渡され、他方甲野が誰かに指示して銃撃を行わせたという限度では十分な証拠があるとして、同被告人には無期懲役刑が言い渡されている。計画的な殺人事件について、銃撃実行者は不明、しかし実行させた側だけは有罪というこの結果は一見分かりにくく、証拠と認定の合理性が問われる結果となっている。証拠関係が複雑であるだけに、その判断過程を簡明に判示するのは難しいが、当裁判所としては、以上に述べた観点から、争点ごとに、できるだけ証拠関係と判断が分かれる理由を詳しく判示して、前記の結論に達した理由を明らかにしたい。

(なお、以下の判示において証拠を引用する場合、原審公判調書中の証人の供述部分については、「○○の原審証言」、同じく被告人の供述部分については、「○○の原審供述」などという。証拠書類については、謄本等により取調べがなされたものであっても、原本によって取調べがなされたのと同様、単に「○○の○月○日付け検察官調書」などと表示し、また、その一部が取り調べられたものであっても特にその点を明示しない。甲○○、物○○、弁A甲○○、弁B○○などとあるのは、それぞれ原審記録中の証拠等関係カード記載の検察官請求甲○○号証、物○○号証、甲野の弁護人請求の弁A甲○○号証、乙野の弁護人請求の弁B○○号証の証拠であることを示し、控甲○○、控弁A○○などとあるのは当審記録中の証拠等関係カード記載の検察官請求の甲○○号証、甲野の弁護人請求の弁A○○号証の証拠であることを示す。また、原審記録中の所在、参照部分を特に示すときには、例えば、123-4567などとして示すが、これは、原審記録一二三冊(通し冊数)の四五六七丁(通し丁数)のことを意味する。)

第二部  銃撃事件の銃撃実行者を乙野と認めなかったのを不当とする検察官の控訴趣意(乙野の犯人性)について

まず、乙野を銃撃実行者とする殺人の事実について、原判決が、乙野を銃撃実行者と認めることには合理的な疑いが残るとしたのは事実誤認であるかどうかの点から検討する。

右の検討に当たって先ず留意しておくべきことは、原判決は、甲野を本件の首謀者と認定した上で、そのことを前提にしても、乙野を銃撃実行者と認定するだけの証拠は不十分と判断している点である。専ら情況証拠によって犯人を推認する場合には、共犯者中一方の犯人性の認定が、他方の犯人性認定の結果如何によって微妙に影響されることがある。本件に即して大雑把な言い方をすれば、乙野の犯人性は、甲野の犯人性が肯定されている場合により自然に納得されやすく、逆に甲野と離れて乙野だけが犯行に関与したとは考えにくい。甲野についてもこれに似た事情があり、乙野が銃撃実行者であるとの事実が肯定される場合には、同人に指示した者がいるとすればそれは甲野ではないかと疑われやすいのに対して、乙野の犯人性が否定される場合には、それでは甲野は誰に、どのようなルートを使い、どのような機会に銃撃を依頼したのかという疑問に逢着し、甲野が関与して実行させたと認定するためには厳しい疑問がついてまわることを否定できない。このように、両名の犯人性認定はどこかで影響しあう面があるから、ここに乙野を銃撃実行者とする部分から先に検討するといっても、その検討内容は、最終的には甲野についての検討内容を視野に入れ、両者に対する総合認定の結果を念頭に置きつつ行っている趣旨であることは勿論である(原審証拠の大半は、甲野と乙野の双方に共通する証拠として取り調べられているが、一部には一方の被告人関係だけで取り調べられているものがないではない。以下において証拠を摘示するときは、特に断らない限り、直接には取調済みの当該被告人の関係で掲げている趣旨であるが、他方の被告人の関係でも、被告人の供述等によって同趣旨の認定が可能である。)。

第一  検察官の主張

検察官は、原審において、本件でライフル銃を操作して銃撃を行ったのは乙野であるとの観点から以下のとおり主張し、控訴審でもこの主張をそのまま維持しつつ、原判決の判断に応じて、各論点ごとに逐一詳細な反論を加えるとともに、あわせて原判決がした総合判断の手法について反論している。

すなわち、まず具体的な犯行手順については、犯行前日に甲野と乙野がアメリカ合衆国カリフォルニア州ロスアンジェルス市(以下、ロス市という。)のシティー・センター・モーテル(以下、CCMという。)で会って、犯行の詳細に関する最終謀議を遂げ、その謀議に基づいて乙野はバレーレンタカーへ行って白いフォード社製のカーゴバン「エコノライン」を借り出し、犯行当日これで犯行現場へ先着し、オフセット駐車場のそばにバンを停めた、そしてバンの車内又はバンのすぐ西側付近の、東側に建っている水道電力局ビルからは死角になる位置から、あらかじめ入手し携行してきていたライフル銃を使用してCの頭部を銃撃・命中させ、続いて、甲野の犯行であることを隠蔽する目的で、もう一発発射して甲野の大腿部に命中させた、その後すぐバンに乗って現場を立ち去ったと主張し、中でも乙野が銃撃実行者であることを示す主要な情況事実として、次の事実を指摘した。

(a)  乙野は、本件銃撃実行者に必要と考えられるいくつかの条件をすべて兼ね備えている唯一の人物であること、

(b)  事件前日に甲野と面談しており、最終謀議を遂げたとみられること、

(c)  乙野が白いバンで現場に臨場したと認められる事実、特に乙野は、現場で目撃されたバンと同色、同型のバンを前日にレンタカー会社から借り出しているが、そのバンの使途は現場へ乗って行くため以外にはなかったと認められること、本件直後にバンを返却するまでの間の走行距離は三四マイルで、前日に犯行現場の下見をしたと考えた場合の走行距離にほぼ見合っていること、このバンにはアンテナが付いていなかった可能性があること、レンタカー会社の名前を捜査機関に秘匿していたこと、

(d)  商品仕入れ目的でバンを借りたのであれば、翌日である事件当日に、仕入先に商品送付の依頼電話をしていそうなものなのに、そうしていないこと、また事件発生時刻ころのアリバイがなく、当日午後甲野と待ち合わせ約束をしていたという路上で長時間待っていたというのも不自然であること、

(e)  報酬のうち、一八三万円を受け取っており、残金を甲野が踏み倒したことも十分あり得ること、

(f)  本件に関連する重要な事実、例えば本件の約三か月前におこった殴打事件の凶器を、事件直後に甲野から見せられていた事実や、ロス在住時に所持していたライフル銃の処分に関する事実等について、ことさら虚言を弄していたこと、その他である。

第二  原判決の判断の要旨

原判決は、検察官が主張する情況事実の中には、証拠上認定できない点や情況事実からの推論過程に無理のある点があって、結局乙野を銃撃実行者とは断定できないとした。その判断の要旨は、次のとおりである。

一  乙野が犯行に関与したことを疑わせる事実について

1 共犯者の条件について

検察官は、本件の銃撃実行者となるのに必要と考えられる条件を想定して、乙野はこれらの諸条件のすべてを具備するほとんど唯一の人物であるというが、対象者として検討した者の範囲が限られている上、個々の条件の内容には問題のあるものもあり、またこのような条件を具備する者は乙野だけに限られないから、乙野と本件とを結びつける情況証拠として有力なものとはいえない。

2 乙野の現場への臨場性について

(一) 乙野バンと現場バンについて

乙野バンは、フォード社製の一九八〇年型エコノラインで、色はウィンブルドン・ホワイトと認められ、現場駐車場付近に駐車していて目撃されたバンと同車種で、年式、色調とも同じと認められる。

(二) 乙野の供述するバンの使途について

しかし、当時ロス市内には、同車種、同色のバンが少なくとも数百台はあったから、借り出したバンの使途に関する乙野の供述にある程度の不自然さがあり、また同人がバンを借り出した事実やレンタカー会社の名前を捜査当初に秘匿していた供述経過があったとしても、そのことからすぐに乙野は借り出したバンで犯行現場に行ったと推認するのは相当でない。

すなわち、乙野の供述をみると、同人は、バンを借りた理由について、日時が経過しているのではっきり覚えてはいないとした上で、本件前日の一七日に甲野と会っているからおそらく商品の追加注文を受け、仕入先に集荷に行くためにカーゴバンを借りたが、途中でタイヤがパンクし仕入れを断念したのだろうと述べている。しかし、追加注文分を乙野のいう貨物船に積載する可能性は、その時点では客観的にはなかったとみられるし、途中でレンタカーのタイヤがパンクしたという弁明も釈然としない。しかし、乙野の供述は、借り出したときから七年も経過した後で右の点を突然尋ねられ、見せられた資料から推測して述べたものであることや、乙野のいう貨物船が、当時、予定より大幅に遅れて入・出航した事実があることからみて、なんらかの事情でそのことを知った乙野が、追加積載できるのではないかと考えて行動した可能性もないとはいえないから、乙野がこれらの点についてあえて虚偽の供述をしているとは断定できない。

(三) アンテナ問題について

犯行現場で目撃された現場バンと乙野が借り出した乙野バンが同一とみられるかどうかに関して、本件直前に写された甲野写真13の左下に写っている現場バンにはアンテナマストが写っていない、だから現場バンにはアンテナが根本部分において破損して、装着されていなかったと認められるところ、乙野バンにはオリジナルのアンテナマストが装着されていた可能性が高い。そのことは、このバンが本件の約七年後に発見されたときについていたアンテナベースやアンテナコードの製造年月日表示、アンテナマストがエコノライン用の純正品であったことなどからみて、そのようにいえる。また、乙野がレンタカー会社から借り出したときのレンタル契約書には、車両状態欄に「GOOD」と記載されていることも、このことを裏付けている。レンタカー会社の経営者は、洗車時等にアンテナが折損することが多く、そのような場合にすぐ修理しないで放置しておくこともあったとか、車両状態欄の「GOOD」という記載はアンテナが折損していなかったことを意味しない等というが、この証言は、洗車を担当していた会社の幹部職員の証言や証言内容自体の不合理さに照らして信用できない。

(四) バンの走行距離について

乙野が借り出して返還するまでの間のバンの走行距離は三四マイルで、検察官は、この距離について、このバンで乙野が犯行現場を下見したと考えた場合の走行距離と一致するという。しかし、下見をしたということ自体、その時間帯やわざわざ犯行に使用する車両で現場に乗りつけるという点で、不自然である。また、下見には甲野を同行すると考えるのが普通であろうが、そうすると下見終了後には甲野を現場からCCMに送らなければならなくなって、その分だけ走行距離が違ってくる。一方、乙野が弁明するルートでもおよそ三四マイルになるから、走行距離の点だけからは何ともいえない。

(五) 乙野がバン借り出しの事実を秘匿していたことについて

乙野は、本件で逮捕後もしばらくの間、捜査官に対して、バンを借り出したこともレンタカー会社の名前も述べなかったことが認められる。しかし、六年位も前の日常的な事柄を思い出せなくても不自然とはいえない。レンタカー会社の名前を秘匿していたと仮定した場合にも、一般的に嫌疑から離れた場所に自分を置きたいという気持ちはあり得ないことではないから、会社名を秘匿していたことが殺害の実行犯人と推認させる事情にはならない。また、バンを借りたことを秘匿したとされる点については、乙野がインボイス等を調べてバンを借りたことはないと考えていたためであり、その供述経過に不自然な点はない。

(六) 重大な犯行に使用するバンを、乙野がレンタカー会社から実名で借りている警戒心のなさは、本件全体を通じて認められる犯行の計画性、綿密性に照らして、むしろ不均衡が目立ち過ぎ、不合理である。

3 その他の事情について

事件前日の一一月一七日に、乙野はCCMに甲野を訪ねて同人と会った事実は認められる。しかし、これは、甲野が商用でロスを訪ねたときはいつもそうしていたというのであり、不自然あるいは不合理な点はない。検察官は、甲野のロス到着後の貴重な時間帯に乙野と会っていることは乙野が実行犯であることを推認させるというが、甲野は乙野と別れた後、乙野以外の実行犯と会った可能性を否定できないから、理由がない。

二   乙野が犯行へ関与したことに疑問を持たせる事実について

1 動機の不存在

検察官は、乙野が、報酬金目的で甲野に加担したと主張するが、乙野には生活に十分な収入があり、甲野から計画を持ちかけられても、これに応ずるような状況にはなかった。

2 殺人報酬の不存在

検察官は、乙野が、甲野から銀行を通して送金を受けた一八三万円が本件殺人報酬の一部であるという。しかし、殺人報酬としてはいかにも少額過ぎる。逆に、証拠によれば、これはキャンプ・ビバリー・ヒルズ(以下、CBHという。)関係の顧問料の未払分と認められる。報酬の残額未払分について、検察官は、乙野が帰国後生活状態が好転したので報酬の支払請求を放棄したというが、あまりにも不合理過ぎる。

3 凶器との結びつきの不存在

証拠によると、本件狙撃に使用されたのは、二二口径で、右一六条のライフルマークをもったライフル銃であるとされているが、そのようなライフル銃を乙野が入手し、保管し、処分したことを窺わせる証拠は全くなく、検察官は、その点について何の主張もしていない。本件は銃の取り扱いに習熟している者の犯行と窺われるが、乙野は四・五回射撃場で練習をしたことがある程度で、ライフル銃の使用に習熟していたとは認められない。

4 アリバイ工作の不存在

甲野との関係が周囲に知られていた乙野としては、もっとも疑いがかかりやすいことを予想してアリバイ工作をしておくのが本件の計画性、周到性からは自然であると考えられるのに、そのような工作をした証拠はない。

原判決は、以上に述べた有利、不利双方の情況事実を総合考慮した上で、結論として、乙野が関与したと認定するにはまだ合理的な疑いが残るとしたのである。

第三  事件の発生とその前後の状況

事件の発生経過、発生前後の現場状況、目撃者らからの事件直後の事情聴取状況、甲野からの事情聴取状況、遺留品の状況等の、証拠上比較的明白な輪郭的事実を、先に取りまとめておくこととする。なお、これらを前提とした銃撃関係についての検討の詳細は、第四部で述べる。

一  事件の発生

1 甲野夫妻は、昭和五六年(一九八一年。以下、必要に応じて西暦による表示を併用する。)一一月一七日午後(アメリカ合衆国太平洋標準時)ロス空港に到着し、二時二〇分ころ定宿にしていたCCMに到着し、その後、Cを買い物のため近くのブロードウエイ・ストアに送っていって一人でCCMに戻り、そこへやって来た乙野と三〇分ないし四〇分程度面談した。面談を終えた乙野はCCMをあとにしたが、午後四時ころ一人でレンタカー会社「バレーレンタカー」へ現れて、白いフォード社製のカーゴバン「エコノライン」を借り出した。一方甲野は、Cを前記のストアに迎えに行き、夕食を共にし、同夜は同モーテルに宿泊した。

2 翌一一月一八日午前九時ころ、甲野は、前日空港で借りていたレンタル車(フォード社製栗色乗用車フェアモント。以下、甲野車という。)にCを同乗させてCCMを出発し、写真撮影をしながらロス市内を回ったもののようで、午前一〇時四五分前後ころ、テンプル通りから北フリーモント通り(以下、フリーモント通りと略称することがある。)を南進進行し、本件銃撃現場となった付近に至り、進行車道の右側(西側)に沿った行き止まりの空き地であるオフセット駐車場東側の辺りに、ほぼ南向きに停車させた。当時右オフセット駐車場内には六台の乗用車が、車体をほぼ東西方向に向けて駐車しており、満車状態にあった。同通りの東側一帯は多数の車両が駐車している広い駐車場となっており、またその東方には約二四三メートル離れて水道電力局ビルが建っている。

3 甲野とCはエンジンを切らないまま甲野車から降りて付近で写真を撮るなどしていたが、同日午前一一時すぎころ、右駐車場内にいたCに対し、銃撃犯人が二二口径のライフル銃から銃弾を発射させてその左顔面に命中させ、続いて甲野に対しても同じくライフル銃から銃弾を発射させてその左大腿部に命中させる銃撃事件が持ち上がった。

4 この銃撃事件発生前後の状況の一部を、前記水道電力局ビルの八階で勤務中であった四名の職員、すなわち、デニス・アルガイヤー、コーネリウス・ニーリー、ウェイン・ギルバート・イエシド及びアーサー・ニエトが、断続的に駐車場の方を見たり目を離したりして、偶然目撃していた。同人らは、駐車場にいる者が、駐車車両かあるいは車両内の物を何か盗んだりするのではないかとの疑いを持って目撃していたもので、銃撃事件と知って目撃していたとか、目撃の結果すぐそれと分かったという状況ではなかった。目撃の途中、同室の女性キャロル・ボズギアンは、言われるまま警察に電話通報した(午前一一時〇七分ころ、電話の記録[甲三二三、三二四])。そのときの通報内容は、「誰かが駐車場の車を盗んでいるようです。彼らが入り込もうとしているのは栗色の車です。男だとか、白人だとかは、よく分かりません。見えないんです。どんな物を着ているかも分からない。車の向こう側なんです。」というもので、銃撃の疑いは含まれていなかった(同女の宣誓供述書[甲二五、二六]、電話の記録[前出])。この通報内容はすぐパトカーに流された。

5 本件が発生した時刻ごろ、オフセット駐車場からフリーモント通りの北東側約三〇メートルの位置にある絨毯工場の倉庫にいたソルターは、普通でない叫び声を聞きつけ、通りに出たところ、オフセット駐車場で、女性が路上に横たわり、男性が栗色の車のフリーウェイ側に立って手を振り、「警察、警察」と叫んでいるのを目撃した。すぐ工場内に戻って警察に対して「何があったかはっきり分かりませんが、誰かが地面に倒れ出血しています。もう一人が大きな声で警察を呼んでいます。事故があったようです。」と電話通報したが(キャロルとほぼ同じ一一時〇八分ころのことである。電話の記録[前出])、警察官から事態を具体的に確認するよう求められたため、再度現場へ行って、女性が仰向けに倒れている状態等を確認して電話口に戻り、「交通事故です。警察と救急車が要ります。」と追加通報した。その上で、本件駐車場の南方にある消防署に直接駆けつけて救助を依頼した(電話の記録[前出]、ソルターの一九八一年一二月一七日の事情聴取書[甲三八六、三八七]、一九八八年六月一六日の宣誓供述書[甲二七、二八]、一九九二年三月二八日の供述書[弁A甲八、九])。

ソルターの同僚であるロイ・ジョーンズは、ソルターが追加通報をしているころ現場へ行って状況を確認したが、栗色の車に近づいたとき、甲野と思われる一人の男が運転席側から出て同車の後部を回って右の助手席に行き、腰をかけたと述べている(ロイ・ジョーンズの一九九二年四月四日の供述書[弁A甲一〇、一一])。

6 前記通報により、一一時一〇分過ぎころ以降、現場に、次々と救急車やパトロールカーが到着し、到着した救急隊員らの手で、Cは一一時三〇分ころ、また甲野は一一時四〇分ころ、それぞれ南カリフォルニア大学病院(USCメディカルセンター)に向けて搬送された。

病院では、緊急にCの開頭手術が実施され、顔面頭部に散乱遺留された弾丸破片の一部が摘出されたが、同女はいわゆる植物状態に陥っており、昭和五七年一月二〇日USCメディカルセンターから搬送されて神奈川県伊勢原市所在の東海大学病院に転院し、引き続き治療を受けたが、被害後一度も意識を回復することなく、遂に同年一一月三〇日死亡した(被害後約一年経過。)。一方、甲野は、入院約一週間後の同五六年一一月二五日に前記USCメディカルセンターを退院した。

二  事件発生後の事情聴取状況

1 本件現場へ、一一時一五分ころまでの間に、グレン・ジェインズ消防士の乗車した消防車、リチャード・カンザキ及びダニー・コントラレスの乗車したパトカー、ペリー・バーンズ及びトーマス・ウオンが乗車したパトカー等が順次到着し、同人らは救護のほか、甲野からの事情聴取(カンザキ、コントラレス、救急隊監督官ジョン・グリーンなど。)、現場保存などに当たった。甲野は、現場でカンザキらから事情を聴取されたのに対して、犯人は銃器を持った二人組であり、グリーンの車に乗って逃走したと述べた。そのため、この時点では犯行車両はグリーン、けん銃所持、男二名という内容の捜査情報が流された。

2 前記バーンズは、現地に到着して一五分ないし二〇分経過したころ、現地指揮官グリフィンに指示されて水道電力局ビルに赴き、通報者ボズギアン及び目撃者のアルガイヤー、ニエトらから事情を聴取した。その際、目撃者らから、白いバンが現場に南向きに停まっていた、そのバンはフォードのバンか、シボレーのバンであるという話を聞き出し、その内容をFIカード(フィールドインテロゲイションカード[甲三二二])に書き残すとともに、無線で連絡し、その後白いバンが犯行に関係している旨の捜査情報が流された(交信チケット[物五五七・東京高等裁判所平成六年押第四〇七号の二八四])。

3 甲野に対する事情聴取は搬送先の病院でもカンザキ、デヴィド・グレイらによって続けられた。甲野は、この事情聴取の中で、駐車場でCの写真を撮っていたとき二人組の強盗に襲われた、犯人はフリーモント通り路上に北向きに停まっていたグリーンの車に乗り込んで、その通りを北の方に走り去ったことのほか、その車両や犯人の特徴についても供述した。しかし、現場近くに停まっていた筈の白いバンについては何も供述しなかった。

4 一一月一九日(事件の翌日)にも、甲野は犯人や車両の特徴について供述し、捜査官は甲野の説明にしたがって犯人の似顔絵などを作成した。同月二三日には、強盗から暴行を受けたことを説明するために、事件当時着用していた上着のシャツを提出し、二四日には、Cのポシェットを証拠物として提出した(時系列記録[甲三九七、三九八])。そして、一一月二五日に退院し、一二月四日にはCの転倒場所やポシェットの件について述べたいことがあると申し出て、ロス市警においてセントラル分署グレイ捜査官に対して詳細な事情説明をし、その内容の一部は録音テープに録取された(録音装置の調子が悪く、供述の全部は録音されていない。物二二三・同押号の一一。この翻訳文[甲四〇九])。

5 捜査官は、一一月二五日に本件現場に車を配置するなどして事件現場の再現、見分等を行うと同時に、水道電力局の目撃者らからの事情聴取を行った。目撃者らの多くは、本件現場で、甲野車の近くに白いバンが停車していたこと、この白いバンは、駐車場にいた甲野と思われる男が倒れた後で現場から南方に走り去ったことを目撃しており、またグリーンの車を見たという者らは、いずれもその車が現場付近で停車したことはなく、その車から下車した者もいなかったと供述した。

6 ロス市警の捜査官は、現場の状況、目撃者らの供述、甲野の態度その他から甲野の状況説明や態度に疑問を持ち、甲野が事件に関与しているのではないかとの疑いを抱いてポリグラフ検査を甲野に持ちかけたが、甲野が拒否したため、実現しなかった。

三  銃撃事件の証拠の構造と輪郭

1 事件発生前後の状況を水道電力局八階から目撃していた前記アルガイヤー、ニーリー、イエシド及びニエトの四名のうち、ニエトを除く他の三名は、原審公判廷で証言している。しかし、この公判証言は、事件発生後八年ないし九年という長い年月を経過した後の一九八九年(平成元年)及び一九九〇年(平成二年)になされたことに留意する必要がある。

また、それらの者達が目撃した後、原審公判廷で証言するまでの間の供述経過にも留意しておく必要がある。すなわち、目撃者らは、目撃直後にロス市警捜査官に供述して以降、保険会社の調査関係者の面接調査や日本のマスコミ関係者から事情を尋ねられ、ロス郡検捜査官に事情を聴取され、連邦地方裁判所から任命された執行官等の面前で宣誓供述書を作成し、その後に目撃者中の三名が原審法廷で証言し、証言後にも、弁護人やその依頼を受けた私立探偵から事情を聴取される等している(ただし、ニーリーだけは、目撃四年後の一九八六年一月八日のロス郡検捜査官報告書が公の供述としては最初である。)。

2 ソルターは、本件発生直後に現場に近寄って、Cや甲野の状態を観察・通報した点に特徴がある。同人は、このときの印象について、「男は取り乱しており、ショック状態にあるように見えた、興奮状態であったので、負傷原因を聞かなかった、倒れている女性の頭の周りにお金が散乱していたので、強盗事件とは思わなかった、男が車のそばに立ち、女性を指しているのに女性を見ておらず、冷ややかな感情を表していると感じた」等と述べている(ソルターの一九八一年一二月一七日の事情聴取書[甲三八六、三八七]、一九八八年六月一六日の宣誓供述書[甲二七、二八])。しかし、警察官のカンザキは、甲野の状態について、ヒステリカルな状態で、妻が撃たれたにしては冷静との印象は受けなかったと述べており(カンザキの一九八八年六月二〇日の宣誓供述書[甲二九二、二九三、152-2123)、両者が受けた印象は同じではない。

3 このほか、銃撃状況なり銃撃現場に関する証拠としては、事件当日の午後零時四五分ころから捜査官リースによって撮影された現場写真一七枚(リース写真)、Cの体内から摘出された弾丸その他Cや甲野の受傷状況に関する証拠、現場に遺留されていた物件(薬きょうの捜索がされたが、発見されなかった。)、甲野らが事件前に現場付近で撮影したと思われる写真(いわゆる甲野写真)、この甲野写真の検討・分析に関する捜査結果、事件後にロス警察によって実施された事件現場の実況見分調書、日本側捜査官が甲野写真、リース写真、乙野バン(サシャーバン)その他を資料として犯行現場の状況を再現し、その再現結果に基づいて銃撃可能地点や視認状況等を検証した捜査結果、そして、それらの捜査経過に関するアメリ側及び日本側捜査官の各供述等が主な証拠とされている。

4 甲野の供述の主なものは、ロス市警捜査官への供述(前述のテープを含む。)、保険会社関係者への供述、マスコミ関係への発言あるいは手記、労災請求上申書(昭和五八年三月一四日付け)等であり、我が国の捜査官に対する供述調書は、本件に関しては全くない(殴打事件に関しては調書が作成されているのに、銃撃事件については全くない。)。捜査官に対するこの対応はやはり特異であって、十分の留意と慎重な検討が必要である。乙野の供述は、殴打事件についての参考人調書(昭和五九年四月)以降、主として銃砲刀剣類所持等取締法違反による逮捕・起訴、銃撃事件による逮捕・起訴までの間に多数作成され、また別件に関する裁判所での証人尋問調書が提出されている。

四  被害及び現場の客観的状況

1 C及び甲野の受傷状況

(一) Cについて

石山昱夫の原審証言(153-2301,153-2396)、同人作成の鑑定書(甲四二四)、トーマス・ノグチ作成の鑑定書(甲一〇二九)等を総合すると、Cを銃撃した弾丸は顔面左頬骨突起部の下から射入して頭蓋骨中心部に向かい、中頭蓋窩の内側、頭蓋骨底に衝突してそこに陥没を作り、弾丸が破裂・分散して、この破裂によって頭蓋骨底を覆っている脳硬膜は大きく裂傷を作り、大きな破片は脳硬膜下にのめり込んでいる。そして、弾丸の射入方向及び射入角度は、Cが立位で顔面を正面に向けていた状態を基準として、正中面に対して三〇ないし三三度内外の左外側から射撃されたものであり、仰角は一六度内外であった(なお、原審証人石山昱夫は、一六度というのはレントゲン写真上の投影角であるから、プラスマイナス二ないし五度程度の誤差を見込むのが適当であると述べている。)。更に、頭部への射創により瞬時に意識を喪失し、射撃方向の延長上に転倒したものと認められる、とされている。

(二) 甲野について

トーマス・ノグチ作成の鑑定書(前出)、検証調書(153-2380)等を総合すると、弾丸は、本人が正面に向けて直立している状態を基準として、本人のほぼ正面から左大腿前外側部へ向かっており、足の前後線から見て、前方から左前外側部の皮膚を貫いて後方へ、また方向を変えずにほぼ水平方向に進み、皮下組織並びに大腿筋を貫通、左大腿骨外側面に激突して、その厚い骨を貫き骨髄内に進入、弾は大腿骨に衝突したため破裂し、その結果三〇以上の小さな弾の破片が大腿骨の左外側にある筋肉を含めた柔軟組織を貫き、扇形に跳ねて散らばっている。検証調書と照合してみると、甲野の傷口と大腿部内の弾丸の破片の状態から見て、弾丸の飛来方向はおおむね左前方三〇度の方向であった可能性が高いとされている。

2 凶器

大町茂の原審証言、同人作成の鑑定書(甲四二一)、スラック作成の銃器・爆薬証拠品分析報告(甲一〇、一一)、バーグ作成の鑑定書(甲一〇〇〇、一〇〇一)、トーマス・ノグチ作成の鑑定書(前出)等によると、Cの頭部から摘出された弾片等に基づいて、凶器は二二口径ライフル銃で右一六条の線条痕を持つ物、弾はホローポイント弾と鑑定されており、この鑑定結果を疑問とする根拠はない。甲野の左大腿部に撃ち込まれた弾丸の破片は、未だ摘出されておらず、その大腿部に残留したままであるが、レントゲン写真等によって推認することは可能とされ、トーマス・ノグチの前記鑑定書等によれば、それぞれの破片の大きさ、数、割れた形、貫通力等からみて、Cに対して使用されたのと同一又は類似のライフル銃で銃撃されたものとされている。その鑑定結果を疑問とする根拠も見当たらない。甲野が自分で自分の大腿部を撃つことを想定するときは、凶器としてピストルの使用を疑いやすいが、証拠上は右のとおりである。

3 現場の遺留品など

領置された主な遺留品は次のとおりである。

(一) カメラ

甲野は今回の渡米にあたってカメラを携帯し、事件当日そのカメラを使用して甲野写真の撮影等をしていたという。リース写真(甲一四、一五、物一四二・同押号の七)中で、甲野車のボンネット上に置かれた状態で写っているのがそのカメラであり、甲野車の助手席床上に写っているのがそのカメラのケースの一部と思われる。捜査の主担当であったグレイは、原審証言において、同人らが事件現場にあったカメラを警察署に持ち帰り、その中のフィルムを現像するなどしたが、カメラ自体は証拠品として押収せず、その後甲野か甲野の周辺の誰かに返還していると思うと述べている(152-1939,152-2021)。これに対して、甲野は、ロスへ持っていっていたのはフラッシュフジカのデート機能なしのカメラであったが、まだ返してもらってないと言い、両者の供述が対立している。しかし、関係証拠によると、カメラについては正式な領置手続がとられておらず、関係書類(財産報告書[物二〇、二一])上は、カメラからフィルムが取り出されたことの記載しかないこと、Lの原審証言中にある、カメラを病院内の甲野らが寝泊まりしていた施設内で見た、甲野からフィルムはロス市警が持っていったが、カメラは返してもらったと聞いたという供述部分(165-5681)等からみて、甲野に返還されたと考えるのが自然とみられる。そして、事件後甲野は父のHにカメラを譲渡し、そのフラッシュフジカデート付きのカメラが同人から提出されているところ(物八一・同押号の一一六)、検察官は、本件犯行当時甲野が使用していたのはこのカメラであると主張し、甲野はそれとは別物で、事件後新たに同タイプのカメラ(ただし、デート付き)を購入して父に譲渡したと主張している。しかし、そのカメラ製造会社に勤務して、カメラ設計等の仕事に従事してきた稲葉庄二は、原審証言(190-10707)中で、リース写真に写っているカメラケースの特徴からみて、そのカメラはフラッシュフジカのデート付きであると述べ、甲野の供述を否定していること、更にこのカメラは、製造番号からみて昭和五六年一月製造のもので、その直前及び直後の番号のカメラが東京都内で販売されている事実からみて、その中間のこのカメラも同様と思われると述べていること等の諸点からみて、甲野が本件当時持っていたのは別のカメラであったとする同人の供述は信用し難い。

(二) ネガフィルム(物二四・同押号の一三一。以下、甲野フィルムという。)。

事件当日、甲野がCCMを出てから、事件現場に到達して銃撃事件が起こるまでの間に撮影された写真フィルムである。これを捜査官が事件現場で入手したことは疑う余地がないが、それが事件現場で発見されたカメラに入っていたものかどうかについて争いがある。グレイ捜査官は、前述のとおり、これは事件現場で入手したカメラに入っていたものであると言い、甲野は、これは、事件現場でカメラの調子が悪かっためカメラから取り出して甲野車の中に置いていたものであって、捜査官が持っていったカメラにはその後に新しく入れ替えた別のフィルムが入っていた筈であると主張する。甲野の言うところが事実であるとすると、カメラの中にあったフィルムが別にもう一本存在したことになるが、記録上この主張を裏付ける痕跡は全くなく、信用すべき根拠がない(財産報告書[物二〇、二一]の記載も、甲野フィルムがカメラから取り出されたものと読める。)。いずれにしろ、このフィルムが、事件当時現場で撮影されたことは明らかであり、重要な資料として検討を要する。

(三) 甲野のサングラス(物一一・同押号の一一九)

財産報告書(物一、二)によると、一一月一八日の事件当日、捜査官によって、オフセット駐車場に駐車していたフィアット(南から四台目、西向きに駐車)の運転席側後輪付近路上から発見されたとされている。リース写真(前出)にも、右位置付近にそのフレーム、レンズなどが写っており、その事実が裏付けられている。何故この場所へ落ち、破損したかは全く不明である。

(四) 甲野のシャツ(物二七・同押号の一三三)とそのボタン(物三〇、三三・同押号の一三四、一三五)

一一月二三日に、甲野がグレイら捜査官に、当時着用していたものだとして男物のシャツを提出した(財産報告書[物二〇、二一]、時系列記録[甲三九七、三九八]、再事情聴取書[甲四〇七、五六一])。シャツのボタンが二か所取れていたが、一一月二五日に行われた捜査官の再度の現場捜索の結果、前記フィアットの左右後輪付近から各一個、合計二個発見された(財産報告書[物二〇、二一]、時系列記録[前出]、再事情聴取書[前出]、グレイの原審証言[151-1895,152-1967,2030,2033])。発見された二個のボタンは、そのシャツから取れたボタンに相当する(証拠品分析報告[物三四、三五])。何故ボタンが取れて、この場所へ落ちたのか、そのことに甲野がいつ気づいたのか等の点は、サングラスの場合と同様に、証拠上不明である。甲野が、ボタンが落ちてしまったことを強盗被害と結びつけ、これを裏付けるものとして特別言い立てたような情況は、証拠上認められない。

(五) 旅行カバン(ナイロン製のバッグ)及びその在中品等

これらは、甲野の主な所持金品を入れたものであるが、当初は甲野車の中にあり、甲野と共に病院に運ばれた。病院でこれを保管する際、その中の貴重品について貴重品記録が作成された(甲四一六、四六一)。それによると、現金5546.30ドル、日本円一一万二五〇〇円、旅行小切手一三〇〇ドル、インターナショナル・マスターチャージ、東海、ユニオンクレジット、日本航空クレジットカード、LAマート・バイパス、パスポート二通が記録されている。本件の犯人が真実強盗であるのならば、何故現場にエンジンをかけたまま停めてあった甲野車の中を物色しなかったのか疑問がないではなく、その点は、後記のCのポシェットから取り出してまき散らされたとされる金銭の場合と同様である。

(六) 甲野のズボン

病院の衣類記録には記載がない。甲野と共に病院に行ったカンザキは、ズボンはベッドの下に置かれたといい、事件後病院に駆けつけた乙野らの供述によると、看護婦がぼろぼろになったズボンを乙野らに一旦示した後どこかに持っていったとされている。事件当日に処分されてしまった可能性が高く、それ以上のことは不明である。

(七) Cのポシェット(物七四・同押号の一三八)、小銭入れ(物一九・同押号の一三〇)

事件直後には、紐がCの身体に掛かったままの状態であったが、救急上の必要から、切断された。その後現場から病院に持ち込まれ、その後どの時点からか甲野が保管していたところ(甲野の手に入った経緯は不明である。)、一一月二四日にカトウ捜査官らが病院を訪れた際、甲野が申し出て提出し、これを捜査官らが持ち帰った経過であったことが明らかである。その後、このポシェット、小銭入れは、証拠品として領置された(財産報告書[甲一五、一六])。

(八) Cの装身具

Cは、指輪(金の指輪二本、銀の指輪一本、)、ネックレス(金のチェーンのネックレス一本)、ブレスレット(金のチェーンのブレスレット二本)を身に着けていたようであるが、これらは、病院に運び込まれ、貴重品として保管された(捜査官報告書中の「貴重品記録」[甲四一五、四六〇])。その後、Cの退院にあたって返還されたと思われる。なお、これに関連して、甲野は、Cがダイヤの指輪をしていて犯人に盗まれたと説明して保険金を請求していたが、そのダイヤの指輪は、その後昭和六三年八月一六日に捜索差押が行われた際、東海銀行原宿支店の甲野名義の貸金庫内から発見された(物三七三、甲五四〇、五四一、五四二)。甲野は虚偽を記載して保険金請求をしていたことになるが、同人は、Cが渡米の際に持っていったのをその指輪と間違って認識していたもので、別のダイヤの指輪が盗まれたことに間違いはないと弁解している。

(九) 紙幣(物五号・同押号の一一七)、化粧品等(物一四・同押号の一二〇ないし一二九、一三二)

オフセット駐車場に駐車中であった車両のうち、南から三台目の後部付近、すなわちCが倒れていた付近に、Cのポシェットに入っていたと思われるきっちり一〇〇ドルの紙幣(二〇ドル札が四枚、一〇ドル札が一枚、五ドル札が一枚、一ドル札が五枚、合計一〇〇ドル、甲一六参照)、化粧品等が散乱していた。その様子は、前記リース写真によって明らかである。しかし、リースがこの写真を撮影したのは、事件当日午後零時四五分からのことであったから(前記時系列記録[甲三九七、三九八])、事件後の救護活動等によって、事件直後の様子に多少変更が加えられているかも知れない。それにしても、何故きっちり一〇〇ドルなのか。Cは前日に甲野のセーターや自分の下着を買い物した事実があるから、釣り銭や買い物のレシート等を一緒に持っていてもよさそうなのに、それらが全く発見されていないことも、右金額と並んで注目される。これらの紙幣、化粧品等は証拠品として領置され、財産報告書(物一、二)にも記載されている。

4 車両等の位置関係

本件発生当時のオフセット駐車場付近の駐車車両、甲野車と白いバンの位置、銃撃を受けたときのCと甲野の位置、甲野写真13の撮影地点等は、後述の点を別とすれば、検察官が主張する別紙図面1のとおりである(原審第七六回公判で、証人白瀬敏雄に法廷資料七として提示されたものであり、更に論告要旨別冊Ⅲ―12として、検察官の主張を明確にするため利用されている。論告四八〇頁参照。なお、この図面は、事件発生当日にロス市警捜査官リースによって撮影されたいわゆるリース写真、目撃者らの目撃状況、現場付近を撮影した甲野写真、これらを基にした実況見分、鑑定結果等を総合し、これらに基づいて再現されたものである。写真計測結果報告書[甲四二九]、写真鑑定結果報告書[甲五四八]、実況見分立会報告書[甲五四九]参照。なお、右実況見分立会報告書によると、駐車車両の配置については、リース写真を基に、代用車を実際に配置して、これをリース写真のリスフィルムに重合させながらその位置を特定している。バンの位置については、まず、甲野写真13の撮影地点を特定した上、その写真の左下隅に写っている物体をエコノラインと想定して割り出している。甲野車の位置については、同車が事件後に救護等のために多少動かされた事実があるので、リース写真に写っている甲野車の位置を基準としては事件当時の位置を定めることができない。そのため、甲野写真13に写っているとされる甲野車のアンテナを指標として利用し、同写真の撮影地点にカメラを設置し、同写真と同じ撮影方向を向いて、右のアンテナが同一の位置に入り込んでくるところまで車両を進行させて、甲野車の位置を特定したとされている。)。

この図の中で、Cが銃撃される直前に立っていた位置は、おおむね右図面中のW点からV点の間と想定される。現場に到着した捜査官(バーンズ、コントラレス)、救急隊員(ジェインズ、グリーン)らがCの倒れていた位置関係として供述しているところや、車両の位置、路面に転倒したCの身長等に基づいて想定されたものである。また、甲野が銃撃を受けた位置は、前記の水道局の目撃者らの供述によれば、本件オフセット駐車場に駐車していた車両のうち、南から三台目と四台目の駐車車両の間のA点ないしB点付近と考えられるが、甲野本人は、事件後間もない一二月四日のロス市警の事情聴取に際して、それよりは、もう少し東側の、南から四台目の車両の左後輪の付近、つまりC点付近を指示したことがあり、その意味でC点も可能性のある位置として検討対象とされている(確かに、甲野のサングラスやボタンの発見された位置(リース写真ナンバー12によると、サングラスのフレームやレンズは、右の四台目車両の左後輪の付近にあったとされており、またボタンは、グレイの原審証言[151-1895,152-1967,2030,2033]によれば、一個が同車右後輪付近から、もう一個が同車左後輪に近い三台目車両の後部付近から発見されたとされている。)からすると、甲野が銃撃された地点がC点付近である可能性も否定できない。しかし、甲野は、原審公判廷では、検察官が想定する地点よりはもっとハイウエイ側の地点で銃撃されたと説明している。甲野が銃撃された地点の特定は、甲野が銃撃されたと主張する地点からの銃撃が可能かという問題の検討に際して重要である。)。

ただし、これとは別に、車両やCの倒れていた地点の位置関係等の見分結果を示している証拠がある。その一は、一九八七年(昭和六二年)七月一七日に本件現場等で行われた実況見分(甲一七、一八)であり、その二は、一九八八年(昭和六三年)五月二〇日に本件現場で行われた実況見分(甲一九、二〇)である。前者の見分は、水道電力局からの目撃証言を補強するため、目撃者であるアルガイヤー、イエシド、ニーリーらが立ち会ってなされたもので、これによれば、白いバンの位置は、検察官の主張よりやや南東寄りに、甲野車は相当に北東寄りになっていて、両車両を東側ビル方向から見たとき、甲野車の後部側車体が半分以上バンの後方にはみ出して見える位置関係となっている。また、後者の見分は、目撃者(シャーマン・ソルター)、消防局局員(消防士グレン・ジェインズ、機関士ライル・ニーリー、救急隊員ケビン・ナイダ、同チャーリー・マグダリーノ等)、警察官(ダニー・コントラレス、ペリー・バーンズ、トーマス・ウオン)らの目撃状況に基づいて、C及び甲野の動き、二人の位置、甲野車の位置を明らかにするために行われたもので、この実況見分に基づく位置関係の概略は別紙図面2、3のとおりであり、Cが倒れていた位置は、本件駐車場に駐車していた六台の車両の南から三台目の車両のすぐ東側で、頭を西側やや南寄りにし、身体をまっすぐにして(つまり、車の側面のラインに平行に近い形で)、仰向けに倒れていたとの指示がされている。甲野車については検察官が主張する位置よりは相当に北東寄りである。この位置関係は、当時実際にCが倒れていた状況を見た者達の現場での指示に基づいているから、その意味で重視されてよい。それによると、甲野車の位置は検察官の主張と多少異なっているところ、この実況見分にはソルターなど比較的早い段階で現場に駆けつけた者も参加し、同人は甲野がとった行動を指示・説明していると思われるから、軽視できない。検察官が想定する位置は、これら関係者の指示供述と比較対照すると、甲野車と駐車車両との間が狭過ぎ、したがって、Cが立っていたとされる位置の周辺が窮屈過ぎて、不自然との印象を拭えない。しかし、とりあえずは検察官主張の位置関係を前提として検討し、必要に応じて右の点を考慮すれば足りると思われる。

以上の諸事情を前提として、以下、検察官が控訴趣意書で指摘している争点の順序におおむね沿って、検討、判断する。

第四  共犯者に必要な条件について(控訴趣意中、「共犯者の条件とこれを満たす人物」の主張)

所論は、要するに、本件犯行は甲野の発意に基づき、銃器を使用して、ロス市内で行われた点からみて、銃撃を実行した共犯者は、次の条件を具有した者である筈であるとし、

(a)甲野となんらかのつながりのあった人物であること、(b)甲野が信頼をおいていた人物であること、(c)甲野の近くにあって、同人を信用していた人物であること、(d)本件当時ロスに居住し(又は少なくともロスでの居住経験を有し)ていたこと、(e)ライフル銃の扱いに慣れていたこと、(f)米国製バンの運転経験を有していたこと、(g)日本語が通じること、(h)男性であること、(i)甲野が殴打事件に至るまでの共犯者物色過程で候補者として念頭に浮かべたことのある人物であること等の諸点を挙げている。そして、これらの条件を指標として広範な捜査を進めた結果、すべての条件を満たしている人物としては乙野のほかにはほとんど存在しないと認められるのに、原判決はこれを受け入れず、「検察官が条件を具備するか否かについて検討した対象者は、主として、乙野と甲野が、ロスにおける甲野の交友者として名前を挙げたものに限られており、ロスに居住していたか、もしくはかつて居住したことがある者であって、かつ日本語の通じる者全員を対象に検討したわけではないから、この検討をせずして乙野が条件を満たすほとんど唯一の人物であるとすることは相当ではない。」と判断した。しかし、この判断は、次の二点において不当である、すなわち、第一に、検討した対象者の範囲は、原判決がいうような、「主として、甲野あるいは乙野がロスにおける甲野の交友者として供述する人物」に限定されてはいない、第二に、検討した対象者が、共犯者となり得べき甲野の関係者の全員ではなかったにしろ、共犯者に必要とされるこの条件をよく吟味していくと、そのすべてを充足する人物としてはやはり乙野のほかにはほとんど考えられない、というのである。

そこで考えるのに、日本に住む甲野が殺人を計画し、これをロスにいる共犯者に持ちかけて同人が実行するという検察官の描く本件の基本的構図を前提にすれば、その犯行の共犯者となり得るためには、その者についていくつかの適格条件が必要となることはそのとおりであろう。適格条件がある筈だという発想自体に問題はない。ただ、この条件が持つ意味については、一言指摘しておかなければならない。それは、現実の共犯者には、検察官がここに掲げている適格条件のほかにも、犯行を可能とする諸々の条件が必要と考えられ、ここに挙示された条件は、そうした多くの適格条件のうち主として犯人の属性に関するものを掲げているに過ぎないのではないかという点である。例えば、検察官が挙示する条件をすべて兼ね備えている者がいたとしても、その者がすぐに犯行への加担を応諾してくれるとは限らない。殺人という重大な犯行への加担を決断するには、その者にとってそれなりの動機がなければならないから、そのような動機があることも、犯行の前提条件として必要だと判断しなければならないであろう。また、もし検察官が主張するように、日本に住む甲野からの加担依頼であったとすれば、ロスにいる共犯者にとっては、犯行計画の詳細な打ち合わせを必要とすることになるであろうから、その打ち合わせを、どのような機会にどのような方法で行うことができるかという、その者にとっての謀議可能性も、同様の意味で前提条件としなければならないであろう。更には、本件犯行の態様からみて、犯行に使用するバンの準備、凶器として使用する足のつかないライフル銃の調達、習熟、処分方法、特に犯行にあたっては被害者を銃撃するだけでなく、その直後に甲野の身体の一部をねらい撃ちし、そうすることによって被害者であるかのように偽装する計画であったとすると、甲野としてはその共犯者の狙撃の腕前を、犯行前に、単に聞きおくだけでなく実際に確かめておかなければ安心できないであろうから、それらの点を事前に確認する機会を持つことも欠かせない前提条件と判断されるかも知れない。また、犯行に加担した場合の報酬については、事柄の性質上、普通なら前金が必要なところであろうし、そうでないならば、最終謀議の中で、少なくとも金額、支払時期、支払方法等があらかじめ明確に約束されていることが前提条件となろう。ともあれ、こうした諸条件がすべて満たされていなければ、最終的には、条件具備と判断することはできないのであって、その意味からすると、検察官がここに指摘している適格条件は、そうした多くの条件の一部でしかないことを念頭に置いておくことが必要である。

一 検討された対象者の範囲について

まず、検察官が検討した対象者の範囲について、原判決が、それは主としてロスにおける甲野の交友者として名前の挙げられた者に限られていると判断したことの相当性の点から検討する。当審における証人若林忠純(以下、単に若林という。)の証言その他の関係証拠によると、その点の捜査の経過と内容は、次のとおりであったと認められ、これによると甲野周辺の人物に関しては、かなり広範囲に及ぶ捜査が展開されたことが明らかで、その捜査内容は、原判決がいうような、「甲野あるいは乙野がロスにおける甲野と交際のある人物として供述する人物」に限定して条件具備の有無を検討していたわけではなかったとみるのが相当である。したがって、原判決の判示は、その点に関しては、必ずしも適切とはいい難い。すなわち、

1 昭和五八年一二月に、山口県警から警視庁に対して、行方不明となっている白石千鶴子の捜索依頼があり、これに基づいて同女と交友関係のあった甲野の基調捜査が開始され、続いて同五九年一月一九日、週刊文春がいわゆるロス疑惑報道を開始して以降、警視庁において、本件銃撃事件等の捜査も開始されたこと、

2 昭和五九年七月一三日、D(以下、Dという。)から警視総監宛にいわゆる殴打事件に関する上申書が提出され、同六〇年一月、甲野がロンドンから帰国したのを機に、同年四月からいわゆる殴打事件を中心とする捜査が展開されたこと、

3 殴打事件の関係では、同六〇年九月一一日に甲野が、翌一二日にDがそれぞれ殺人未遂の疑いで逮捕され、同年一〇月三日に両名とも殺人未遂を公訴事実として起訴されて捜査に一応の区切りがつき、その後捜査の重点は銃撃事件に移行したが、銃撃事件の捜査に当たっては、甲野が誰かに銃撃行為を依頼して実行させたとの想定のもとに、実行犯割り出しを当面の標的として行われ、その捜査の必要上、実行犯人が備えていると考えられる一応の適格要件を想定し、捜査の指標として利用したこと、

4 当初に想定された適格要件は、(a)本件時ロスに滞在していること、(b)日本語が話せること、(c)ライフル銃を使用し撃つことができること、(d)国際免許を有し又は運転能力のあること、(e)例えば身軽な者とか、金銭に窮した者とか、甲野からの犯行依頼を受け入れる可能性があること、(f)例えば会社を辞めるとか、外国に出入国するとか、犯行前後に何らかの変化があること、(g)多額の報酬を得た可能性があること、以上であったこと、

5 各種の捜査資料を基にして捜査対象を広げるうち、具体的に捜査対象として取り上げたのは、(ア)甲野の関係する会社(フルハムロード、甲野ドレス、甲野兄弟商会、Mオフィス等)の従業員・アルバイト関係、(イ)フルハムロードの取引先(フルハムロード以外の甲野が関与する取引先は入っていない。)関係、(ウ)フルハムロードの海外取引関係、(エ)甲野の女性関係やホモトルコ関係、ホテル等の宿泊と同伴者の有無等の状況、(オ)甲野が出入りしていたその他の場所(喫茶店、飲食店等)の関係、(カ)架電状況、(キ)保険の関係、(ク)Cや甲野の親族から得た情報の関係、(ケ)甲野の住所の近辺者、服役中の文通・面会者、前刑時の共犯者、その他捜査の過程で特に浮かび上がった人物等、かなり広範囲にわたっていたこと、

6 右のとおり広範囲に及ぶ捜査をしたが、最終的に不審者は浮かばなかったこと。すなわち、従業員関係では、資料によって把握した七五名全員について事情聴取を行うとともに、最終的にはほぼ全員について裏付け捜査をしたが、そのうち出入国記録のある者は七人、本件当日外国にいた者は一人で、渡航事情から判断して容疑性は認められなかったこと、

フルハムロードの国内取引先関係では、四三業者について、フルハムロードとの架空取引の有無を中心とする捜査をし(報酬が取引を仮装して支払われていないかの点を含めて)、更にそれらの従業員の中に甲野の共犯者がいないかという観点からも捜査したこと、その結果、甲野と私的交際があると認められた者約一〇名について前同様の捜査をしたが、本件当日海外にいた者は見当たらなかったこと、

海外業者との取引関係では金銭関係の捜査が中心であったが、不審な点は発見されなかったこと、

甲野の女性関係については、甲野から押収した手帳ほかから交友関係が割り出された女性三三名(女性以外の者として、ホモトルコ等三件)、Dの供述から明らかになった女性三名、関係者の聞き込みによって判明した三一名の合計六七名を把握し、本件は男性による犯行とみられたために、ほとんどの者につき参考人として事情聴取をし、必要な範囲で渡航の調査もしたが、参考になる情報は得られなかったこと(ただし、事情聴取を行った女性は全員甲野を知っており、肉体関係を持っていた者が二四、五名、うち二名については特に注目して事情聴取を行ったが、さほどの情報は得られなかったこと。)、そのうち本件当日海外にいた者は五名であり、うち三名について事情聴取を行ったが、特段の容疑性は認められなかったこと(当審係属中に、当時照会していた一四名のほかに、五三名について渡航の調査を行ったが、犯行当日海外にいたものはいなかった。)こと、

一般の交友者関係では、本件と多少ともつながりのある者として、保険関係者、ホモトルコの店長や従業員、前刑時の共犯者、服役中の面会者、文通者等八名を選び出して捜査したが、本件当時は全員国内にいたことが確認されたこと、

7 マスコミで報道されたことのある者として、美濃屋功、齊藤公彦、渡辺哲、川口直樹、リチャード・モーリンの五名、及びこれに付随して浮上した他四名についても捜査したが、美濃屋は甲野との面識関係が認められず、疑わしいと指摘された点も証拠上否定されて、事件とは関係がないと判断され、齊藤は日本側の捜査が始まる前からロス郡検で捜査されていて、昭和六〇年一〇月にピストル購入時の虚偽申告の関連で逮捕され、同六二年一月に強制送還されたが、ロス側の捜査では本件との関連性は立証されず、日本側の捜査によっても甲野との面識がないし、疑わしいと指摘されていた諸点についても、齊藤に有利な方向で解明され、本件とは関係がないと判断されるに至っており、川口は甲野とロスへの渡航時期が重なる点があったり、また甲野との面識があったりするものの、事件後の昭和五七年秋ころに甲野と一度会ったという事実しか認められず、事件との関係は否定され、渡辺は本件発生当時、香港ツアーに参加中でアリバイがあって、事件との関係は否定され、また原審公判係属後に甲野からの送金関係について補充捜査がされたが、不審な送金はないと認められたこと、リチャード・モーリンは甲野との間にマリファナの取引等があった上、甲野からけん銃の入手を頼まれたとか、銃を撃てるかと聞かれたとか、始末して欲しい人間がいるといわれたなどと供述している事実は認められるが、同人の供述には誇張が多く、マスコミに謝金を受け取って情報を流したりしている人物で信用できないこと、日本語をよく話せないことなどの点を総合すると、本件とは関係がないと判断された等とされている。また、付随的に捜査した四名についても、いずれも本件と無関係であることが確認された、というのである。

ところで、この種の資料による対象者のリストアップは、対象者をできるだけ広い範囲から取り上げ、問題人物をすべてを網羅すべく努力しても、なお限界があるのが実際である。原判決がいうように、甲野は共犯者の名前をできるだけ秘匿しようと努めるであろうし、また乙野が関知しないロスでの甲野のプライベートな部分もあって、どうしても漏れが生じることを根本的に避け難い。所論は、ロスで甲野が出入りしていた飲食店の従業員や客、例えば寿司職人福原光治のような人物とか、大麻関係で交際していた人物ならば他にもいる可能性は否定できないとする一方で、このような人物はせいぜい一〇名前後の男性と考えれば十分であり、その者らについて共犯者として具有すべき条件を重ね合わせれば、人数は限られるという。しかし、その点を何名と考えるにしろ、このような捜査の手法には、対象者中に共犯者が含まれていることを高い確度で信じてよいかどうか分からない点に難点があり、その疑問が解消できない以上、原判決の判断が間違っているとはいえない。

二 共犯者に必要な適格条件について

次に、検察官が挙示する個々の条件は、本件の共犯者、すなわち銃撃犯人を絞り込むのに実質的に有効な条件といえるか、また乙野はそれらのすべての条件を具備しているといえるかを検討する。そのことに関しては、先ず適切な条件設定が不可欠であり、本件では特にその必要が強く感じられるが、検察官が挙示している条件には一部妥当性に疑問の持たれるものもあり、乙野についての条件具備の状況が内容的に犯人性を推認させるかは疑問である。

1 本件の犯行内容その他の情況事実から共犯者に必要とされる適格条件を類型的に割り出し、これによって犯人を効果的に絞り込むためには、適切な条件設定が不可欠であるとともに、それがまた至極困難な点である。適切な条件が設定されたために対象者を効果的に絞り込むことができる場合もあれば、適切でなかったために、割り出しの容易な者だけを選りだして、真に対象とすべき者を水面下に漏らしてしまう結果となる危険も少なくない。概してばらつきを避けられない手法と思われる。

本件では、甲野から違法行為への加担を打診されたと供述するかつての従業員野澤清重、前記の福原光治、フルハムロードの従業員O、女友達のD、ロスの旅行代理店経営者渡辺哲らは、いずれも後述するとおり、甲野との接点が乏しいか、又は外部から推知されにくい者達であり、しかも犯行に加担した後は姿をくらますことをほのめかされたと述べている点が注目され、そのことからすると、本件は、本来対象者として取り込むべき者を漏らす危険の多い場合とも考えられるから、適格条件の設定やその具備状況の判定に当たっては、その点について格別の注意が肝要である。所論もそのことを意識し、甲野には、ロスでの大麻の入手先等のほか、外部に知られていない人のつながりがあった可能性を否定できないとしている。

2 検察官が挙示する条件の内容は、検察官が描く本件犯行の基本的構図を前提とすれば、一応もっともな内容といえるが、個々の条件の内容を子細にみてゆくと、それらの中には適切な条件設定とは必ずしもいえないものが含まれている。

例えば、前記(f)の、「米国製バンの運転経験を有していたこと」という条件は、車の運転経験一般でなく、特にバンの運転経験とすべき必要があるのか疑問であるし、またそれは、一見すると、バンを仕事用に運転している者を一般的に対象者とする形式を取りながら、実は初めから対象者として乙野を想定し、同人に当てはまるように条件を設定したのではないかとの印象を拭えない。

また、前記(e)の、「ライフル銃の扱いに慣れていたこと」という条件は、もし言葉どおりならばかなり問題があると考えられる。すなわち、検察官の主張によれば、本件では、甲野は被害者を偽装するため、犯行当初からライフル銃で自己の大腿部を銃撃させることを予定していたというのであるから、そのとおりならば、甲野は自己の身体を大変な危険にさらすことになり、ライフル銃の威力からみて、大腿部に生じる負傷の程度をどのように予測すべきか、多少手元が狂っても本当に生命を失ったり片足を失ったりするおそれはないのか、特に女性関係の多い甲野の場合についていえば、撃ち損ないによって生殖機能まで失ったりする危険はないのか等々の点について、それこそ容易ならざる事態の心配をせざるを得ないであろう。したがって、共犯者の銃撃能力は、本件ではかなり吟味を要する適格条件であった筈と考えられる。特に、甲野としては、少なくとも犯行前に、その点を他人任せにしないで、自分で確認したくなるのが当然と考えられよう。乙野は、かつて練習場で何回か射撃練習をしたことがあるとされているが、その程度の射撃能力と経験では、銃撃時の状況にもよることではあるが、本件銃撃犯人として適格条件を備えているとはいい難いと考える方が自然と思われる。いかに至近距離からの銃撃であるといっても、いつ相手に気づかれないとは限らない状況であったし、特に撃たれる立場の甲野としては、とても信頼して自分を銃撃することを任せられる状況であったとは思えないからである。検察官も、控訴趣意中で、本件の共犯者は、二二口径のライフル銃で頭部を撃てば殺すことができ、大腿部を撃つだけなら致命傷に至ることは決してないということを知っており、また、Cの隙を見て手際よく発砲し、しかも撃ち損じることがないだけの技量を持っていた者としているが、確かにそのような技量、経験を持った者でなければ、該当しないと考えるのが適当であろう。そうすると、単に「ライフル銃の扱いに慣れている」という程度の条件で満足できるものではなかった筈と考えられる。

更に、前記(i)の、「殴打事件までの共犯者物色過程で候補者として念頭に浮かべたことがある人物」という条件を、共犯者選定の結果についていうとすれば疑問がある。検察官は、共犯者は当時ロスに居住していた人物であるとした上で、甲野が渡米してその人物と接触できたのは八月の殴打事件の後の一週間と九月の渡米時の一週間だけであるから、それまで共犯者として念頭になかった人物に、短時日のうちに働きかけて殺人への加担を応諾させられるとは考えられない、やはり、殴打事件までの間に、甲野が共犯者として脈のある人物であると一度は思い浮かべたことのある人物である筈だ、という。甲野が犯行計画を持ちかける相手方の選定基準としては、一応理由がある条件とみえる。しかし、犯行計画を持ちかけても、その相手方に計算どおり応諾してもらえるとは限らないから、その場合にはまた別の方面に打診せざるを得なくなる筈で、応諾の結果まで含めて考えれば、一度は思い浮かべたことのある人物の方が早く決められるとは限らない。

その余の条件についても同様のことがあれこれ考えられる。そして、これらの諸条件は、射撃能力等の点を除けば、網目の粗い、それだけに絞り込み効果のあまり強くない条件とみられるから、これは、せいぜい補助的指標の程度に理解するほかないであろう(所論の中には、原判決が検察官の主張をまとめるに当たって、(i)の条件を挙げていないことを非難する点がある。しかし、それは、検察官が論告中で、これを独立項目として掲げなかったこととも関連していると思われるから、原判決の扱いに格別不当な点はない。)。

ところで、右の条件設定に関連して疑問を感じる点が今一つある。それは、検察官は、条件の設定に当たって、犯行への加担を求められた共犯者は一人であって、その者が自ら銃撃等の実行行為を行う原型的な共犯の場合を想定しているように理解されるが、本件のどこかに、共犯者を一人とする根拠が認められるかどうか、一人の共犯者を介して、更にその先にいる者に銃撃行為の実行を持ちかける場合を全く想定しなくてもよいものかどうかの点である。検察官は、本件の犯行態様からみて、そのような可能性はないと考えてよいという。つまり、そのような場合には、犯行露見の可能性が強まるから、おそらく相手方は報酬の事前支払いあるいは犯行現場での授受を要求し、金銭の動きがあってしかるべきだと思われるのに、本件ではそうした事実が認められないというのである。これも一つの意見ではある。しかし、本件は、極めて短時間のうちに二発の銃撃を手際よく行っているのであり、素人の犯行というよりは、銃の取り扱いに相当に手慣れた者の犯行ではないかと感じさせる点がある。また、検察官の主張によれば、銃撃した直後の、犯人としてはおそらく目撃を恐れて慌てていたであろう時期に、Cのポシェットの内容物を取り出して付近にばらまいたり、ライフル銃による銃撃ならば現場に残しそうな薬きょうを一つも残していなかったりする点からも、素人の仕業とは思い難く、共犯者を一人と決めてかかってよいものかどうか疑問がないではないからである(乙野やその弁護人は、公判廷で、最も疑わしい共犯者として、渡辺哲の名前を挙げている。これに対して、検察官は、渡辺は本件当時香港ツアーに参加中でアリバイがあるとした。しかし、検察官のこの判断は、共犯者が一人であることを当然の前提としている。もし共犯者が二人、すなわち渡辺を介してその先の者に依頼した場合を想定すると、依頼した渡辺としては、本件時には外国にでも行っている方が好都合となるから、この場合にはアリバイがあるのではなく、アリバイを故意に作ったと評価すべきことになり、事態は一挙に異なってくる。ここで渡辺の場合を例として取り上げたのは、同人が関与したと認められるからではない。同人のアリバイを例としつつ、共犯者を一人と想定するか複数と想定するかだけでも、設定条件の果たす機能が大きく影響されることを示したかったからである。)。

3 それでは、乙野はこれらの適格条件をどの程度具備し、また、そのことは犯人性に実質的につながっているとみられるか。検察官は、乙野はこれらすべての条件を具備する唯一の人物であると主張するが、当裁判所には必ずしもそのようには思えない。乙野が具備している条件もあるが、そうでない条件もあるというのが、妥当なところであり、また、そのことが内容的に乙野の犯人性を推認させるかはかなり疑問とみられる。すなわち、

(一) 乙野が高度の銃撃能力を身につけていたとの点は、本件証拠上、ほとんど立証されていない。同人は、原審供述中で、せいぜい射撃場へ一〇回位行って練習をしたことがあると述べているが、甲野の大腿部を銃撃すると仮定した場合に、この程度の射撃能力で十分といえるかは大いに疑問であろうし、特に、客観的に十分であるかどうかよりも、甲野が安心して自分への銃撃を任せる気になれるものかどうか、それは疑問だとするのが普通の感覚ではないかと考えられる。

(二) 乙野は報酬の支払いに関して甲野を信用していたと考えられるか。所論は、原判決が、乙野は甲野から確実に報酬がもらえると信じていた筈はなく、検察官が設定した条件(c)を具備していない、と判示した点を非難している。証拠によれば、乙野は、フルハムロードから、約二年間にわたって、特段のトラブルもなく収入を得ていたことは間違いないから、その点に着目すれば、甲野からの支払いを信頼してよい関係にあったといえなくはない。しかし、乙野が甲野から支払ってもらえる筈の代金の中で、CBH関係の顧問料の支払いが約束どおり行われていなかったことは証拠上明白で、その点は原判決がいうとおりであるし、また乙野の立場に立って甲野の計算高い性格を考えれば、殺人という違法行為の報酬支払いに関する局面などでは、乙野が報酬全額後払いという支払方法に不安を抱かなかったとは思えない。そうすると、原判決が前述のとおり判断したのも理由のないことではない。

(三) 共犯者は甲野と何らかのつながりのあった人物であることという(a)の条件に関して、乙野の弁護人は、甲野が銃撃事件以前に何らかの形で接触し、共犯者として選択した可能性のある人物をよくみると、甲野との関係を世間からあまり知られていないか、知られていてもその関係をいつでも断つことができる点に共通の特徴がある、その点で乙野は該当しないと反論している。乙野と甲野との関係はもとより公然となっていたから(甲野は、本件の少し前ころ、その名刺に、乙野の住所をフルハムロードのロスのオフィスであるかのように印刷・表示して、使用していた。弁B五〇・同押号の二八二)、ロスで甲野に関して何かが起これば、乙野との関連が注目される関係にあったことは疑いがない。その意味では、乙野が、検察官が主張するような形態の保険金殺人の共犯者として適当な人物であったかは大いに疑問であって、検察官が、この条件の内容としていう「甲野とのつながり」は、その内容如何によっては条件とするのに必ずしも適当でない場合があると考えられる。

(四) 逆に、乙野には、共犯者として不適格な条件が備わっていた点がある。すなわち、同人は、本件前、都内にある甲野の自宅へ招かれて、被害者Cに手料理をご馳走になったことがあったし、また、本件の三か月前の殴打事件当日、治療を受けに病院へ行くCに同行したこともあって、すでにCとは面識ができていた。だから、乙野にはC銃撃の役割を引き受け難い感情があった筈であるし、それ以上に至近距離から銃撃すれば、反面相手に気づかれるおそれも強く、あるいは銃撃に失敗すれば直ちに犯人が割れてしまう危険を抱え込むことは見え透いている。だから、できれば面識のない者を銃撃犯人に選定したい事情があった筈と思えるのである。

このようにみてくると、これらの条件が乙野にぴったり該当し、同人がすべての条件を具備する唯一の人物であるなどといえる状態にあるとは到底思えない。この条件具備の有無を捜査の指標にすることの適否は別として、最終認定に当たってこれに大きなウェイトを置くのは危険というべきである。また、この点は、後で項を分けて述べる犯行の動機の有無、綿密な謀議をする機会の有無、報酬問題その他諸々の条件とつき合わせて総合的に検討する必要があることを忘れてはならない。そうすると、原判決が、乙野についての条件具備の状況を、乙野の情況証拠の中で有力なものであるとは言い難いとしたことには、十分な理由があるというべきである。

第五  乙野の犯行現場への臨場性(その一 レンタカー借り出しの関係)について

本件犯行当時、現場に停まっていた甲野車の左側に、フォード社製、白色系(以下、単に白いという。)の貨物用バン「エコノライン」と思われるカーゴバンが停まっていたのが目撃されているところ、乙野は、事件前日の一一月一七日に、レンタカー会社から、目撃されたバンと車種が同じで、車体の塗色等がよく似た貨物用バン「エコノライン」を借り出し、これを三四マイル走行させて、翌一八日、つまり事件当日に返還した事実が明らかである。そこで、検察官は、このようなレンタルの日時と車両の一致は偶然とは思えないこと、この走行距離は、借りてから下見をし、翌日犯行場所に乗って行って、それから返還した場合の走行距離にほぼ相当していること、借り出されたバンの使途を調べた結果によると、正当な用途に使用されたことはないと認められること、そして乙野は、本件の前後約半年の間に、そのレンタカー会社(バレーレンタカー)を一一回も利用していたのに、捜査官からの尋問に対して、本件当日の車両レンタルの事実だけでなく、同社を利用したことがある事実自体を秘匿するという不自然な供述態度をとったこと等の諸点を指摘して、乙野は、犯行時に乙野バンで銃撃現場へ行ったと認められると主張したが、原判決はそのように推断することはできないと判示した。

検察官は、原判決のこの判断と判断の手法は誤っていると主張し、極めて綿密・詳細な分析・推論を展開してみせている。

一  原判決は検察官の主張を取り違えて判断しているとの主張について

まず、検察官は、原判決は、「本件発生当時のロスには、乙野が借りたのと同じフォード社製のエコノラインが、少なくとも数百台はあったと認められるから、仮に、検察官主張のとおり、乙野には仕事のためにも私用にも、右バンを使用する理由がないことや、乙野の供述する右バンの使用目的や使用方法が不自然であること、犯行前日から当日にかけてレンタカー会社から貨物用バンを借りた事実及び利用していたレンタカー会社名を当初秘匿していたこと、右バンの走行距離が、乙野が犯行前日に下見をしたと仮定した場合の走行距離に一致することなど諸事情があったとしても、現場バンが乙野バンであること、すなわち、乙野が犯行車両である貨物用バンで犯行現場に臨場したと直ちに推認することは相当でない」と判断しているが、これは、検察官の主張を取り違えて行った判断である、という。すなわち、原審での検察官の主張は、原判決の判文中に要約記載されているような、乙野には仕事のためにも私用にも、右バンを使用する「理由がない」かどうかという観念的なことではなく、仕事にも私用にも使わなかったという事実そのものを指摘した点にあった。すなわち、乙野バンの使途としては、大きく分ければ私用の場合と仕事用の場合があろうが、借りたのが貨物用の大きなバンであることからみて、私用に使われた場合ははっきりした記憶に残るとみてよく、逆に記憶に残っていないとすれば私用に使われていないからだと推認してよい。次に、仕事用に使用した場合には、何年も前の古いことであっても、現存する資料の限度で点検することが可能である、そこで本件について、乙野が経営していたドンドンの取引関係資料と小切手帳などを基にして点検すると、このバンは乙野が述べる仕事用に使用されたことがないだけでなく、その余の用途にも使われていない事実を認定できる。要するに、本件乙野バンは、商用又は私用を含むいかなる正当な用途にも使用されていない事実を認定することができるのであって、そうすると、本件現場で白いバンが目撃された当日、乙野が同様のバンを借りていたのは単なる偶然ではなく、同人は、乙野バンで本件現場に臨場し、これを犯行に使用したと推認できる、そうであるのに原判決は、正当な用途に使用した事実がないという検察官の主張について判断せず、かわりに、使用する「理由がない」かどうかについて判断しているから、原判決は検察官の主張内容を取り違えて判断していることは明らかで、その点で原判決の判断は、総括的に不当である、というのである。

しかし、原判決は、目撃された現場バンの特徴がかなりありふれた一般的なものであって、車両特定効果があまりないことと、乙野バンの使途が全く考えられないわけではないという後述する判断を見通して、手早く目的を達することができる判断手順をとったに過ぎないと判断されるから、検察官のこの主張には、同調できない。すなわち、ここでの検察官の立証テーマは、いうまでもなく、乙野が白いバンで犯行現場に臨場したという点にあった筈である。そして、その点の立証にとっては、乙野が借り出したそのバンを、仕事にも私用にも使用したと認められないという事実は、具体的な使途が見当たらないから現場へ乗っていったのではないかという意味の、一つの情況事実に過ぎない。本当に現場に乗って行ったかどうかを確定するためには、使途が見当たらないという情況事実よりも、もっと直接的な他の情況事実(例えば、乙野バンの特徴が現場バンの特徴と本当に合致するかどうか)と照合し、それらの情況事実相互間に矛盾がないかどうか、それぞれの情況事実の持つ証明力の程度はどうかといった点の検討をし、最終的にはそれらを総合判断すべき事柄だからである。ところが、検察官の主張は、乙野がこのバンを仕事にも私用にも使用したことがないとの事実が立証されれば、そのことから直ちに、乙野が右のバンで現場へ臨場したことが立証されると主張しているかのような響きを持っている。もし、問題をそのように理解しているとすれば、それは誤りである。このことは、他の情況事実との照合を要する例として、後述する現場バンのアンテナ問題を取り上げてみれば明らかであろう。例えば、もし乙野バンにはアンテナが装着されていた筈であるのに、現場バンには装着されていなかったとか、装着されていなかった可能性が高い事実が明らかになったとすると、一方で乙野バンが仕事にも私用にも使用されていない事実が立証されても、両者を総合判断した結果、乙野バンとは別のバンが現場で目撃されたのではないかとの疑問が残り、乙野の現場臨場性を断定するには至らないとの判断がされることも、十分あり得ることだからである。原判決は、本件発生当時、ロスにあったと思われるエコノラインの車両台数を引き合いに出して、「乙野が犯行車両である貨物用バンで犯行現場に臨場したと直ちに推認することは相当でない」と判示しているが、それは、他の情況事実とのつき合わせが必要である趣旨を、現場バンの一般的特徴を例にして判示したためと理解される。そうだとすると、原判決の表現に指摘されるとおりの説明不足はあるとしても、判断対象を取り違えているとはいえない。

二  乙野バンの使途に関する主張について

この点は乙野を銃撃実行者とする検察官の主張にとって最も大きな争点と思われるので、多少詳しく述べる。

1 原判決の判断及びこれに対する検察官の主張

(一) 原判決の判断

原判決は、本件バンの使途に関する乙野の供述中、「一一月一七日に甲野とCCMで会った際、同人から、同月一六日にフルハムロード宛にインボイス#六七で送った商品と一緒に送れるならばということで、ブレストカレンダーの追加注文を受け、間に合わそうと考えて、バンを借りて集荷に向かったが、その途中その車のタイヤがパンクしたため帰宅し、翌日バンを返還したと思う。」という供述部分は、関係証拠に照らすと、客観的な合理性を欠いている(すなわち、仮に一七日に甲野からブレストカレンダーの追加注文を受けたとしても、その時点では一一月一六日付けインボイス#六七に記載の商品は、一一月一二日に後述の米国ニッシンの手で集荷されて、すでに船会社のコンテナヤードに届けられていたから、追加注文分をオリエンタル・ガバナー三W号(以下、OG三W号という。)に積載できる可能性は、客観的にはなかったと認めるのが相当である。)し、集荷に向かう途中でタイヤがパンクしその修理に時間がかかったので仕入れを断念して帰宅したという説明も釈然としない、しかし、この供述を虚偽と断定するにはなお躊躇を覚えると判断し、その理由として、次の(A)、(B)の二点を挙げている。

(A)乙野の供述は、はっきりした記憶に基づくものではなく、弁護人からインボイス等の資料を示され、おそらくこのようなことであったろうとの推測を述べたものである、示された資料からみて、その推測は自然で合理的である、乙野が捜査官からこの点の質問を受けたのは、事件から約七年経過後のことであったから、同人にはっきりした記憶がなかったとしても不自然ではない、検察官は事件前日の記憶が残っている筈であると主張するが、バンの使途というような日常的な事柄については忘れることもあり得る、したがって、このようないきさつでされた供述内容が客観的な事実と矛盾し、結果的には不合理と判断される場合があっても、だからことさら虚偽を述べていると断定することは相当でないこと、

(B)追加注文を受けたブレストカレンダーを、客観的にはOG三W号に積むことができない状態であったのにかかわらず、乙野が主観的にまだ積むことができるのではないかと考えて、バンを使用して行動した可能性を完全には否定できないこと、以上の二点である。

(二) 検察官の主張

検察官は、原判決の右判断を不当であると主張し、その理由として、

(A)の点に対しては、検察官は決して乙野が犯行日の前日の記憶を有している筈だと主張しているのではなく、忘れている場合があり得ることも認めた上で、しかし仕事や私用等の、正当な目的に使用されていない事実を立証し、これによって乙野バンの使途は本件犯行以外にあり得ないことを周辺から立証したのである、つまり乙野の供述・説明する使途が否定されるということだけで乙野が虚偽の供述をしていると主張しているのではない、正当な用途に使われた可能性が客観的にないことを事実をもって論証したのである、それにもかかわらず、原判決は検察官の主張を誤解し、客観的な使用状況について全く判断していない、

(B)の点に対しては、OG三W号への追加積載が客観的に不可能であった事情のもとで、乙野が主観的にそれを可能と考え、乙野バンを使用して行動した余地を完全には否定できないとするためには、いくつもの条件を満たす必要がある(検察官はこれを五つの関門と名付けている。)、そして、それらの関門をすべて通過するのは現実には困難であるから、乙野バンが乙野の供述どおりに使用されたことは、現実問題としては、全くないと認めるべきである、というのである。

2 乙野バンの使途に関する乙野の供述経過

そこで(A)及び(B)の主張について検討するが、その前に、まずバンの借り出しとその会社名を乙野が捜査官に対して当初秘匿し、その後供述した経過をみておくこととする。乙野バンの本件への関与を疑わせる大きな争点の一つであると思われるからである。

(一) 犯行現場に白いバンが停車していたことは、事件直後から目撃者の証言等で明らかになり、事件との関係が早くから疑われて、重要な捜査対象とされた。捜査官は、やがて甲野に対して事件の首謀者・黒幕との疑いを強め、実際の銃撃に当たった実行犯人の割り出しに精力を投入した。

(三) 乙野からの事情聴取は、昭和五九年の週刊誌によるロス疑惑報道直後ころから行われ、同六〇年九月の殴打事件による甲野の逮捕を経て、同六一年ころには、捜査官は乙野にかなり強い疑いの目を向け始めていた(当審公判廷での若林証言)。乙野バン関連の捜査で記録上把握できるのは、同六二年六月に大阪不死王閣で警察官による事情聴取がされたときである。その際、乙野は、「私が甲野との仕事の上で商用でトラックなどを借りていたレンタカー会社」と題する図面を作成し、これにレンタカー会社名を記載したが(乙八三、八四)、そこに記載された会社名はUホールとロケットで、バレーレンタカーの名前は記載されていない。次いで、同六二年八月二九日に、乙野は、来日中であったロス市警察の捜査官の事情聴取を受けたが、この取調べ時にも、Uホールでトラックを借りたこと、ロケットでバンを借りたことは供述したのに、バレーレンタカーのことは一切供述していない(乙九〇)。

(三) その後の同六三年一〇月一日、乙野が銃砲刀剣類所持等取締法違反等で逮捕された時点では、捜査官は、乙野が本件犯行時にバンを借り出していることを示す証拠を持ってはいなかったようであるが、乙野の逮捕後、事情聴取をされた乙野の妻Eの供述から、乙野がバレーレンタカーからバンを借り出したことがある事実が分かり、直ちに、ロス市警を通じてその点の捜査がされて、同年一〇月一〇日ころ、本件前日から本件当日にかけて乙野がバレーレンタカーから乙野バンを借り出していた事実を証明するレンタル契約書を入手するとともに、合わせて事件後転売されて所有者が変わっていたそのバンも、そのころ発見・確保された。

(四) こうして、捜査官はバン借り出しの事実を把握したが、そのことを乙野にはすぐには明らかにしないまま、同人の取調べを続行した。捜査官には、乙野は本件当時バンを借り出した事実を意図的に隠している、それは乙野が本件に関与したからだと理解され、そうであれば、乙野が明らかに虚偽供述を行っていることを証拠上動かない状態にし、更に乙野が他のどのような使途にもバンを使用していないことの裏付けを取った上で、一気に自供に追い込むことを目論んだものと推察される。

(五) その後、乙野は、一〇月一六日付け検察官調書(乙四九)中で、利用したレンタカー会社として、ロケット、Uホールのほかに、「もう一つのレンタカー会社があったが、これについては今は言いたくありません。黙秘します。」と述べ、一〇月二二日付け検察官調書(乙五三。これは、前述したレンタル契約書を見せられる直前のことと思われる。)中では、「犯行の前日及び当日にバンを借りたことはない、あわせて日頃バンを借りていた会社名は黙秘する、その理由についても黙秘する」と述べた。

(六) 一〇月二二日、乙野は、捜査官からバレーレンタカーのレンタル契約書を初めて見せられて、以後、しばらくはその点について黙秘の態度を続けたが、その一方で、乙野の公判供述等によると、レンタル契約書からバンを借りた時間を午後四時ころと読みとり、これを手掛りとして、甲野の依頼で追加出荷のためにバンを使用したのではないかとの推測をして、一〇月二四日ころ、接見に来た弁護人にこの点の調査を依頼した。

(七) 一〇月二七日に、乙野は、検察官調書中で、初めて昭和五六年一一月一七日にバレーレンタカーから白いバンを借り出し、一八日に返したことを認める供述をしたが、この段階ではまだ、バンを借りた理由、バンを借りた後の行動等に関しては、黙秘を続けた(同日付けの検察官調書[乙五四])。

(八) 一〇月二八日、弁護人が乙野と接見し、真実を聞き出そうとしたが、乙野はあくまで無実を主張した。その際、弁護人は、乙野に対して、事実を調査するにしてもアメリカという地理的な困難さがあるから、黙秘するよりはむしろ弁解内容を率直に捜査官側に話して調査してもらった方がよいとのアドバイスをし、乙野もこれを受け入れて自分の弁明内容を捜査官に話すに至った。翌日の二九日には、乙野の申し出によってポリグラフ検査も実施された(甲六四四、六四五)。

(九) このような経過を経て、一〇月三一日付け警察官調書(乙四〇)中で、乙野は、バンを借り出した理由を初めて詳しく述べた。それによると、一一月一七日に甲野と会った際に、甲野から「もし一六日の出荷分と同じ船に乗せられるなら」という趣旨でブレストカレンダーを追加注文する話が出て、それを集荷するためにバンを借りて集荷に向かったが、車が途中でパンクして修理に手間取ったため、集荷を諦めて帰ったと思う、と述べている。弁護人のメモを除けば、これが追加出荷に触れた最初の調書である。乙野は、この段階ではまだ、集荷先のパノラミックという会社名まではのべていないが、「ノースハリウッドにあるブレストカレンダーの会社」、「ゴールデンの支社か、インボイスのブレストカレンダーの項目の上にあるゴールデン以外の会社」などという言い方で特定への努力をしつつ供述している。

(一〇) 次いで、一一月二日付け検察官調書(乙五六)中で、検察官に対しても同様の供述をし、黙秘していても立場を悪くするだけだから信頼して話した方がよいと弁護人に言われたから述べることにした、アメリカでのことを調べて欲しい、と申し出ている。このときの調書によれば、乙野は集荷に向かったというそのノースハリウッドの会社のことをパノラミックセールという名前ではないと考えていたことが窺われる(これに対して、捜査官側は、一一月一一日ころにはパノラミックセールに照準を合わせた捜査をしていたと窺われるが、何故パノラミックセールに焦点を合わせることになったか、その間の経過は明らかではない。甲五七七)。

(一一) 一一月三日付け検察官調書(乙五七)中では、昭和六二年ころまでの取調べ時にバレーレンタカーの名前を出さなかった理由などについて述べ、当時は実際に名前を思い出さなかった、隠すつもりはなかった、ロケットレンタカーの方は印象が強く、その名前を思い出したのである、これまで一一月一七日にバンを借りたことはないと答えてきたが、借りたことを隠したのではなく、思い出さなかったのである、甲野がロスに来ているときにはバンを借りる必要がなく、借りていないと思っていた、などと述べている。

(一二) 一一月七日付け検察官調書(乙六〇)中では、それまでの供述を総括して、自分の弁解はいろんな意味ではっきりしない、白いバンを借りていたし、翌日も持っていたし、事件当時の行動を説明することもできない、事件前日にCを交えないで甲野と会っていたし、当日も会う約束をしていた、と述べている。おそらく、これは検察官から疑問点をまとめて突きつけられ、これに対して、乙野がなお否認の態度を維持したことを示しているとみられるが、それ以上のやりとりの詳細は明らかでない。

(一三) 乙野は、一一月一〇日に甲野と共に殺人の罪で起訴された。その後の一一月一五日付けの詐欺事件の検察官調書(乙六六)中では、追加注文があったという同人の弁解に関連して、フルハムロード宛の貨物を米国ニッシンに持ち込む場合の実務手順等について詳細に供述しており、乙野に対する右の点の取調べは大体この辺りで終了したとみられる。

(一四) その後、乙野は、原審公判廷において、その間の経過を更に詳細に供述した。それによると、昭和六二年ころまでは、バレーレンタカーからバンを借りたことを実際に思い出さなかったところ、同六三年には、乙野を標的としたと思われるマスコミ報道が始まり、現場で白いバンが目撃されたことが盛んに取り上げられるのをみて、心配になり、逮捕の数か月前に、妻と一緒にインボイスなどドンドン関係の書類を調べるうちに、バレーレンタカーで何度かバンを借りていたことを思い出した。しかし、その一方で、一一月一六日付けのインボイス#六七(送り状)が目に付き、これに対応するニッシン作成の船荷証券(以下、B/Lということがある。)を見ると(原審八四回公判調書添付の法廷資料一七[173-7387]、甲五七〇[57-6014])、そこにインランド・フレイト(米国内の輸送費用)を計上した旨の記載があることが分かり、これによってこのときはニッシン側に自宅まで貨物の集荷に来てもらっていることが分かった、集荷に来てもらっている以上乙野がバンを借りて自ら搬送する必要はないわけだし、実際に借りていないと確信できた、しかし、マスコミの報道状況からみると、バレーレンタカーのことは話さない方がよかろうと考えた、逮捕当初は、捜査官の態度やマスコミ報道の状況から、自分が犯人にされかねないという危険性を強く感じ、捜査官に情報を与えたくないという気持ちからバレーレンタカーのことを黙秘した、しかし、取調中にバレーレンタカーの契約書が机の上に置かれているのを見て、同社のことが露見したと思った、それでも事件当日にはバンを借りたことはないと確信していたところ、契約書を見せられ、そこに事件前日の一七日から一八日にかけて借りていたことが記載されているのを見て愕然とした、レンタル契約書の記載上、午後四時ころに借りたことになる点を手掛りとして記憶喚起に努め、追加注文のことに思い至った、そのことをすぐ弁護人に話して(一〇月二四日の接見時)調査を依頼したが、まだ、自分の記憶がそれほど明確でない状態のまま警察に話すと弁解がつぶされてしまうのではないかと危惧してしばらく黙秘を続けた、その後弁護人からアドバイスを受け(一〇月二八日)、正直に話そうという気になり、同日すぐ捜査官に話した、というのである。

(一五) 乙野は、追加出荷の点に関しては、原審公判廷で、次のように述べている。すなわち、一一月一七日にCCMで甲野と会った際、おそらくブレストカレンダーの追加注文を受け、バレーレンタカーから借り出したバンで仕入先のパノラミックセールに向かった、ところがその途中、高速道路を走行中にタイヤがパンクし修理に手間取ったため、その日の仕入れを断念して帰った、捜査段階では仕入先の会社名を覚えていなかったが、その後ブレストカレンダーの入荷に対応して振り出されていた小切手からパノラミックセールという会社名が分かった、ブレストカレンダーの当初の仕入先はゴールデンであったが、同社と取り引きするうちに、同社の入荷先がパノラミックセールであると分かり、利幅を増やすため直接パノラミックから仕入れることにしたが、甲野にはそのことを伏せて、インボイスの記載上はゴールデンから入荷したように記載していた、というのである。乙野が、当日、ブレストカレンダーを追加出荷する必要からバンで行動したのではないかと推測した根拠については、昭和五六年一一月一六日付けのインボイス#六七を見ると、その最後に記載されているのがブレストカレンダー二五〇個となっており、これはそれ以前に注文を受けたブレストカレンダー四〇〇個の最後の出荷分と窺われるが、その次の同年一二月三〇日付けのインボイス#六九の最初に記載されている商品がブレストカレンダー七〇二個となっているので、この一一月一七日に甲野からこの七〇二個分の追加注文を受けたのではないかと思った、と供述するのである。

(一六) 乙野の弁明を聞いた捜査官は、乙野の供述するようなバンの使途、追加出荷が客観的にあり得るかという観点から、乙野が追加積載しようとしたというOG三W号の運航状況、乙野の車両レンタル状況と走行距離、更には乙野の集荷と出荷全体の状況等に関して綿密な捜査を起訴後も精力的に続け、その結果が、原審公判廷に証拠として順次提出された。

乙野バン借り出しと会社名秘匿に関する乙野の供述経過と供述内容の大筋は以上のとおりである。

3 (A)の説示を不当とする所論について

原判決は、乙野バンが商用及び私用の用途に全く使用されていないとの検察官の主張に対して明示的には何の判示もしていないことは、検察官指摘のとおりである。しかし、原判決がその点に触れなかったのは、判文から察すると、(B)の点について、後述するとおり、乙野が供述する追加商品の集荷目的にバンが使用された可能性を完全には否定できないと判断していたためではないかと思われるから、何ら不当ではない。すなわち、検察官は、バンは商用及び私用を含む正当な用途に使用されていない、だから乙野の用途としては本件現場へ臨場することしかなかったと主張しているから、もしこのバンが、乙野の供述どおり、何らかの正当な用途に使用された可能性を否定できないと認められれば、本件現場に臨場する以外には使用されていないとする検察官の立証に穴があき、検察官の右主張はそれだけで破綻する筋合いである。だから、このバンが本件現場に臨場する以外には使用されていないとする検察官の立証と、この主張を否定して、このバンには正当な使途があったとして、その中で可能性が高いと思われる使途を推測・特定して述べる乙野の立証とは、結局乙野バンの現場臨場性の点に関していえば、同じ論点の表裏の関係にあるといえる。そして、乙野の現場臨場性との関連では、さしあたり、乙野バンが現場へ臨場していないかも知れないということさえ分かればそれで沢山であって、バンの実際の用途を逐一検討対象とするまでの必要はないから、原判決が、乙野の主張に答える手順としてまず乙野供述を取り上げて検討し、乙野が推論して述べる用途が、関係証拠に照らして肯定できるかどうか、そこに虚偽があらわれていないかどうかを先に判断し、もし肯定できるとの結論に達すれば、そのことは同時に検察官の主張に対する判断にもなっていると考えるのは合理的であるとともに、ここでの検討目的を手早く達するのに適切な手法であったといえる。そうだとすると、原判決が、乙野はいかなる正当な用途にも本件バンを使用しなかったという点について直接判断するかわりに、乙野の述べる用途の可能性を先に判断して結論に達したことを不当とすべき理由はない。

なお、検察官は、乙野のバン使用の事実を調査する目的で、当時のドンドンの取引関係資料や小切手帳などを基にして、バンの使途状況を丹念に再現し、点検している。その手法は、まずバンの使途を商用と私用とに分け、商用のものについてはそれを更にフルハムロード関係とそれ以外とに分け、フルハムロード分については残存するインボイス、小切手帳等を基にして再現し、それ以外の分と私用分については、乙野の記憶を頼りにして逐一検討して、乙野バンは、商用あるいは私用のいずれにも使用された形跡がないとしているのである。ただ、調査時から七年も前のバンの日常的使途を、残されていた資料だけから再現した結果が実際の使用状態をどの程度正確に示しているかは疑問としなければならない。事柄の性質上、裏付け資料が残っている限りでは正確といえるかも知れないが、資料に現れない使途がないとはいえない心配が常につきまとうし、また資料に現れているのとは異なった使用実態があったりすると、日時の経過のため関係者の記憶がうすれて記憶によって必要な反論、修正をする余地がなくなってしまい、間違って資料どおりに受け取られてしまう危険もないとはいえない。原判決が検察官の主張するこの点に特に触れていないのは、七年も前のことを残存資料によって正確に再現できると考えるのは危険だとの判断があったためではないかと感じられ、そうした判断は、経験的にみれば理由がないことではないと思われる。

4 (B)の説示を不当とする所論について

原判決は、乙野がはっきりした記憶があるわけではないと断った上で、事件前日の一七日にバンを借り出したのはブレストカレンダーの追加分を集荷及び出荷するためではなかったかと思うと供述している点について、この供述は、判然とした記憶に基づくものではなく、弁護人から示された資料に基づいて記憶喚起に努め、推測したものとされているから、その真偽の判断に当たっては、おおまかにあらすじを示した供述と理解して信用性を検討することが必要であり、供述の細目に事実と違ったり、不合理な点があっても、そのことを決め手にして判断してはいけないとした上で、

(a)しかし、インボイス#六七の貨物は一一月一二日に乙野からニッシンに引き渡され、同月一三日にはニッシンから船会社のコンテナヤードに届けられていた、したがって、一七日の時点でBが甲野から追加注文を受けたとしても、これを同じOG三W号に追加積載できる可能性は客観的にはなかった、

(b)しかし、乙野が主観的にはそれを可能と考え、乙野バンを使用して行動した余地を完全には否定できないと判示した。

これに対して、所論は、右のうち、(a)の判断は相当であるが、(b)の判断は不当であると主張し、その理由として、原判決のこの点に関する説示が成立するためには、いくつもの前提条件(関門)をすべて通過しなければならないところ、乙野の行動はそのいずれの関門も通過できない、というのである。そこで、検察官が指摘する各関門について、以下順次検討するが、その検討に当たって留意を要するのは、この点に関する検察官の主張もこれに対する原判決の判断も、共に具体的に認定された事実に基づく議論というよりは、最もありそうに思える標準的な場合を想定し、合理的な推論を何重にも重ねようとする議論であるから、そこに妥当性の限界や現実とのずれが生じているかも知れないという点である。推論に多少のゆとりを見込んで検討する必要がありそうに思える(なお、所論の中には、原判決が、この点の判断理由として、前記(A)と(B)を並列的に掲げているのを不当として非難する点がある。控訴趣意書二〇〇頁。しかし、原判決の真意は、ここに判示したとおりと理解されるから、不当ではない。)

(一) 第一関門(乙野はOG三W号の入出航の遅れを知り得たか)

第一の関門として検察官が指摘するのは、一一月一七日に甲野と乙野がCCMで会った際、乙野が甲野から、OG三W号に載せることができるならばという趣旨でブレストカレンダーの追加注文を受けることは、事実としてはあり得ないこと、すなわち、追加注文というからには、OG三W号の出航が大幅に遅れていることを乙野が知っていたことが大前提とされなければならないが、OG三W号の大幅な遅れを乙野が知っていた可能性は小さく、乙野が知らない以上、そもそもその船にブレストカレンダーを追加積載できるならばという話が出る筈がない、というのである。

そこで、まず、OG三W号の運航の遅れを乙野が知っていた可能性が、各段階で、どの程度あったと想定されるかについて検討するのに、以下に述べるところによれば、この時点で乙野がOG三W号の運航が大幅に遅れている情報を得ていた可能性は、全く否定はできないけれども、到底高いといえる状況にはなかったと認めるのが相当であり、その理由は次のとおりである。

(1) この点の検討に当たっては、まず、乙野の日常的な出荷手順、OG三W号の運航にあわせたインボイス#六七の貨物の出荷状況等をみておかねばならない。関係証拠によると、

① 乙野は、ロス市で買い付けた商品をフルハムロードに出荷するに当たって、主として日新運輸倉庫株式会社のアメリカ現地法人である米国ニッシン(以下、ニッシンという。)を利用し、これに貨物の集荷、船積み、通関手続などを依頼していた。ニッシンは、自らは船舶を所有せず、安い費用で輸送できる船会社のコンテナ船を選んで貨物輸送の仲介・取り次ぎをするほか、自ら船会社との間で一週間に一便程度のコンテナの積載枠を確保した上で、そのスケジュール表をあらかじめ顧客に配布しておき、複数の顧客から集めた小口の貨物を、自らの集荷場で混載コンテナに仕立てて封印し、このコンテナを予約してある船舶の入港に合わせて船会社のコンテナヤードに運び込み、自らが荷送人となって船会社に輸送を依頼していた(いわゆる小口混載コンテナ)。混載コンテナの方が、独立にコンテナを仕立てるより割安であるため、乙野は、多くの場合、フルハムロード向けの出荷にはニッシンの混載コンテナを利用していた。

② 乙野は、インボイスナンバー#六七記載の貨物の出荷にあたって、コリアン・シッピング・コーポレーション(以下、KSCと略記する。)及びオリエント・オーヴァーシーズ・コンテナー・ライン(OOCL)という二つの船会社の共同配船にかかるコンテナ船OG三W号に積載予定のニッシンの混載コンテナを利用することにしていた。OG三W号の運航は、当初予定では、昭和五六年一一月一三日にロス近郊のロングビーチ港に入港、翌一四日出航とされていた。混載コンテナを利用する場合、荷物を持ち込む締め切り日(カット・オフ日)が船の入港予定日を基準として定められており、原則として、船会社に対しては入港の前日、ニッシンに対しては更にその前日までとされていた。だから、OG三W号の場合についていえば、積載貨物をニッシンが船会社へ引き渡す締め切り日は同船の入港前日である一一月一二日、客がニッシンに持ち込む締め切り日はそのまた前日である同月一一日であったことになる。もっとも、カット・オフ日については、運用上、顧客から貨物の持ち込みが締め切り日に間に合わないと事前に申し出られたような場合には、締め切り日の翌日(すなわちニッシンが船会社のコンテナヤードにコンテナを持ち込む締め切り日当日)の午前中くらいまでは猶予されることが度々あったし、また、ニッシンが一旦貨物の引き渡しを受け、その締め切り日を過ぎた後で、顧客から、同じコンテナに貨物を追加積載して欲しいとの要望が伝えられた場合には、ニッシンとしては、コンテナがまだコンテナヤードに届けられていない段階であれば、追加の必要性、ニッシンにとっての顧客の重要度、労働者の手配が可能かどうか等の事情を考えて要望に応じる場合があったが、貨物がコンテナヤードに運ばれた後は、通関手続や船積労働者の手配その他の関係で、追加出荷を受け付けることは不可能とされていた。

乙野は、この取扱いを前提として、OG三W号に積載予定のインボイス#六七の貨物を一一月一二日ころニッシンに集荷してもらって引き渡し、その貨物はニッシンの倉庫で混載コンテナに仕立てられて、一一月一三日午前九時ころ、ニッシンが利用していたトラック会社メイコウの手で、船会社のコンテナヤード(ロングビーチコンテナターミナル、以下L乙野CTターミナルという。)に持ち込まれたと認められる(なお、乙野の弁護人は、インボイスナンバー#六七の作成日付けが一一月一六日となっていることなどから、同日乙野は荷物をニッシンに持ち込んだ可能性があるというが、船会社KSC作成のブッキングリスト(メガーギーの宣誓供述書[甲八一〇、八一一]添付)や、その基となったトレーラー・インターチェンジ・レシート(物五四一)等の証拠によれば、以上のとおりと認められる。メガーギーの原審証言184-9421以下参照)。ともかく、インボイス#六七の貨物は一二日には乙野の手を離れており、追加注文の話が出たとされる一一月一七日の時点では、とうにニッシンが船会社に引き渡すべき締め切り日を過ぎていただけでなく、同船の当初出航予定日であった一四日をも過ぎていたから、甲野がブレストカレンダーの追加注文をするとしても、普通ならば次の船便で出荷するという話になる筈であって、OG三W号への追加積載の話が出る余地はなかったことが明らかである。

(2) ところが、本件当時、OG三W号の運航には大幅な遅れが生じていた。すなわち、同船はロングビーチ港へ一一月一五日に到着し、当初予定より三日遅れの一一月一六日午後一一時二〇分の接岸となっただけでなく、翌一七日午前零時ころから積込み作業に取りかかった後も、積み込む予定のクレーン機材の到着の遅れや、積まれていた空コンテナの仕向地変更に伴う積み下ろし作業、労働者との話し合いの必要等のために作業が予想以上に遅れ、同船が出航したのは一一月二〇日午前六時四〇分になるという、例のない遅れようであった(メガーギー、松下公成の各原審証言、ターミナル・ディパーチャー・レポートに関する捜査官報告書[甲六六七、八〇五]等)。そこで、この大幅な運航の遅れを乙野は何らかの方法で知っていて、一七日にCCMで追加注文の話が甲野から出された際追加出荷を可能と考えた可能性があるかどうかが問題とされることになった。

① OG三W号の運航遅れの状態は、まずは船会社であるKSCロングビーチ事務所で把握される。だから、運航の遅れを知る機会が乙野にあったとすれば、それはKSCロングビーチ事務所からニッシンへ、ニッシンから乙野へ伝えられるルートと考えられるので、これをたどってみれば分かる筈である。

そこで、OG三W号の運航遅れの情報がKSCロングビーチ事務所でどのように把握されていたかについてみるのに、一一月一一日付け(一三時二八分)でKSCサンフランシスコ事務所から同ロングビーチ事務所へ参考配信されたテレックス(甲六六六[87-11123]、八〇六[91-12153])には、同船のロングビーチ港の出航予定は一一月一五日と記載されているから、この時点では一日遅れの出航予定であったことが窺われ、次いで、一一月一三日付けの同事務所からLBCTに宛てたテレックス(甲六六六[87-11130]、八〇六[91-12160])には、ETA(到着予定)一一月一六日と記載されているから、この交信がされた一一月一三日の時点では、三日遅れの到着予定と理解されていたものと判断される。

② 次に、運航に遅れが生じた場合、KSCロングビーチ事務所では、そのことをカット・オフ日の変更等の形でニッシンないしその先の顧客へどの程度伝えていたかについて、同事務所の関係者は、原審証言中で、その遅れが二・三日程度のときは原則としてカット・オフ日を変更しない、したがって何の通知もしないのが通常の取り扱いであったが、遅れが大幅なときは通知をしていたと思う、OG三W号関係の場合、関係資料によると、カット・オフ日の変更はされていないと思うと述べている(メガーギーの宣誓供述書[甲八一〇、八一一]、メガーギーの原審証言184-9432)。船の運航日程にはとかく狂いが生じやすいことを関係者は最初から考慮に入れていたと考えられるから、運航に数日程度の大幅でない遅れが生じても、カット・オフ日を変更する必要性は乏しいと考えられるし、逆にいえば細かくカット・オフ日を変更し、僅かな変更をいちいち各方面に通知するのは実際的でもないから、運用上は当初予定のままとして、外部には何の通知もしないことにはそれなりの理由があったといえる。また、遅延が大幅なときは、顧客によっては到着日の遅れを予測して、別便での運送その他の措置を検討する必要が生じる場合もあるであろうから、船会社が遅れの程度を通知することには、これまたそれなりの必要があるといえる。こうしてみると、前記供述には十分合理的な理由が備わっていて、基本的には信用できる供述と理解される。

このように、KSCロングビーチ事務所としては、運航遅れの情報をニッシン等にいちいち伝える態勢にはなかった。しかし、ニッシン側から積極的に問い合わせれば遅れを知る機会は十分あったと考えられる。ニッシンは、カット・オフ日から一日遅れの一三日に船会社のコンテナヤードに貨物を搬入していたから、この際には、コンテナの搬入が一日遅れることについてニッシンからKSCロングビーチ事務所へ事前連絡がされ、同事務所の了解を得て、手順の調整がはかられていただろうことは容易に推認できる。そうなると、この機会に、OG三W号のその時点までに判明していた運航の遅れが同事務所からニッシンに伝えられた可能性は十分考えられるから、前記一三日付けテレックスにあるような運航遅れの情報がニッシン側に伝えられた可能性はあるといえる。これを別の面から考えれば、ニッシンとしては、ニッシンが荷主に対して交付する船荷証券(ハウスB/L)を作成する必要上、通常、出航の日かその翌日くらいに船会社に連絡して船積みの日(レーデン・オン・ボード)を確認していたようであるし(山口の検察官調書[甲六六〇]等)、また、船会社がニッシンに発行する船荷証券(マスターB/L)を取得する関係でも出航日に関心を持ち、予定どおり船が出航したか、B/Lを取得できるか等を船会社に尋ねていたようであるから、OG三W号の場合にも、その当初の出航予定とされていた一一月一四日ころないし運航の遅れにあわせた一五日ころの段階で、ニッシンが船会社にその点を照会し、同事務所から回答を得て、OG三W号の遅れの程度を知ったことも予測可能な範囲内にあるとみなければならない。また、一般に、船会社の気の利いたセールスマンは、船の運航に遅れが生じたようなときには、遅れの程度に関する情報を顧客に提供することが多々あったとされているし、また、ニッシンが一旦運航の遅れを知れば、以後は絶えずその船の運航に関心を持って船会社と連絡を取るであろうから、こうしたいろいろの方法でニッシンがOG三W号の運航の遅れを把握していたことは、ニッシンの運送会社としての性質上、十分あり得たことと考えてよいであろう。

③ それでは、乙野は、運航の遅れに関する情報をどのようにして知ることができたと考えられるか。乙野がこれを知るいきさつについて、原判決は、「同月一一日、オリエンタル・ガバナー三W号が予定より二日遅れでチャールストン港を出航し、ロングビーチ港に向かったとの連絡が船会社に入ったものと認められるから、乙野が米国ニッシンに貨物を引き渡した際に、米国ニッシンの担当者から、ロングビーチ港への入港が二日程度遅れそうだとの情報を受けたとの可能性がある。」と判示している。これによると、乙野が情報を得たのは貨物を引き渡した際のことで、その内容は二日遅れというものであった、としているのである。しかし、この時乙野が引き渡した貨物は、乙野が一一月一一日に自らレンタカーで集荷に行って自宅まで運び(バレーレンタカーのレンタル契約書[物一一六、一一七]等)、それを翌一二日ころ自宅までニッシンに集荷にきてもらって引き渡したものと認められるし(ニッシンのB/L[甲五七〇・57-6014])には、同社による集荷を意味するインランド・フレートの記載がある。)、このときの荷物の重量、容積等からみて直接には下請け業者に引き渡されたであろうと考えられるので(井原康史の昭和六三年一〇月一四日付け検察官調書[甲六六一])、乙野が船の運航の遅れに関する情報をその下請け業者から得たとは思えない。ただ、乙野は、一二日の集荷に関してニッシンの担当者と事前に連絡を取った事実は間違いなかろうから、これが乙野にとってニッシンから情報を得る一つの機会になったことは十分考えられる。もっとも、この一二日の時点での運航の遅れは、一日あるいは二日であったと認められるから(検察官は、原判決が、乙野は、OG三W号がチャールストン港を二日遅れで出航したとの情報をニッシンの担当者から受けた可能性があると認定している点に関して、原判決は同船の同港の出発予定を一一月二日と判断し、これを前提として二日遅れの認定をしているが、同船の同港出発予定は、米国西海岸で船便のスケジュール把握に広く使用されているパシフィック・シッパー誌によると、一一月三日とされているから、右認定は誤っている、同船の同港の出発は一日遅れであったにすぎない、としている。証拠に照らすと、おそらく一日遅れが正しいと思われるが、今検討中の問題との関係では、この点を確定するまでの必要はない。)、そのことをニッシンから乙野が知らされたとしても、当初予定より一日あるいは二日遅れの一五日あるいは一六日の出航予定と理解された筈であり、したがって出航予定日を過ぎている一一月一七日の時点で、なおその船に追加積載できるならばという話が出る余地があるとは考えられず、したがってこの遅れが、乙野の追加出荷の行動と結びつくとは考え難い。この点は検察官指摘のとおりといえる。

④ そこで、念のため、原判決のいう一一月一二日に限らず、それ以後のいずれかの機会に乙野が運航の遅れを知って、そのため、一七日にCCMで追加出荷の話となった可能性がないかについて検討しておかねばならない。その関係をみると、まずニッシンの側から乙野に対して、積極的に運航の遅れを知らせた可能性があるとは思えない。OG三W号のカット・オフ日は変更になっていないし、積載予定の混載コンテナをニッシンは一三日にコンテナヤードに運び、すでにいわゆる手仕舞いをしてしまった後であるから、そのような通知をする必要は全くないからである。それでは乙野側からニッシンに問い合わせる可能性はなかったか。前述したとおり、乙野が得ていた可能性のある情報では、同船は遅くとも一六日ころには出航予定とされていたのであるから、一七日の時点では、その情報どおりならば出航済みと判断されるのが普通であろう。だから、乙野において、同船の出航が、接岸後に生じた予想外の事情で実際には大幅に遅れていた事実を知ったことがあるとすれば、それは、乙野が、何らかの必要から、同船のその後の出航状況をニッシンに照会して分かった場合を想定しなければならないであろう。例えば、乙野としては、甲野が一七日にロスにくる予定となっていたため、その際直近に出荷したインボイス#六七の貨物の運送状況を報告すべく、ニッシンに問い合わせておくということはあり得るかも知れない。そして、その問い合わせをした時期のいかんによっては、運航の遅れが大幅になっていることまで判明して、その結果貨物の日本到着が大幅に遅れることが分かり、その影響を予測して、ニッシンが乙野に回答することも想定できる。ただ、このような理由で乙野がOG三W号に大幅な遅れが生じている情報を得ていた可能性は、否定はできないけれども、普通ならば決して高いとは思えない。したがって、一七日に乙野が甲野とCCMで会った際に、甲野から追加注文の話が出たとしても、乙野が船の運航遅れに応じた対応行動にでる可能性は、全面的に否定はできないけれども、決して高いとはいえなかった筈と考えられる。

(二) 第二関門(バン借り出し前の行動)

第二の関門として検察官が指摘するのは、乙野が甲野から右に述べた追加注文を受けたと仮定しても、バンを借りに行くまでの同人の行動は、合理的に了解できない、すなわち、

(a)追加出荷のためバンを借りるのならば、当時の切迫した状況の下では、まず、商品の在庫の有無とOG三W号への追加積載の可否を急いで確認してから行く筈と考えられるのに、そうしていないのは不自然である、

(b)OG三W号に積載できないときにどうするかについて甲野と話し合わないまま出かけたというのは不自然である、

(c)ニッシンに照会すれば、追加積載は困難との回答が遅滞なく返ってきた筈であって、原判決がいうような、ニッシンから一応船会社に確認してみましょうという回答がされたり、問い合わせた先の船会社の担当者からの回答が、コンテナ積み込みの作業の遅れを確認する必要等があって遅れたとは考えられない、

(d)その回答を得ないまま、間にあわなくてもともととの考えでレンタカーを借りにいくというのは不自然である等々、というのである。

しかし、以下に述べる点からすると、乙野がパノラミックに在庫の事前確認をしないまま集荷に行くことは、その当時の行動として必ずしも不自然とはいえないし、また意図したとおりに追加出荷できない事態が生じたときは、その時点で、その内容に応じた対応策を協議することとして、ともかく手続を前へ進めてみようと考えたとしても、十分あり得ることといえる。すなわち、

(1) まず、乙野がレンタカーを借りに行く前にパノラミックへ在庫確認の電話をかけたかどうか、かけたとすれば、CCMからかけたか、一旦帰って自宅からかけたかなどの詳細は、本件証拠上全く不明である。しかし、まずパノラミックの関係では、あらかじめ電話で在庫確認をしていなくても、それほど不自然とは思えない。検察官は、相当前に注文してあったブレストカレンダーが一一月一一日にようやく二五〇個出来上がったばかりの状態であったから、それからあまり日が経っていない一七日に更に七〇二個も完成していたかは疑わしい、という。確かに、乙野がその前に仕入れたのは五月一日、七月一日、一一月一一日であったから(乙野の第四八回公判供述[173-7280]、同添付法廷資料一二小切手支払状況一覧表、この原資料[甲五七三])、仕入れにはかなりの間隔がおかれていたとみえるが、考えてみると、カレンダーという品物の性質上、その製造・出荷が夏場に少ないのはいわば当然のことであって、何ら不思議ではない。もっとも、一一日に引き続いて一七日に再び仕入れに行くというのは、やや接近し過ぎではないかとの印象を持たせる点がなくはないが、カレンダーが季節商品であることを考えると、その製造も仕入れも年末に向かう時期に一挙に多くなるのは当然なことと理解できるし、また、七〇二個というのは、一二月九日の段階でパノラミックから乙野方に配送されてきた数がそうであったというだけのことであって、乙野が、一七日のこの時点で、それだけの数が一挙に完成していると考えていたとは限らないのである。この時点では、ある程度まとまった数を仕入れることができればそれで目的を達する状況であったと考えられる。そして、乙野は一一日に仕入れに行っているから、その際に、次はいつ頃、何個くらい入荷になるかというパノラミックの在庫見通しをある程度把握したと考えることに、それほどの無理はない。元来、パノラミックがブレストカレンダーを扱った規模は必ずしも明らかではないが、その商品の買い付け客がフルハムロードの甲野だけであったとは思えないから、そうすると在庫の有無は、同社の生産能力もさりながら、むしろ注文や出荷がこの時期に集中することの影響とみるのが自然であろう(パノラミックセールの当時の所有者であったストレムは、パノラミックセールは、一九八二年の三月にはカレンダーを作るのをやめたが、一九八一年一一月一七日当時、二〇〇あるいはそれ以上のブレストカレンダーのストックがあって、その日の注文に応じる可能性はあった旨供述している[弁B一一三ないし一一八]。)。加えて、この時の乙野には、甲野の面前で、CCMから電話をするのは具合が悪い事情があった。すなわち、同人は、ブレストカレンダーを三月二一日まではゴールデンから仕入れていたが、五月一日分以降は同社の仕入先であるパノラミックから直接仕入れており、他方甲野にはそのことを内緒にして、あたかもゴールデンから仕入れているようにインボイスに記載して代金を請求し、マージンを稼いでいた事情があったからである。そのように考えると、乙野がパノラミックに事前に在庫確認をしないまま営業時間内に集荷に行き、そのときの在庫の範囲内で仕入れてこようとすることは十分考えられるし、当面はそれで目的を達したと考えられる。

(2) 問題は、ニッシンへの事前確認の点である。乙野が、OG三W号の遅れを伝え聞いていたとしても、それが普通の遅れならば、一七日の時点では同船はもう出航した時期と考えられたであろう。真実は、ようやくコンテナ積み込みが開始された状態であったが、そのような実情までは、部外者には分からなかったのではないかと思われる。だから、この時点の乙野としては、パノラミックから仕入れた場合にそれをOG三W号に追加積載してもらえそうかどうか、大急ぎで確認する必要があった筈だと考えられる。大急ぎで電話照会するとなれば、客観的にはCCMから電話をするのが手っ取り早い。ところが、CCMからニッシンへは市外電話となる(控甲一九)から、電話をすれば、甲野の宿泊記録カードに電話料金の記載がある筈であるのに、本件当時の甲野の宿泊記録カード(甲五一添付)にはその点の記載がない。そのことは検察官指摘のとおりである。ただ、ニッシンへの電話を甲野の面前でかけ、その結果何らかの理由で同時にパノラミックへも電話しなければならない経過になっては、前述した理由で具合が悪いとの思いが乙野には当然あったであろうから、その点からすると、同人としてはニッシンへの電話についても、甲野の面前ではない場所、例えば自宅へ帰ってから電話しようと考える方が自然ではないかと思われ、CCMから電話をしなかったこと自体は格別不自然ではない。

その後、この電話照会をどのようにしたか、これに対するニッシン側の回答内容、更にそれ以降の推移等については、全く証拠がない。だから、すべて関連証拠を基にして推測し、一般的可能性を手懸かりとして判断せざるを得ない。まず乙野が考えた追加積載は、ニッシン仕立ての混載コンテナにということであって、それはすでに一三日に船会社のコンテナヤードに運び込まれており、積み込みが始まった一七日の時点では、船会社としては、多数コンテナの再配置作業に時間をとられていた時期にあたっているから、この時点で追加可能な状況であったとは思えない。別の混載コンテナを仕立てて運び込めば、すでにコンテナヤードに運び込まれているコンテナへの追加という困難さは避けられるが、このときのOG三W号へ積み込み予定であったニッシンの混載コンテナは一個とされており、しかも、当時はKSCのオーバーブッキングのためコンテナの積み残しが出ていたほどであったというのであるから(メガーギーの原審証言[184-9441])、それらの点からみて、追加は客観的には難しかったといわねばならない。そこで、原判決は、ニッシンが一応問い合わせてみましょうという応対をし、船会社からの回答がすぐには届かなかったかも知れないというような事態を想定している。その時点のOG三W号では、一七日から積み込み開始、ところが一八日には労働者との話し合いが必要となって作業が中断するという先行き不明の状態にあったから、ニッシンからの問い合わせに対する回答に手間取ったということは、一応考えられないことではない。検察官は、乙野がCCMから電話をせず、自宅へ帰ってから電話をしたとしても、バレーレンタカーへ行くのに約一五分、借り出し手続に約五分、同レンタカーからパノラミックへ行くのに約三〇分前後の所要時間を見込んでも、それくらいの時間内には回答されている筈ではないかという。しかし、OG三W号の異常な遅れを前にして、船会社がその対応に手を取られ、回答が後回しにされるという事態は、世上容易に考えられることであるから、原判決のこの判断を直ちに不当とするほどの根拠もない。それ以上の細かい判断をするには、証拠上の決め手に欠けているのである。

それでは、乙野がニッシンから確かな回答を得ないまま、「間に合わなくてもともと」というような判断で、レンタカーを借り出してともかく仕入れに出発したとするのは不自然であろうか。原判決が「間に合わなくてもともと」と判示している意味について、所論は、追加積載ができなくても仕入れるという前提であって、OG三W号に追加積載できなければ仕入れをキャンセルするという趣旨ではなかった筈ではないかと主張する。その後の一二月九日に七〇二個の入荷を受けている事実からもそのように理解されるというのである。そのように考えることもできるが、逆に一七日の時点での乙野らの意思をそのように理解しなければならないとまでは必ずしも思えない。乙野がCCMを出た時には、パノラミックからの集荷とニッシンへの追加積載希望を伝えるだけの時間は急げばあるのではないかとみられたから、同人としては、ともかく大急ぎでその両方の手続を進めてみようとの考えであったと判断した趣旨とも理解できる。そして、その手続のどこかの段階で、意図したとおりことが運ばない事態が生じた場合の対応策については、そうした事態が生じ、そのことが判明した時点で、生じた事態の内容に応じて考えることにして、ともかく手続を前に進めてみようとする考え方は、日常的にかなりあり得ることであって、異例なことではない。その場合、結果的には、手続の初めの段階で駄目になり、レンタカーを借り出すこと自体をやめてしまう場合があるかも知れないし、逆に手続の終わりの方で駄目になり、仕入れたが積載してもらえないので、取りあえず乙野が自宅にでも保管し、次に一緒に送る貨物が溜まるのを待つという事態まで、段階的にいろいろな場合があり得るし、それらの中には、もう少し注意深く考えておればこのようなことは予測できた筈と事後的に判断される場合も、実際にはかなりあり得ることと思われる。

(三) 第三関門(タイヤのパンクなど)

第三の関門として検察官が指摘するのは、乙野はパノラミックへ向かっている途中、高速道路上でバンのタイヤがパンクし、付近のガソリンスタンドかタイヤショップに入ったが、その修理に時間がかかって、パノラミックの営業時間に間に合わなくなったという点について、タイヤのパンクという希有なことが、よりによってこのとき発生したとか、普通なら一〇分くらいで済みそうな修理に四〇分もかかったなどというのは単なる弁解に過ぎず、到底信用できない、という。

通常、車のパンク事故は、バレーレンタカーでは、保有車両九〇台につき月一回程度であるとするアダムスの証言(152-2177)を持ち出すまでもなく、経験上、かなり希な出来事であることは明らかである。もし、運悪くそのような事故が先を急いでいた乙野の車に起こったとしても、そのレンタカーにはスペアータイヤが積まれていたのであるから、それを当座使用すれば、パノラミックの営業時間に遅れて時間切れになる事態は避けられたかも知れない。乙野が、レンタカーを短時間使用しただけなのに、パンクした車の修理代をレンタカー会社に請求すらしていない点にも、納得しにくいものが残るし、パンクという予想外の事態が生じたために、追加注文の目的を達することができなかった顛末を、甲野にも妻のEにも全く話していないらしい点にも、腑に落ちない。これをことさらな作り話とまでいうか否かは別としても、可能性がかなり低いとみられることはどうしようもない。当審において、乙野の弁護人から、乙野がパンクの修理をしたとおぼしきスタンドに関する写真その他の証拠が提出されたが、写真に写っているようなスタンドがその場所にあることまでは分かるとしても、そこで本件当時修理したのが事実であるかどうかまでは全く分からないから、先に述べた判断に特に変わりはない。

(四) 第四関門(集荷中止後の行動)

第四の関門として検察官が指摘するのは、パンク修理に手間取った事実があったとしても、そのときから翌一八日午前中にかけての乙野の行動は不自然で、理解できない、すなわち、一七日に甲野と乙野間で、OG三W号に積載できなくても仕入れる旨の話し合いがされ、この話し合いに基づいて乙野が、何はともあれブレストカレンダーを仕入れるつもりでレンタカーを借りたというのであれば、途中で追加積載できないことが分かったとしても、あるいはこれに加えて乙野が、当日午後六時までに長女Fを託児所に迎えに行かなければならない事情があったとしても、少なくともパノラミックに対して、乙野方へ配達するよう指示するか、又は、当日とか翌一八日の午前中に自分で同社へ仕入れに行くか等して、自宅までの入荷は済ませておくべき状況にあった筈であるのに、全く集荷をやめてしまい、仕入れるかどうかについてまで翌日甲野の指示を待ってから決めようと考えたというのは不可解である、当時の状況は、他の商品が集まるのを待って集荷すればよいといった間延びした状況ではなかった、仮に次の船便ですぐ送ればフルハムロードへの入荷が一二月中旬ころ以前と予測されたのに、更にその次の船便に延ばすと、フルハムロードへの入荷が一二月下旬になり、一方ブレストカレンダーの売上量は、季節商品であるため、一二月が断然多かったのであるから、販売の商機を逸する結果になることは乙野にもはっきり分かっていた筈ではないか、という。

確かに、乙野は一七日にCCMで甲野と別れた後レンタカーを借り出した事実があるのに、借り出した車で同日又は翌日にパノラミックセールに集荷に行く等した事実は確認されていない。また、集荷に行かない代わりに商品配送の依頼をした様子も見受けられない。もし、原判決がいうように、乙野が甲野から注文された商品を急いで仕入れて追加出荷しようとしていたというのであれば、この諦め方は腑に落ちないと検察官がいうのももっともである。しかし、甲野と乙野が話し合った内容が、例えばパノラミックからの集荷とニッシンへの追加積載交渉を、できるかできないかは分からないがともかく一括して大急ぎで進めてみよう、駄目な場合どうするかはその時点で決めようといった程度のものであったことは十分考えられることであるから、その程度の話し合いであったとすると、このような行動も考えられないことではない。

検察官は、二人が協議して方針を決めるのであれば、追加出荷が駄目な場合にも仕入れだけはすると決めていなければおかしい、そうでなければ首尾一貫しない、という。しかし、落ち着いてよくよく考えればそのとおりであっても、仕入れ商品の確保と追加出荷の段取りをするのが先決だとして大急ぎで飛び出したような場合には、誰もが先々のことまでを綿密に判断してから行動しているとは限らない。本件船会社のB/Lの記載によれば、先にコンテナヤードに運ばれていたニッシンの混載コンテナが実際にOG三W号に船積みされたのは一八日のことで、前日一七日から船積みが始まったというのであるから、この時期に大急ぎで届ければ、別の混載コンテナか何かに積載できる臨機の措置はないかと考えて躍起になることも、客観的には見込みがないにしても、全く分からないことではない。そして、飛び出してはみたものの途中で思わぬアクシデントに見舞われ、もたもたしているうちに予定時間を過ぎ、あるいは追加積載を諦めるほかないことが分かったという原判決の筋書きも、可能性が高いとはいえないまでも、一概にあり得ないこととまではいえない。そして、もし初めに話し合ったときに追加積載が無理ならどうするかが煮詰まっていなかったとすると、乙野が、この際は自分だけで決めないで、翌日甲野と会ってから決めようと考えることは、十分あり得るといえる。検察官は、次の船便、すなわちカット・オフの日が二日後の一一月一九日となっていたオリエンタル・ナイト号等に積めるように行動していなければおかしい、仕入れるかどうかについて乙野が迷う余地はなかった筈である、とりあえず自宅まででも商品の入荷を済ませておくのが当時の状況下では当然であって、そうしていないのは不自然であり、ひいては乙野の追加積載の話も信用できない、という。しかし、入荷時期の如何によって売上げに波のある季節商品のことであるから、仕入れる数量、それだけを単品で送ると輸送コストが高くつくこと等についても確かめ、他の仕入れ商品とのかねあいを話し合って決めようとすることにもそれなりの理由がないことではない。検察官は、輸送コストが高くついても、利幅には大して影響しないかのようにいうが、それは商品が売れた場合のことであって、売れないで滞貨を抱える事態を予測すれば、到底そのようにはいえない。乙野が、翌日甲野に会う予定であるから、そのときにあらためて意向を確かめてからのことにしようと考えたとしても、不自然な選択とは思えない。所論は、乙野と甲野との間で、OG三W号に追加積載できるか否かに関わりなく仕入れだけはしておくことに決まっていたことを動かし難い前提として、乙野が、パノラミックセールに配達を依頼したりあるいは自分で集荷に行かなかったのを不自然だとし、特に一八日の午前中に乙野には集荷に行けないほどの仕事があったわけではない点を、当時乙野が抱えていた残オーダーなどを基にして論証しようとしている。連絡する時間がなかったわけではないことはそのとおりであろうが、右の前提事実に疑問がないかが問題であろう(なお、原判決は、乙野が一七日にそのまま引き返した理由の一つとして、子供を託児所に引き取りに行かなければならなかった点を挙げ、所論は、乙野が当日子供を託児所に預けていたというのは裏付けのある事実ではないし、集荷に行った後でも引き取ることは可能であったから、この点は、乙野が集荷をやめて引き返した理由にはならないという。確かに、仮に子供を預けていたとしても、引き取り時間が多少遅れる旨の連絡をしておけば間に合う程度のことであり、託児所での対応は可能であったとされているから、原判決がこの点を理由としているのは疑問と思われる。)。

なお、乙野は、一一月一七日に甲野からされたブレストカレンダーの注文は注文済み分の集荷ではなく、追加注文であったことを強調し、だから当日の集荷と追加積載がうまくいかないならば、あらためて甲野の意向を聞く必要があったと供述している。しかし、ブレストカレンダーの発注、入荷関係をみると、この年の五月に四〇〇個、一〇月のギフトショウ後に六〇〇個それぞれ注文された(捜査官作成の各報告書[甲七七四、七七五])分に対して、入荷は、七月七日付けインボイスナンバー#五七の四八個、一一月一六日付けインボイス#六七の二五〇個であり(捜査官作成の報告書[甲五六九])、その結果、入荷残が七〇二個になっていたものと認められるから、一一月一七日の段階における集荷分というのは、すでに注文済みで仕入れ未済分に関するものであったと理解される。しかし、この場合、一一月一七日にその残り全部が間に合うとは限らないから、それならば、その後に入荷する分とまとめて集荷することを含めて、甲野の意向を確かめてからにしようと考えたとしても、不自然とはいえない。

以上述べたところによれば、乙野が、一七日に追加積載を断念した後の事後措置として、一七日中あるいは翌日すぐ自ら仕入れに行ったり、仕入れの手配をせず、甲野の意向を確かめてから決めようとしたのを不自然であるとか、これはそもそも一七日にブレストカレンダーを仕入れる話がCCMで出ていなかったことを物語っているとまでは断定できない。

(五) 第五関門(現実の集荷と発送の遅れ)

第五の関門として検察官が指摘するのは、ブレストカレンダー七〇二個が一二月九日に乙野方へ配送されたのに、その出荷が一二月二九日となっていること(インボイス#六九)について、これは同人が一一月一七日に仕入れを急いだということと対比すれば不可解であり、逆にバンで集荷に向かった事実がないと考えたときに初めて了解できることであると主張する。

確かに、関係証拠によれば、一二月九日に乙野宅に配送された七〇二個のブレストカレンダーを、乙野は、一二月二九日にレンタルしたバンで他の商品と共に運送業者ITS(インターナショナル・トランスポーテーション・サーヴィス)のコンテナヤードに運び、それは一月三日に船積みされている事実が認められる(ニッシンのインボイスは一月五日付け。甲五六九[57-5933]、物一一六、一一七[35-1387]、Bの第八四回原審供述[173-7304,7317]、同公判調書添付法廷資料一三[173-7380]、一六[173-7386])。

(1) 検察官は、一七日に仕入れに行くことを断念した後、乙野がパノラミックに対して、どのような連絡を、いつしたかを問題にし、一二月九日に入荷しているということは、すなわち、乙野がパノラミックに対して、一二月七日か八日まで何の連絡もしていなかったこと、つまり入荷を急いでいなかったことを示している、という。しかし、この点は必ずしもそうとばかりはいえない。一一月一八日に銃撃事件が起こったため、その日から一一月二五日に甲野が退院するまでの間、乙野は、言葉が十分にできない甲野に代わって各方面の対応に追われ、ブレストカレンダーの件の相談どころの騒ぎではなかったかも知れないし、その後一二月初旬にはアメリカに在住していた乙野の姉の急死が伝えられて、葬儀出席等のため急きょサンフランシスコに出かけていることを念頭に置いておかねばならない。ところで、原判決は、この点について、事件が起こり「指示が得られないまま日時が経過したと考えることもできないわけではない。」と判示している。しかし、乙野にとって、銃撃事件発生後、姉が急死したとの報に接するまでの間、いかに忙しくともパノラミックに電話連絡をする時間もなかったというわけではなかろう。その間の実情は、証拠上明らかではないが、一二月九日に乙野方へ配送されている事実と、配送された数量が注文済みで仕入れ未了であった七〇二個にきっちり相当する数であったことからすると、その前のいずれかの時点で、パノラミックとの間で仕入れ未了の数量を確認し、その数量をまとめて配送してもらう手配がされていたのではないかと窺われる。その手配をした時点としては、一一月一一日に二五〇個を仕入れに乙野がパノラミックへ行ったときが考えやすく、この時点では仕入れ未済の残量については、数量がそろい次第配送してくれるよう依頼してあり、その後一一月一七日にそのうちのいくらかでも引き取ることができれば引き取りたいと考え、引き取っておればその残量が揃い次第配送されることになる筈のところ、引き取りに行かなかったために、残量七〇二個がまとめて配送されることになったと考えて不自然ではない。もとよりこれは一つの可能性に過ぎないが、一七日に引き取りに行かなかった点について、乙野がパノラミックに何らかの連絡をしていなければおかしいということには必ずしもならないから、その点に関する検察官の主張は、一つの考えではあるが、そうでなければおかしいとまではいえない。

(2) 一二月九日に配送されたブレストカレンダーを、乙野は、一二月二九日に日本に向けて船積発送の手配をしている。この場合には、フルハムロードへの入荷が一月下旬となり、売れ行きへの影響を考えれば、季節商品の発送にしてはいかにも間延びしていると感じさせられる点がある。ただ、この間の乙野は、一二月一八日ころまではロスに滞在中であったCの母や妹の面倒をみるのに手を取られていたこと、一二月一〇日ころにはすでにドンドンの仕事を辞めて帰国しようとの気持ちになっていた時期で、仕事も手仕舞い状態であったこと等を考えなければならない。もとより、それだけでは船積み発送がこのように遅れた理由の説明として十分とはいえないから、大局的には検察官の指摘がある程度当たっていると考えられる。ただ、発送遅れの理由としては他にもいろいろな事情が重なることが考えられ、例えば運送費用の関係で他の商品と一緒に送った方がよいと判断した可能性もあり得るから、発送遅れという結果だけを根拠として、乙野供述を全面的に否定しきれるとまでは思えない。

(六) 小括

バンの使途はブレストカレンダーの追加出荷のためではなかったかという乙野の供述は、乙野自身の僅かな生の記憶と、主として一一月一六日付け、一二月三〇日付けの各インボイスの記載に基づいてなされたものであった。しかし、その供述内容は、検察官が綿密に検討して指摘した以上の各関門との関係でみれば、いかにも説得力に欠け、すべての関門をくぐり抜ける可能性はかなり小さいと考えられる。そして、乙野のこの供述は、もしOG三W号の運航が予定どおりであったときには客観的事実と正面から矛盾してしまい、成り立たなくなる大きな危険をはらんでいた。ところが、当時、同船の運航には希にみる大幅な運航遅れが生じていたために、乙野が追加出荷を考えたのではなかったかという丁度その時期にはまだ出航しておらず、貨物の積み込みを始める時期に当たっていたことが明らかになり、こうして乙野が僅かな記憶に基づいて述べたところとOG三W号運航の遅れとが奇妙に一致する結果となっているのである。この供述をした当時、勾留中であった乙野が、このことを計算に入れてことさらこのような供述をしたと考える根拠はない(乙野の前記一〇月三一日付け警察官調書[乙四〇])。詳細な経過は今となっては分からないまでも、このことは軽視できない点であって、この事実があるために、ひょっとするとOG三W号の運航の遅れの情報がなんらかの形で乙野に伝わり、そのため乙野ができるかどうか分からないがともかくやってみようと考えて行動した可能性を、それは大きな可能性とは認められないけれども、全面的には否定しきれないと考えられるのである。原判決の判断は、その意味で誤りではないといえる。

5 その他の集荷目的にバンが使用されたことはないとの主張について

所論は、(a)乙野バンは、乙野が供述するような使途に使われたことがないだけでなく、乙野が正しい資料を与えられていれば多分思いついたであろうバンの使途を想定しても(OG三W号への追加出荷のためではなく、その次の船舶便に間に合わせることを目的として商品の集荷などに使用するという用途)、そのような用途に使われたことはなかった筈であるという。すなわち、乙野は、インボイス#六七の作成日付けが一一月一六日付けとなっていたのを見て、このインボイスに記載されている貨物を出荷したのは同日であったと誤解し、翌一七日にバンを借りたのは、このインボイスに記載されている貨物に追加積載しようとしたためと判断したのかも知れないが、もし乙野が、このインボイス記載の貨物を出荷した日は一一月一二日であると正しく理解していたとしたら、これへの追加積載を推測しないで、そのすぐ後の船便に積載すべく行動したと推測した筈である、しかしその場合にも、乙野の供述する行動には、前述した五つの関門との関連で合理的に了解できない点が多く、次の船便に載せるという目的でバンを借りて行動したとも理解できない、というのである。

併せて、所論は、(b)乙野バンは、ブレストカレンダー以外の商品の集荷に使われたことはなかったし、また(c)その他のいかなる商用にも私用にも使われたことはなかった、と主張する。

(一) 検察官は、要するに、乙野のバン借り出しが次の船便への積載を考えた行動であったと考えても、矛盾や不自然さが多々あり、結局ブレストカレンダーの追加仕入れ、出荷のためにバンを借りたことはあり得ないというのである。

右に関して検察官が特に強調するのは、第四の関門、すなわち、乙野が、パンクの修理を終えた後、その日にも翌一八日にも仕入れをしていない点についてである。もし乙野が次の船便に急いで載せようと考えて行動を開始していたのであれば、それはその時点での最優先の仕事であった筈であるから、一八日の午前までに自ら集荷するなり、パノラミックに配送依頼をすることが可能であったのに、そうしていないのは不自然であること、また第五の関門、すなわち、ブレストカレンダーが実際に入荷したのは事件後約三週間を経過した一二月九日のことであるから、それまでパノラミックに指示しなかったり、一二月二九日まで出荷しなかったのは不自然であること、以上の二点である。

しかし、これらの点には、先に判断したことがおおむね同様に当てはまる。確かに、追加出荷ではなく、次の直近の船便に載せようと考えていたというのであれば、一七日に予期せぬ事態が生じても、まだ時間的余裕は残されていたことになるから、多少遅れても集荷に行ってよかったと考えられるし、少なくとも追加積載しようとする場合よりは、集荷に向けた行動をやめる理由は薄弱だといえる。それなのに、翌日に集荷していないだけでなく、パノラミックに配送依頼をしていない点でも、疑問を持たせないではない。しかし、それ以上具体的なことは、証拠上何も分かってはいないのである。

(二) 次に、所論は、入手可能であったドンドンのインボイス等の書類を調査検討した結果からみて、当日乙野がドンドンの業務に関連してブレストカレンダー以外の他の商品の集荷のためにバンで行動した可能性もないと主張する。検察官が検討対象としたのは、主として一二月三〇日付けのインボイス#六九に記載されている「ホワッツニューの商品」、「ビル・サムエルソンの商品」、そして残オーダー表に記載されている商品等であるが、それらの商品を集荷するために、一一月一七日にバンで行動した可能性があるかどうか検討したが、いずれも否定されるというのである。検討された限りでは、検察官の分析過程に特段の問題はないと認められるから、この分析によってドンドンのある程度大まかな商品の動きは明らかになっているといえようが、それにしても、これによって七年も前の特定日の乙野の行動の全容が解明されたといえるかについては、経験則上、かなり心許ない点が残ると考えざるを得ない。

(三) 更に、検察官は、乙野バンは、上述した以外のいかなる商用にも私用にも用いられていないことが判明したと主張している。

そして、前述したとおり、他の商用使用に関しては、検察官は、一一月一日以降ドンドンを閉鎖するまでの間のインボイスを調査対象として、そこに記載されている商品の集荷、出荷のために本件バンが使用された可能性のないことの論証を試みている。その検討は、フルハムロードへの出荷関係だけでなく、それ以外の取引先関係をも含んでおり、また、返品等のための使用にも触れていて、かなり広範囲で網羅的な検討がされているということができ、ドンドンの商品の流れ、取引経過はかなりの程度明らかになっていると判断される。しかし、そうであっても、七年も前に、バンをある特定の用途に使ったかどうかというだけでなく、いかなる商用にも使ったことがないという、いわばすべての用途を一つの漏れもなく想定して、しかも全面的に否定するなどということができるものかどうか、一般的にみて疑問というべきである。

次に、私的用途への使用に関しては、検察官は、主として乙野やその妻の使用した記憶がないとの供述を根拠として、もし私的なことに使用すれば当然覚えていてよい筈であるから、それを覚えていないということは、私的な用途に使用していないことの証左であるという。

確かに、乙野は原審公判廷において、可能性としてはいくらでも用途は考えられるといいながら、具体的な使途についての記憶がイメージとして残っているわけではないとも言い、私的な用途に乙野バンを使用した記憶のないことを認めている。乙野の妻についても、同様である。確かに、本件バンは、普通は物の搬送、商品の集荷、出荷などの商用に使われることが多いから、私的な用途に使った場合には記憶に残っていてもよい筈だという主張には、一応は理由があると思われる。しかし、これだけ年月が経った後で、記憶以外に根拠がないというのでは、どうしても不確かさがつきまとうことを否定できない。

ところで、検察官がこのように乙野が借り出したバンの使途を全面的に否定する趣旨は、乙野が弁解するバンの使途を否定することそれ自体に目的があるのではなく、そもそも乙野が本件バンを正当な用途に使用した事実が全面的にないことを論証することによって、そのバンの唯一の使途が、本件犯行現場への臨場以外にないことを立証したい趣旨であるためにほかならない。

今、乙野バンの使途という点だけに限ってみれば、検察官の主張と立証は、全面的に成功したとはいえないにしても、かなり説得的で、理由があると考えられる。それに較べれば、乙野があるかないかの記憶をたどって推測したというバンの使途は、全くあり得ないこととして全面的に否定できないとしても、現実問題としての可能性はかなり小さいとみるのが適当であろう。この事実は、右の点が乙野の現場臨場性を推測させる一つの情況事実として意味を持っていることを示している。しかし、乙野の臨場性を最終的に断定するには、他の情況事実との照合が必要である。その趣旨については先に述べた。

6 本件バンの走行距離について

所論は、乙野バン借り出し中の走行距離が約三四マイルであった事実は、乙野と本件犯行とを結びつける情況事実と考えられると主張し、それなのに、原判決が、走行距離に関する事実は乙野と本件殺人事件とを結びつける有力な情況証拠とはいえないと判示したのは不当である、という。

すなわち、検察官は、乙野がこのレンタカーを本件犯行に使用した場合の最短距離、つまりレンタカー会社から乙野方、そこから犯行現場、そしてレンタカー会社へと走行した場合の走行距離である約二二マイルを超えているし、かえって犯行前日に甲野と犯行現場の下見をしたと仮定した場合の走行距離、すなわちレンタカー会社から犯行現場、そこから乙野方へ、翌日乙野方から犯行現場、そしてレンタカー会社へと走行した場合の走行距離34.2マイルないし35.35マイルにほぼ匹敵していて、下見を含む犯行準備と犯行に使用されたと判断して矛盾がない、それなのに原判決は、乙野が実行犯人であるとした場合、あえて前日に犯行に使用するバンで下見をする必要性があったか疑問の余地があるとし、その理由として、前日に下見をするとすれば、通勤者が帰宅を始める時間帯になるが、そのような時間帯に現場へ甲野車とバンを乗りつけて打ち合わせをしたりすれば、二日続けて同じ車が駐車するのを目撃されることになって怪しまれる、もしこの場合甲野をバンに乗せて行くと、走行距離が合わなくなる、乙野が供述するとおりの、追加積載するつもりで出かけて途中で引き返した場合の走行距離もおおむね同じになるから、検察官の主張する走行経路だけが唯一のものとはいえない等の点を指摘してこれを容れなかったのは不当だ、というのである。

しかし、走行距離に関する右の事実には注目をひく点がないわけではないけれども、直ちに乙野の現場臨場性を推測させる重要な情況事実であるとまでいうのはややいい過ぎではないかと考えられる。その理由は以下のとおりである。

まず、検察官は、バンの走行距離は、乙野がこのバンで犯行現場に臨場したことと「矛盾しない」と述べている。この言い方は、単に乙野が犯行現場に臨場したことを否定する根拠にはならないというだけのようにも響くが、真意はそうでなく、乙野の現場臨場性を積極的に支える情況事実の一つであると主張している趣旨と理解され、原判決もそのように理解した上でなおこれを情況事実とはいえないと判断し、検察官もそのことを前提として、原判決の判断を不当と主張している趣旨と考えられる。この走行距離の測定は、最も一般的と思われる経路の選定等をアメリカ側捜査官に任せて、それに従って自動車を走らせ見分した結果であるが、おおよその走行距離を知るにはこれで十分と認められるから、以下においては、これを前提にして検討する。

争点の一つは、乙野が銃撃実行者であるとした場合、あえて事件前日に下見をする必要性があったか疑問の余地があるとした原判決の判断の当否である。乙野が、前日に下見をしたと仮定した場合の経路は、バレーレンタカーでバンに乗り換え、そこから犯行現場へ行って下見をし、同日はその車で一旦乙野方へ帰り、翌日再度そのバンを運転して犯行現場へ行き、犯行後逃走してバレーレンタカーにバンを返却するということになるから、その間の走行距離は、具体的な経路によって多少異なるにしても、ほぼ三四マイルという乙野バンの走行距離の範囲内にあると推計される。これに対して、下見をしなかった場合の走行距離は、バレーレンタカーを出発して乙野方へ帰り、翌日犯行現場へ行き、犯行終了後バレーレンタカーに返却するまでの約二二マイル程度にとどまり、これでは乙野バンの走行距離にはるかに及ばず、犯行に使われたとは考えにくくなる関係にある。所論は、この点をにらみながら、本件の綿密・周到な計画性からみて必ず下見をした筈で、だから三四マイルでほぼ一致するというのである。

本件は、バンを犯行現場に停車させ、そのバンの中から銃撃したかそれともバンの外から銃撃したかは別として、ともかくバンを目隠しに使って犯行を実行したと主張されている点に特徴のある事件である。そのことからすると、犯人らにとっては、犯行前のいずれかの時点で、バンを実際に犯行現場に停車させてみて、犯行場所としての適否や銃撃できる死角範囲の確認その他を下見し、綿密な打ち合わせをする必要性が高かったと考えるのが常識的であろう。また、その下見は、乙野にとってよりも甲野にとってより必要性が高かった筈と考えられる。つまり、検察官の主張を前提にすれば、乙野は犯行後人目につかないように注意して現場から逃走すればそれでよかったし、同人はロスに住んでいて現地の地理にもある程度通じていたとみられるのに対して、甲野は、乙野ほど地理に通じてはいなかったとみられる上、犯行後には被害申告、そして保険金請求が予定されていて、その手続の中で疑われないためにも、あらかじめ下見をし、その場所で強奪の被害にあったといっても疑われそうにないかどうか、その現場の状況に通じておくことが必要であったと思われるからである。

下見が必要であるとしても、それを一一月の渡米前に済ませておけば、本件前日に行う必要はなかったことになる。ところが、本件が発生した一一月の渡米時以前に、甲野がバンを使って下見をした事実があったかどうかについて、検察官からは何らの主張も立証もされていない。むしろ、証拠によれば、甲野の本件直前の渡米時に当たる九月にはギフトショウの準備等で忙しく、乙野も甲野も共に、下見をするような時間的余裕はなかったと一致して供述しているところ、これに対して検察官から格別の反論はされていない。また、このときには、乙野がバンを借り出した事実が認められず、下見をする条件が整っていない。そうすると、八月におこった殴打事件後、下見が可能な機会としては一一月一七日しか残されていないことになる。しかしその場合、もし犯行に下見が欠かせないことが検察官主張のとおりであるならば、甲野としては、まず下見その他の打ち合わせを念入りに行う日程を先に取り、その上で犯行実行日を設定する筈ではないか、それなのに何故ロス到着当日という、十分な打ち合わせ時間をとることができそうにないことが最初から分かり切っている日に下見を予定し、その翌日を犯行日に設定したのかが大きな疑問となる。

そして、このとき、仮にレンタカーに甲野を同乗させて一緒に本件現場の下見をしたとすると、現場を間に挟んでCCMと乙野の自宅とが反対方向になる地理的な位置関係からみて、下見後、乙野はまず甲野を現場からCCMへ送って行き、その上でまた現場方向へ戻ってきて自宅へ向かう関係になる(ロスの地図[甲四三六]参照)。そうすると、犯行現場とCCM間の距離は約1.2マイルと計測されているから(走行距離等に関する捜査報告書[甲七五六、七五七])、往復約2.4マイルだけ検察官の主張より乙野バンの走行距離が延びることになり、その分だけ乙野バンの実際の走行距離との間にずれが生じそうである。この距離加算をなくして実際の乙野バンの走行距離に合うようにしようとすると、甲野はCCMから自分のレンタカーで現場へ向かい、一方乙野は甲野とは別にCCMからバレーレンタカーへ行ってバンを借り、その上で現場へ向かい、二人が別々に出かけて現場で落ち合うことが考えられる。しかし、その場合には、乙野がバレーレンタカーへ行き、バンを借りた上で現場へ戻って来るまでの間の所要時間、渋滞による予定時間の狂い等を考えなければならず、当時の甲野にはCを迎えに行くまでに限られた時間しかなかったことを考慮すると、両名の協議時間がなくなってしまうことや行動予定が立ちにくい点などで、実際的とは思えない。(一つの計測結果によると、CCMからバレーレンタカーまで約二〇分、バレーレンタカーから現場まで約一四分とされている。ただし、通勤で混雑する時間帯にかかると大幅に相違するとされている。)。

次に、同日、乙野がバンを借りたのは、レンタカーを返却した時間から逆算して、午後四時直前のことであったと認められるところ、このときの甲野は、買い物に出かけていたCを間もなく迎えに行く予定を控えており、下見に割ける時間はせいぜい五時ころまでしかなかったのではないかと思われる。一方、犯行現場付近は、犯行現場自体が駐車場である上に、目の前一帯が大きな駐車場となっていて、勤務時間を終えた通勤者の動きが丁度多くなる時間帯と場所に当たっていたから、その一角にバンを長時間停車させ、人目につくような形で下見をすることには心理的抵抗が強かった筈と推察される。検察官は、いかようにでも下見できると主張するが、現実的には説得力のある主張とは思えない。

他方、原判決がいうように、追加積載のためにバンを走行させたという乙野の供述に沿って計測しても、その走行距離は、乙野バンの走行距離と矛盾しないことが認められる(乙野の弁護人提出の走行距離測定報告書[弁B六〇、六一]によると、一九九三年七月二三日ホーデル調査員によって計測が行われた結果では、約32.3マイルないし約31.2マイルとされている。もとより、現地の地理に通じている乙野にとって、距離を調整しながら供述することはそれほど困難でないことを考慮しておくべきかも知れない。)。

このようにみてくると、本件のような態様の犯行を実行するに当たっては、犯行前に下見をしておく必要があると考えられることは、検察官主張のとおりであり、原判決がこれを一切不要と考えたとすれば、首肯できない。しかし、下見が必要であるとしても、それを前日に行ったとし、三四マイルという乙野バンの走行距離を、これと結びつけて考えるのは疑問である(ちなみに、乙野はバレーレンタカーから一一回バンを借り出しているが、その時の走行距離は、二九マイルから四七マイルの間が七回となっている。レンタル契約書[物一一一、一一二、一一六、一一七])。そうすると、先に述べた原判決の判断には、結論において不当な点があるとはいえない。

7 乙野がバレーレンタカーの存在を秘匿していたことについて

所論は、乙野は捜査官から、ロスで使用していたレンタカー会社名を尋ねられたのに対して、当初ロケットレンタカーとUホールの名前を挙げながらバレーレンタカーの存在を供述せず、供述しなかったのは同社の存在を忘れていたためであると後日弁解したところ、原判決は乙野のこの弁解を認め、その上で、仮に乙野がバレーレンタカーの存在を秘匿していたのだとしても、自分の立場をできるだけ犯罪の容疑と離れた場所に置きたいと考えるのは一般的にあり得ることであるから、秘匿していたことが乙野の犯人性を推測させる事情にはならないと判断した、しかし、(a)乙野がバレーレンタカーの存在を忘れる筈はなく、もし事件に無関係であれば、臆することなく供述できた筈であるから、ことさら秘匿したことは明白である、(b)同人が秘匿した事実は、乙野がバンを犯行に使用したことの重要な証拠である、というのである。

(一) そこで、乙野のレンタカー利用状況をみるのに、乙野は、かつて千代田インダストリアルに勤務していた当時から、必要があるときには、バンは主としてロケットレンタカーから、トラックはUホールから借りて使用していたこと、独立してドンドンを開業した後も同様の状態が続き、その後同五六年六月からはバレーレンタカーも利用するようになって、本件後の同五七年一月までの間に合計一一回同レンタカーを利用したことがあり、したがって、利用した期間と回数が多いのはロケットレンタカー等であるとしても、アメリカ滞在の最後のころ、つまり本件発生に近い時期にはバレーレンタカーを利用していたのであるから、この会社名をずっと忘れていたとは、容易に信じられない。

(二) 乙野は、自分が借りたのと似たタイプのバンが捜査対象になっていることを事件発生直後に知り、当日借り出していたことを印象深く記憶していなかったかどうか。まず、ロス市警察の初動捜査情報の中には、事件直後ころから白いバンが関わり合っているのではないかとの情報が含まれていたから、常識的にみれば、ロス市警の捜査官と乙野とのやりとりの中で、そのことが同人に伝わる機会があったのではないかと推測される。もしそうであるならば、犯行の前後にバンを借りていた乙野としては、事件の衝撃や自分が疑われるおそれをその時点で心配して、事件当時の自分の行動やバンの使途を何度も反芻・想起し、記憶にとどめる結果になったのではないかと思われるのである。しかし、そのことがどの時点で乙野に伝わっていたことを示す明確な証拠は見当たらない。例えば、昭和五六年一二月四日、ロス市警察で甲野がグレイ捜査官に事情を説明した際、グレイ捜査官は、白いバンについて甲野に尋ねたと供述しているが、このときは事情聴取の途中で乙野が退席したこと等もあって、右の点が乙野に伝わったかどうかの詳細が不明である。これとは別の機会に、ロス市警察の捜査情報がどれくらい乙野の耳に達していたかも、総じて明確でない。しかし、乙野は、アメリカで所持していたライフル銃を日本に持ち帰った理由説明の中で、グリーン色の自動車が事件に関係していると聞き、自分も同色の車を所有していたので、将来身の潔白を明らかにしなければならない事態が生じるかも知れない不安を漠然と感じていたと述べたことがある。ロス市警内部で嫌疑車両としてグリーンの車のことが問題とされていたのは事件直後の短時間のことであって、その直後には白いバンに取って代わられていたから、乙野がもしグリーンの車のことを耳にしていたというのであれば、同時に白いバンのことも耳にしていた筈ではないかと考えて特に無理はない。

(三) 乙野は、本件発生後約六・七年余の期間を経過し、記憶がぼやけていてもおかしくない時期に、捜査機関から、レンタカー借り出しの事実や会社名を尋ねられることになった。銃砲刀剣類所持等取締法違反による乙野の逮捕後、一〇月三、四日ころの妻Eに対する事情聴取の中で、同女が、名前は分からないが、アルハンブラにあるレンタカー会社(バレーレンタカーを指す。)からもバンを借りていたことがあると供述し、この供述に基づいて、バレーレンタカーの存在が分かり、乙野が同社から車両を借りたときの契約書、本件後転売されていた乙野バンが発見されるに至っていたからである。その経過とこれに対する乙野の供述経過と供述内容については、先に述べたとおりである。

ところで、事件前日にバンを借りていても、格別強く印象づけられることなしに六・七年もの期間が経過してしまえば、その後でバンの借り出しの事実を尋ねられても、誰でも正確に答えられるとは限らないかも知れない。しかし、白いバンの捜査情報を耳にする機会が多分あったのではないかとの疑いを拭えないだけに、レンタカーを借り出していたことの記憶が全く残っていなかったという乙野の供述には、釈然としないものが残る。

そのことは、レンタカー会社の名前も覚えていなかったという乙野の供述によって一層強められる。所論は、乙野がレンタカー会社をロケットからバレーに変更した理由、借りていた回数、バレーが乙野のアメリカでの最後のレンタカー会社であったことなどからして、ロケットレンタカーを覚えていてバレーレンタカーを忘れていたとは考えられない、という。もっともな指摘というべきである。ただ、乙野にとって、ロケットレンタカーは千代田インダストリアルに勤めていた時代から利用していたレンタカー会社であって、利用した期間も長いし、借りた回数もはるかに多かったから、年月を経過した後で思い出すときには、ロケットレンタカーを先に思い出すこと自体は格別不自然ではないかも知れない。しかし、よく思い返してみた結果、ロケットレンタカーとUホールを思い出したというのならば、その際より新しい時期に利用していたバレーレンタカーのことだけ思い出さなかったというのは不自然ではないか、名前まではっきり思い出さなくても、どの辺りにあったレンタカー会社という程度には思い出してもよさそうではないかとの印象を拭えない。ただ、乙野は、逮捕の数か月前に取引書類等を見直していた機会にようやく思い出したとしているが、その経過自体は不自然とはいえず、ことさららしい点は格別見当たらない。その後思い出したがすぐには捜査官に供述しなかったと述べている点と合わせてみれば、原判決がいうように、人の記憶力には個人差が大きく、同じ人でも記憶に残る分野にばらつきがあるから、すべてを一挙に思い出さなくてもおかしいとまではいえず、これを直ちに、ことさらな隠蔽行為と断定できないとする原判決の判断も、全く理解できないとまではいえない。また、妻のEは、前述したとおり、乙野が捜査官に対してまだ供述していない時期にバレーレンタカーのことを自分の判断で供述しているところ、その供述内容は具体的で何ら不自然ではなく、何よりも乙野が妻に対して口止め等していなかった点は注目されてよい。

(四) 右に述べたとおり、乙野は、逮捕されるより前にバレーレンタカーのことを思い出したのに、逮捕前はもとより逮捕後においても、レンタル契約書を突きつけられるまではこれを秘匿し続けた。乙野を標的にしたと受けとられるマスコミ報道が激しくなって、ライフル銃についての捜査経緯なども絡み、マスコミや警察に強い不信感を抱き、同人が極めて神経質になっている状況の中で、前述したとおりの警戒心から秘匿する態度にでたというのである。現時点からみれば疑問に感じられても、その渦中に巻き込まれ、マスコミの集中攻撃を受けていた者のその時点での選択結果としてみれば、それなりに理解できないではない。原判決は、この点について、自分を容疑と離れた場所に置きたいというのもあり得ないことではないと説示しているが、理解できなくはない。

そうすると、右の供述経過に関する乙野の弁解は、全体としてみれば、疑いを招くことの多い供述態度であることは否定できないが、最初は思い出さず、途中からは思い出していたが、供述する気にならなかったということもある程度は考えられることであり、そうすると上述したような同人の供述態度の真意は、借りたバンを本件犯行に使用していたからであると断定するにはなお躊躇されるものが残る。

第六  乙野の犯行現場への臨場性(その二 いわゆるアンテナ問題)について

一  問題の所在

銃撃現場に遺留されていたカメラから取りだしたフィルムを現像したところ、その中の一枚に、本件直前にCが駐車場から南東方向を向いて撮影したと思われる写真(甲野写真13)があって、これには甲野や、その背景にやしの木等が写っていたが、同時にその左下隅に何かの一部が写っていて、検察官は、これは目撃者が事件現場で目撃したいわゆる現場バンの右前部窓枠の一部分であると主張している。写真の背景、その位置関係などからみて、一応そのとおりと考えることができる(乙野の弁護人は、その物体は現場バンの一部分ではなく、Cが偶々カメラを構えたときにその場を通りかかった別のバンの一部分であると主張する点があるが、映像にぶれがないこと等からみて、そのようには考えられない。)。ところが、これをバンの一部だとすると、その写真には、アンテナが写っておらず、そのことに疑いはない。しかし、写真の構図、位置関係からみて、もしそのバンにアンテナが装着されていたとすれば、アンテナマストは、どんなに短く畳まれていたとしても三〇センチメートル以上はあるから(サシャーアンテナに関する捜査報告書[甲一〇一三]、サシャーバンに関する実況見分調書[甲三一二、三一三]、サシャーアンテナ[物六七四・同押号の二六四])、同写真の左下部に写っていないとおかしい関係にある。その事実自体は検察官も認めているところである。それにもかかわらずこれが写っていないということは、この現場バンには、アンテナマストが最初から装着されていなかったか、あるいは最初は装着されていたがその後破損し、無装着状態になっていたかのいずれかであろうと判断される。そこで、原判決は、この事実を前提として、乙野バンのアンテナ装着の有無を証拠に基づいて検討し、昭和五四年にバレーレンタカーがこのバン(フォード社製のエコノライン)を新車で購入した当時には、エコノライン用の純正アンテナが装着されていたこと、その後所有者が転々と変わり、本件殺人事件の約七年後にリチャード・スタンリー・サシャーのもとで発見されたときにも、詳しくは後述するが、純正アンテナが装着されていたと認められるとし、このような点からすると、その中間で乙野が借りたときにも、乙野バンにはアンテナが装着されていた可能性が相当に高い、とすると乙野バンと現場バンとは同一でない疑いが残るとして、この点は乙野の現場臨場性に疑問を持たせると判断した。

これに対して、検察官は、乙野バンのアンテナは本件当時欠損していた可能性があるからこの点に関する原判決の判断は不当であるといい、補充捜査を繰り返しながら、原審で精力的にその点の立証に努めた。すなわち、昭和六三年一〇月に初めてバレーレンタカーの存在を知った後、調査可能な同社保有の合計二〇台のバン型車両について、アンテナの装着、破損と補修関係の追跡調査を行い、その結果を分析して、前述のとおり主張するのである。

この問題を判断するに当たっては、次の二つの点にまず留意しておくことが必要である。

その第一は、アンテナマストの原物性(すなわち、乙野バンが新車の当時から一九八八年一〇月ころサシャーのもとで発見されるまでの間、終始同じアンテナマストがついていたかどうか、つまり、サシャーのもとで発見されたバンについていたアンテナマストは、新車のときに装着されたオリジナルのものであるかどうかということ。以下このことを、原物性という。)に関する検察官の主張には、破損原因に関して、変遷があるということである。すなわち、検察官は、原審において、当初、バレーレンタカーの経営者ジョー・アダムスの原審証言を根拠として、バレーレンタカーでは、バン型車両洗車の際にアンテナマストが折れることが多かったが、折れてもすぐに取り替えはしなかった、中には一年くらい放置しておくこともあったし、客に損害賠償を求めることもしなかった、レンタル契約書の「貸出車両の状態」OUT欄にアンテナ異常のことは記載せず、同欄に「GOOD」と記載することもあった、この取り扱いは貨物用バンのエコノラインだけについての取扱いであるが、そうした理由は、バン型車両のアンテナマストはよく折れ、しかもエコノラインにはAMラジオしかついていなかったからアンテナマストがなくても困ることはなく、使用目的との関係で外観等を重視する必要がなかったからである、などと主張した。ところが、その後バレーレンタカーから依頼を受けて、同社のレンタカーを実際に洗車していた会社、バレー・センター・カーウオッシュの支配人ホセ・ルイス・ピネドが、原審で弁護側証人として証言し、洗車のため折損することが多かったというアダムスの証言を否定して、本件当時は、現在の布式洗車機に代わる前で、ブラシ式洗車機が使用されていた時期に当たっている、その機械にはセンサーがついていて、車高の高いバン型車両の場合はトップブラシが自動的に上方に上がる構造になっていたため、仮に車両のアンテナを畳み忘れたようなときでも、乗用車に較べれば、アンテナを折損することは少なかった、自分の体験ではバンのアンテナが折損するのを見たことはないと証言して、対立した。原判決は、両証言の信用性を関連証拠に基づいて検討した結果、直接洗車を担当していたピネドの証言の方が信用できるとし、アダムスの証言を排斥したため(当審での検討によっても、この判断は誤っていないと認められる。)、ここに至って検察官は、洗車によってアンテナマストがよく折損したという当初の主張を捨て、本件控訴趣意においては、原審で主張した路線を修正して、洗車よりもいたずらによって折れることが多かったと主張するに至っているのである。

その第二は、検察官は、アンテナ問題を検討した結論として、乙野バンに本件当時アンテナが装着されていたかどうかはどちらとも断定できないと消極的な主張をしているが、その趣旨は、乙野の現場臨場性を示す有力な情況証拠、すなわち乙野バン借り出しの事実が存在するから、このアンテナ問題だけに限っていえば、乙野バンにアンテナが装着されていた可能性が高いとする原判決の判断を弾劾することによって、この点については少なくともどちらとも判断できないという程度にまで持ち込むことができれば、それで十分であるという判断(裏返していうと、その程度にまで立証できなければ、乙野の現場臨場性に関する検察官の主張は破綻をきたすかも知れないという判断)に立っていると理解される点である。ところで、乙野バンにアンテナが装着されていた可能性が高くなればなるほど、それだけ現場バンと乙野バンが同一でない可能性も高くなり、ひいては乙野の現場臨場性、その犯人性が否定されやすくなることは自明である。それでは、アンテナ装着の有無の点が、仮に検察官の目論見どおりにどちらとも断定できないという立証状態になれば、乙野の犯人性を立証しようとする検察官としては目的を達したことになるかといえば、それは疑問である。すなわち、本件において、乙野の現場臨場性を支えている柱の一つは、乙野が借りたバンについては商用及び私用を含む正当な用途が見当たらないから、犯行現場へ行ったに違いないと間接的に推認する点にあるが、乙野が現場へ行ったかどうかは、より直接的には、乙野バンが現場に現れたかどうかにかかっている。したがって、このアンテナ問題に関して、乙野バンにアンテナがついていたかどうかを巡る証拠関係がいわば五分五分の状態になるということは、これを裏返してみれば、乙野バンにアンテナがついていた可能性、すなわち現場バンと乙野バンが同一でない可能性も半分は残るということにほかならず、このアンテナ問題は、乙野バンの現場臨場性に大きな影響を及ぼし、状況如何によっては乙野の臨場性を否定しかねない事実だと思われるのである。以上の二点に留意した上で、以下検討を進める。

二  サシャーアンテナ(以下、Sアンテナという。)の原物性について

1 検察官の主張

所論は、要するに、原判決は、(a)サシャーの下で乙野バンが発見されたとき、同車に装着されていたアンテナマスト(以下、Sマストという。)は、同車を新車として製造するときに装着されたオリジナルのマストである可能性が高い、すなわち、乙野バンのアンテナマスト部分は、車両製造時からサシャーのもとで発見されるまでの間、破損していなかった可能性が高い、(b)乙野が本件前日にバレーレンタカーから乙野バンを借り出した際のレンタル契約書には、貸出し時の車両状態欄に「GOOD」という記載がされていて、この事実も乙野バンのアンテナに異常がなかった可能性が高いことを裏付けているとして、本件当時、乙野バンにはアンテナが装着されていた可能性が相当に高いと判断したが、これは誤りであるというのである。そして、

(a)の点に関しては、昭和六三年サシャーのもとで発見された乙野バンに純正品のアンテナが装着されていても、折損したアンテナマストを純正部品で補修することは可能であるから、そうすると、純正部品がついていても、それが原物であるかどうかは、その部品を見ただけでは識別できない、バレーレンタカー保有の合計二〇台のバン型車両について個別に検証したところ、その中に、補修に純正部品を使用した例が発見された(バレーレンタカーでは、保有車両を約五年周期で新車に買い換えていて、本件当時にはエコノライン約五台、クラブワゴン約五台、合計約一〇台のバン型車両《第一世代と呼んでいる。》を保有し、昭和五九年ころエコノラインを五台、クラブワゴンを六台の合計一一台に買い換え《第二世代》、次いでクラブワゴンは昭和六二年に五台を、エコノラインは平成元年に五台を各購入し、うちエコノラインの一台は間もなく廃車になったので、これを除外した残りは合計九台《第三世代》となったが、そのころバレーレンタカーと乙野とのつながりが判明したため、この第二世代、第三世代の合計二〇台の車両、すなわちA車ないしT車について個別に確認することができたというのである。)、だから右の判断に当たっては、エコノラインのアンテナマストが折損する頻度を解明し、その実情に立脚して判断するのが適当であるが、エコノラインのマストはいたずら等の理由でしばしば欠損していたことが認められる(バレーレンタカー保有の第二、第三世代のバン型車両二〇台のうち、九台についてマストの欠損歴があるという。)、加えて乙野バンを本件事件の四か月後にマダリン・クロスビーという客が借り出した際のレンタル契約書の「貸出車両の状態」欄には「アンテナ」という記載があって、これはアンテナに異常があったことを示しており、その異常とは、原判決がいうアンテナの湾曲ではなく、アンテナの欠損を示していると判断される、また、Sアンテナは、その発見時、台座カバーが欠落していたが、これも、元々あったマストが現在ではなくなっていること、すなわち、Sマストがオリジナルでないことの証左である等といい、

(b)の点に関しては、バレーレンタカーでは、エコノラインについてはレンタル契約書にマストの状態を記載しない運用をしていたから、契約書に「GOOD」と記載されていても、マストが正常な状態で装着されていたとはいえない、そのことはアダムスの原審証言のほか、これを裏付ける実例が存在することによって分かる、

更に、バレーレンタカーでは、マストに破損が生じたとき、すぐ補修しないで、放置していた実例があるから、原判決が、これを否定するピネドの証言を重視したのは不当である、ピネドの証言は、洗車中の欠損に関してのみのことであり、原判決は、洗車外でも欠損が多発していたことについて認識を欠いたために、その点を思考するに至らなかったのではないか等々というのである。

アンテナ問題に関する検察官の主張の要旨は以上のとおりである。その主張は事項ごとに更に細かく、多岐にわたっている。以下その主な点について個別に判断するが、それらを総合的してみれば、以下に述べるとおり、原判決の判断ないし結論に誤りがあるとはいえない。

2 Sマストが「純正品」であることとその原物性との関係に関する所論の主張について

所論は、乙野バンに新車当時の台座及びコードが装着されており、かつ、マストも純正品であることを認めた上で、破損したマストのあとに純正品マストを取り付ける場合があるから、マストが純正品であっても、新車当時装着されたままの原物であるとは限らない、バレーレンタカー経営者アダムスは、同社では補修に純正品、非純正品を約半々の割合で使っていたといい、個別に調査した結果では、補修に純正品を使った例があるとして、第三世代のカーゴバン一台(Q車。マストの形状の違いから分かるという。)と、第二世代のクラブワゴン一台(H車。レンタル契約書中の記載により判断できるという。)の場合を挙げている。

Sマストが純正品であるというだけでは、それが新車当時につけられたままであるのか、あるいはその後につけ直された物であるのか判別できないことは、所論指摘のとおりである。所論は、その点を強調して、一九八八年一〇月にサシャーのもとで発見されたときの乙野バンに、新車出庫時に装着されたオリジナルの台座及びコードと共に、一九八五年二月に設計変更がされる前の純正品マストが装着されていたことはそのとおりであるけれども、だからといってそのマストが新車出庫時以降ずっとつけられたままのものであるとはいえない、だから乙野がそのバンを一九八一年一一月に借り出したのは、マストがついていたときのことなのか、あるいは欠損したまま補修未了であったときのことなのかはっきりしない、というのである。証拠によると、乙野バンに装着されていたアンテナは、台座、コード、アンテナマスト等が一体となった分離不可能型の物ではなかったから、台座とコードが原物であっても、アンテナマストが原物であるかどうかは、これとは全く関係のない別個の事柄であるということは、事柄の抽象的な性質としては検察官主張のとおりである。しかし、別々に装着される部品であっても、それらが一旦新車製造時に組み合わされて一括装着された場合に、一括装着された部品の一部がその後個別に取り替えられて、当初の装着時とは別々の部品の組み合わせになるという事態が、事実上どの程度頻繁に起こりやすい事柄であるかは、マストの破損ないし補修頻度の観点からこれとは別個に検討されるべき問題である。これをSアンテナについてみると、Sマスト自体には固有の装着履歴が表示されていないから、そのマストの原物性をマスト自体から識別することはできない。あとは原物である可能性の程度を周辺事実から推測するほかない。乙野バンは一九八一年一一月の本件当時に借り出されてから、サシャーのもとで発見されるまでに約七年間経過している。そこで、エコノラインタイプの車両のアンテナマストの一般的な破損率がどの程度であったかが分かればおおよその見当をつけることができる筋合いであるが、その点の立証はされていない。アダムスは洗車中によく折れたと言い、検察官は当審では洗車外で頻繁に折れたと主張するが、よく折れたとはどの程度の比率を指している趣旨なのか、新車当時に装着されたアンテナは平均的にはどの程度長持ちし、七年間欠損することなく保持されるのは全体の何割位なのかという点になると、ほとんど不明である。取調済みの証拠の中から関連する部分を抽出してみると、フォード社のダグ・ダウニーの回答書(弁B三三、三四)によると、エコノラインのアンテナが折れやすいという苦情は記録されていないとされているが、これだけではそれ以上の内容が分からない。そこで、単品で出荷されるアンテナの実需要はどうかをみると、一九七九年から一九八一年までの三年間にカリフォルニア州で売れたエコノラインは四万三六六台で、そのうちラジオを取り付ける車両は約七五パーセントであり(前記捜査報告書[甲一〇一三]、前記回答書[弁B三三、三四])、一方、一九八〇年から一九八二年の三年間にフォード社で製造されたエコノライン用の単品マストは八〇〇〇個(フランクリン・J・ヒーダーに対する照会及びその回答[甲一〇一四、一〇一五、一〇一六])、そのうちロス及びサンフランシスコ営業所への出荷は約二〇パーセント、つまり約一六〇〇個見当で、これが大雑把にみて近辺の需要に応じるためのものとされているから(フランクリン・J・ヒーダーの回答書[弁B一〇六、一〇九])、この数字だけからすれば、欠損率はそれほど高いとは思えない。しかし、純正品とは別に非純正品も出回っていたとされているから、これらを含めた単品マストの実需規模となるとこれでは判然としない。そこで、これを別の角度からみるのに、Sマストは、一九八五年三月にマストのモデルチェンジがされる前の、新車製造時と同タイプ、同規格の製品であったことは明らかであるから、仮に途中で欠損してつけ直された可能性があるとしても、その補修を非純正品で行っている場合がかなり広く存在する以上、その原物性は高いといえる。つまり、アダムスは原審証言中で、バレーレンタカーでは、アンテナマストが欠損したとき、純正品と非純正品とをおよそ半々の比率で使用していたと述べているから、例えば、新車時に装着されたアンテナマストのうち、仮に五割が何らかの理由で途中で折損するものとし、同証言のような比率で補修をしたとすると、外見上純正マストが使用されていると見えるものが全体の四分の三を占め(四分の一は非純正品)、その中の三分の二はオリジナルの純正品が占めることになる計算である。そして、破損比率や純正品の使用比率がこれを下回ると、外見上純正マストが使用されていると見えるものの中でオリジナルの純正品が占める比率は、当然これよりも高くなる関係にあるから、取り付けられているマストが純正品である場合には、それが原物であることの可能性は、このような周辺状況次第でかなり高くなる関係にあるといえる。更に、乙野バンがサシャーのもとで発見されたとき、アンテナマストは下から四ないし五センチの位置で湾曲していたことが明らかであるから、もしこの湾曲したSマストが新車時に装着されていた原物でないと仮定すると、新車時に装着されたマストが一度破損し、その後に純正品が取り付けられ、それがまた破損をして湾曲した状態になってサシャー車に残っていたこと、つまり二度破損し、その二度目の破損は湾曲に止まったたことにならざるをえないが、この条件のすべてに該当する場合がそう頻繁に起こるとは、普通は想定しにくいと考えるべきではないか。本件Sアンテナの台座とコードがオリジナル製品であり、かつこれに装着されていたSマストも一九八五年三月にモデルチェンジされる前の新車製造時の物と同タイプ、同規格の製品であったことを前提として、これに加えて上述した事情を総合考慮するときは、他に途中欠損の可能性を示す根拠でもない限り、新車当時のマストが欠損することなく引き継がれてきた可能性の方が、マストだけが後日同タイプ、同規格の別部品と交換された可能性よりも高いと判断することに、一応の合理的理由があるというべきである。原判決の判断は、結局、これと同様の発想に基づくものと考えられ、Sマストが原物である可能性を推認する論理としては、一応合理的と理解される。

次に、検察官は、エコノラインのアンテナ補修に当たっては、純正品と非純正品を半々程度に使用したとするアダムスの原審証言を信用できるとするが、同証言には、全体として、かなり強気の、一方的に割り切り過ぎとみられる供述が随所に目につき過ぎ、乙野弁護人の答弁書中の意見をまつまでもなく、信用性には問題があると感じられる。その上、検察官が述べる前記H車とQ車の補修品が純正品であり、そのことによってアダムスの証言が一部裏付けられているとしても、一般には純正品の方が、アフターマーケットの非純正品よりも高価であるから、レンタカー業者としては安い非純正品を使用する場合が多いと思われ、現にバレー・カー・ウオッシュのピネドはそのように述べてもいる状況の中で、それを半々程度の使用比率であったとする理由は今一つ理解しにくい。

以上述べたところによると、Sマストの原物性を、マスト固有の履歴から識別することはできないが、オリジナルマストである可能性の程度については、原判決が行っているような総合的推認方法もごく普通の発想に基づくものと認められ、その判断過程に格別の無理があるとは考えられない。

3 折損頻度に関する所論の主張について

所論は、原判決が、(a)アダムスの、「本件当時、バンのマストは度々折れた、その原因は洗車機によるものがもっとも多いが、いたずらによるものもよくあった。」という原審証言のうち、洗車機によるものが多かったとする折損原因に関する部分だけでなく、度々折れたという折損頻度に関する部分についても、ピネドの証言等に照らして信用できないとしたが、折損頻度に関する部分は信用できるとすべきであるし、(b)検察官が、これを補強する趣旨で、バレーレンタカーが歴代保有してきた前記第二世代及び第三世代のバン型車両二〇台についての、マストがしばしば折損しているという調査結果を第一世代に当てはめて考察した点について、これら第二及び第三世代の二〇台はいずれも洗車機が布式のものに取り替えられ、折損頻度が高くなった時期以後のものに当たっており、本件発生当時は洗車機がブラシ式で折損頻度が高くなく、両者は折損条件が大幅に違っているとして、第二及び第三世代のバンの折損頻度を第一世代の折損頻度に当てはめることはできないとし、(c)検察官がロス市内の一般車両一八台のアンテナマストが多数欠損している事実を立証した点に関して、「これら一八台は、新車時点から約二年しか経っていなかった本件当時の乙野バンとは異なり、新車時点から相当の年数を経た古い車両ばかりであり、かつ、その台数が極めて僅少で、統計的にほとんど無意味なものである。」としたことを、いずれも失当であると主張する。

そこで、まず(b)の点をみるのに、検察官は、バレーレンタカーが保有してきた第二世代、第三世代のバン型車両二〇台のうち、アンテナの欠損歴があるものは九台にのぼるから、両世代の車両についてみれば、マストの欠損はかなり頻繁であるといえるとし、また、欠損の原因は、検察官の選別基準によれば、九台中六台までが洗車外の原因による折損であるという(検察官は、右のとおり判断した選別基準について、①洗車によって欠損が生じた場合には、すぐ非純正品を使って補修したとされているから、取替品として現在純正品のマストが着けられているものは洗車場で装着されたものではない、その折損のほとんどは洗車外の欠損と推測されること、②洗車中に折れたものについては、そのほとんどがすぐに修理され新品が取り付けられたとされているから、折れたまま放置されていたと認められるものは、洗車外の欠損と推測されること、③レンタル契約書中のIN欄《返還時欄》にアンテナの欠損が記載されているものは、貸し出し中に欠損が生じたもの、すなわち洗車外の欠損と推測されること、以上の点を選別の基準としている。)。そして、洗車外の原因で欠損する頻度は、洗車機がブラシ式の時代でもその後でも格段変わりはなかった筈であるから、結局、バレーレンタカーでは、バンにつけられていたマストはブラシ式洗車機の時代にも、洗車外の原因でかなり頻繁に折れていたと推認されるというのである。

ところで、検察官が第二及び第三世代の車両についてアンテナ欠損の有無を確認した結果は証拠上明らかである。それによれば、第二及び第三世代の車両に関して、相当数のマストの欠損が生じていた事実を大雑把な傾向として把握することはできる。ただ、ここで検討対象とされた車両は、購入後、第二世代車については約七年、第三世代車については約二年ないし四年経過した車両であったから、それらの車両に生じた欠損の状態を、購入後二年程度経過しただけで、これらの車両よりはるかに新しかった乙野バンにそのまま当てはめてよいかは疑問であろう。アンテナの欠損が、車両購入後どれくらい経過した時点までに、どの程度の比率で生じていたかが全く把握されていないからである。また、欠損を生じた原因をみても、検察官が用いた前記選別基準は、何といってもきめが粗く、基準性に問題がないではない。例えば、選別基準とするのであれば、その前に、バレーカーウオッシュでは純正品を全く使わなかったのかどうかをより正確に確認しておく必要があるし、またレンタル契約書中のアンテナという記載は、アンテナがどのような状態になっていることを表しているか、またアンテナに異常が発生した時期を、この記載だけで確定できるだけの点検が、貸出・返還の都度正確にされていたか等の点をもっとよく確認しておかねばならない等々、多くの問題があると考えられるからである。また、検察官は、原審では欠損の主たる原因を洗車時にあるとし、アダムス証言等をその根拠としてきたのに、これがピネド証言等によって疑問とされるに至ったのをみてとると、控訴趣意書では一転して、主たる原因をいたずら等にあると主張を変更した点も問題で、この点は、検察官による証拠検討の不確かさを示しているというよりも、証拠それ自体の不十分さを反映しているのではないかと理解される。

アダムス証言は、内容からみると、欠損頻度に関する部分と欠損原因に関する部分の双方を含んでいて、一見両者は各別の事柄のようにみえるが、同人の証言をよくみると、同人は、洗車機を通すとバン型車両の場合は乗用車の場合よりアンテナがよく折れたと述べていて、アンテナの欠損を洗車機使用とのつながりで供述している。そうすると、このような内容の証言である限り、これを欠損頻度と欠損原因とに分けて、証言の信用性を別々に評価するのは適当ではない。原判決が、証言の信用性を一体のものとして判断したのはむしろ自然であって、そのことに特段不当な点はないというべきである。

次に、検察官がロス市内の一般車両のアンテナマストの欠損状態を示しているとして検討対象に取り上げたのは、警視庁刑事部鑑識課勤務の白瀬敏雄が、甲野写真13の左下隅に写っている物体をバン型車両の右前部窓枠の一部と想定して、類似のバン型車両の写真を撮影してこれと対比する目的で、一九八八年(昭和六三年)一〇月三一日、一一月一日の両日、ロス市内の路上や駐車場に駐車していたバン型車両を無作為に撮影した写真である(甲二四二)。二七枚の写真を撮影したが、撮影目的が右のとおりで、アンテナの点になかったため、アンテナの状態を知るのに利用できる写真はそのうち一八枚しかなかったが、それ故にアンテナの状態を何らの意図を加えることなく撮影する結果になっており、これによって米国におけるアンテナの折損頻度や補修状況を、大雑把にではあるが知ることができると検察官は主張する。また、これらの一八枚は、治安上の問題のない平均的地域で撮影され、撮影された車種にも偏りがないから、一八台という台数は少ないけれども、これによってアメリカにおいては日本では想像できないくらいアンテナがよく折損しているだけでなく、折損したまま放置されている事実がわかるというのである。

撮影された二七台中、九台についてはアンテナの装着状態が不明又は無装着車で、残り一八台中、欠損車八台、普通状態一〇台(うち、三台は折損歴がある)であったとされているから、この結果をみる限り、欠損率はかなり高いとみえる。一つの数値的結果であるに違いはないが、何といっても母数があまりにも少ないから、これを基にして全体を推計できるような数値というにはほど遠い。また、対象写真の撮影手続が公正に行われたか、意図的に撮影されたことはないかの点にも考慮を要する問題がないではない。この写真撮影がされた一〇月三一日、一一月一日時点をアンテナ問題浮上の経過と対比してみると、仁木馨の原審証言(184-9347)等によれば、同人らが渡米していた一一月一〇日ころ、すなわち右撮影の一〇日後には、すでにアンテナ問題が捜査上明確に浮上していた時期といえる。それ以前はどうか。サシャーのもとでバンが確保されたのは一九八八年一〇月一一日のことで、このときには同車にアンテナが装着されていることが明らかになっているから、この段階ではすでにアンテナ問題が大きな関心事になっていたとみなければならないし、その後、一〇月二七日から二九日にかけて、白瀬はこのバンを写真撮影したが(実況見分調書[甲三〇九、三一〇]、写真の焼増報告[甲三一一])、そのときにアンテナをつけたり、はずしたりして撮影していることは、乙野の弁護人が指摘するとおりであるから、このとき同人が、甲野写真13にアンテナが写っていないこと、及びそのことが本件立証上持つ意味を意識していなかったとは考え難い。そうすると、ロス市内で前記の写真撮影を行った際の白瀬にとって、対象車の選択をその観点から意識的に行う気持ちは全くなかったとしても、そのことが相手方においても自然に納得すべき状況にあったとはいえない。また、白瀬が撮影したのは、路上に駐車していた車両が一三台、駐車場等に駐車していた車両が一四台とされているが、路上駐車を常態とする車両の場合には、いたずら等の被害を受けやすいことは容易に想像されるから、この数値を有料レンタルのために管理されている車両にそっくり当てはめてよいかも疑問であろう。更には、このときの撮影は、経年数のかなり高い車を中心として行われており、乙野バンの場合とは車両に質的相違がある点も無視できないであろう。このように考えると、一八台の車両をピックアップして検討した結果は、一つの資料として参考にすることはできるとしても、これにどれほど大きな意味を持たせてよいかは、やはり問題である。

乙野が借り出したときの乙野バンに、マストがついていたかどうかを判断する上で、アンテナに欠損が生じる一般的比率以上に大きな問題と考えられるのは、生じた欠損がすぐに補修されていたか、長く放置されていたかの点である。欠損が生じても、すぐ補修されていれば、乙野バンがアンテナ欠損のまま貸し出された可能性は低くなるからである。検察官の主張によれば、アメリカでは、いたずらなどでアンテナが欠損したまま放置されている例が日本よりも一般的に多い様子は窺うことができる。ただ、それが一般的にどの程度であるのか、特にレンタカーというような、商品として有料で貸し出すことを目的として日頃整備・管理されている車両の場合にどうかという点は、明確ではない。乙野バンについて検討する際には、そうした点も考慮することが必要である。このようにみてくると、所論が挙げる数字をそのまますぐに適用することはできないが、破損率や破損した場合にそのまま放置しておく比率がおそらくアメリカでは我が国より高く、本件はそのようなアメリカでの事象であることを前提として考えなければならないことを指摘している点では、考慮に値するものを含んでいる。

4 乙野バン及びSマスト自体に即した原物性の主張について

所論は、原判決が、Sマストを原物である可能性が高いとか、車両製造時からサシャーのもとで発見されるまでの間破損したことはなかった可能性が高いと判断したのは不当であるとし、その理由として、(a)乙野バンは、新車として一九七九年一一月世に出てからサシャーのもとで発見された一九八八年一〇月までの九年間に様々に手を加えられているから、マストについても交換された可能性があること、(b)本件発生約四か月後の一九八二年三月三〇日にマダリン・クロスビーという人物がバレーレンタカーから乙野バンを借り受けたときのレンタル契約書中、「貸出車両の状態」OUT欄に、車体の塗装、車体の損傷等の異常を示す記載と共に「アンテナ」という記載があることからみて、このときアンテナが損傷しており、その後新しいアンテナにつけ替えられた可能性があること、(c)サシャーのもとで発見されたとき、アンテナの台座カバーがなくなっていたから、誰かが台座カバーをマストと一緒に取り外して持ち去ろうとした可能性があること等の諸点を挙げている。(c)は、控訴審で初めて主張された点である。順次検討する。

(一) まず、(a)の点を証拠によってみると、本件発生当時、バレーレンタカーでレンタル用に使用されていた乙野バンは、一九八四年三月一三日、バレーレンタカーからメントン&ジョンソン社に売却され、その四年半後の一九八八年一〇月にサシャーのもとで発見されるまでの間に板金修理等がされた(レンタル契約書等の記載[物五一八、五二二]、実況見分調書[甲三〇六、三〇七]及び写真の焼増報告[甲三〇八]添付の写真)ほか、屋根にはしご置き棚が、荷台内に間仕切りや棚がそれぞれ備え付けられ、次いでサシャーのもとでそれらがすべて取り外されて、新たに屋根、荷台内の設備がつけられ、後輪サスペンションの改良、油圧ジャッキへの取り替えその他がされ、更にラジオがAMラジオからカセットプレーヤー付きのAM―FMラジオに取り替えられる等の変更が加えられたことが認められる。検察官は、これだけの変更が加えられているから、マストについても厳密な検討が必要だというのである。

しかし、検察官が指摘するこれらの車両装備の変更は、すべて本件後、しかもバレーレンタカーがメントン&ジョンソン社に乙野バンを売却した前後ころ、すなわち早くても本件から二年半程度経過した時期以後に加えられた変更ばかりである。いうまでもないことであるが、ここでの検討課題は、本件発生当時の乙野バンにアンテナマストがついていたかどうかであって、発見されるまでのいずれかの時点でマストに変更が加えられたかどうかではない。だから、乙野バンの装備が変更された事実が明らかになっても、その変更時期がバレーレンタカーから他に売却された後であれば、本件発生当時の乙野バンにアンテナがついていなかった疑いを生じさせることにはならない。ところで、Sマストの先端には大玉のボールチップがついていたことが明らかであるが、大玉型マストから小玉型マストへの設計変更がされたのは、一九八五年二月一五日のこととされている(前掲報告書[甲一〇一三])。設計変更がされても、取替用の大玉型マストがすぐに市場からなくなるわけではないようであるが、遅くとも数年後には市場で手に入れることはできなくなると考えられるから、仮にこのマストに手が加えられたことがあったと仮定しても、手を加えることができたのは、バレーレンタカーかメントン&ジョンソン社のいずれかだけであると考えることができ、また、サシャーのもとでラジオがAMラジオからAM―FMラジオに変更されたときにも、アンテナマストに手が加えられたことはないといってよい。アンテナに最も関心を持ちそうなサシャーのもとでも、アンテナマストに手が加えられたことはなかったのである。そして、乙野バンがバレーレンタカーからメントン&ジョンソン社、ゴンザレス、サシャーと転売される間に、同バンに検察官主張のような装備変更が加えられたことはあったとしても、これらの装備変更の中に、遡って転売前のバレーレンタカー保有時においても、本件発生時のマストの有無に影響を及ぼしそうな装備変更がされたのではないかと推測させるような事情は見当たらない。

(二) 次に、(b)の点を証拠によってみると、一九八二年三月三〇日にマダリン・クロスビーがバレーレンタカーから乙野バンを借り受けたときのレンタル契約書中の「貸出車両の状態」OUT欄には、「左サイド塗装及び車体損傷、ハブキャブ及びアンテナ」の記載がある。単に「アンテナ」と書かれていて、「アンテナブロークン」とされてはいないから、これだけではアンテナが折損していたのか湾曲していただけなのか、どの程度湾曲していたのか、あるいはその他の異常を指しているのか、全く分からない。そこで検察官は、この記載を第二世代及び第三世代の他のレンタル車両の契約書(物六七一・同押号の二六三)中の類似の記載と対照して検討し、「アンテナブロークン」と記載されているG車及びH車はもとより、単に「アンテナ」と記載されているE車(エコノライン)及びP車(クラブワゴン)の場合にも、その後マストが取り替えられていることを指摘し、もとよりこれだけではE車及びP車のアンテナつけ替えは、アンテナが欠損していたためなのか湾曲しただけなのか分からないが、他方、アンテナに湾曲があっただけのA車及びB車の場合には、マストを取り替えることなく貸出が続けられ、そのまま中古車として売却されている事実があって、この事実からすると、バレーレンタカーではアンテナの単なる湾曲程度ではアンテナマストを取り替えなかったものと判断されるから、E車及びP車のアンテナがつけ替えられたということは、マストが欠損していたためであると考えるのが素直な解釈である、そうすると、クロスビーの契約書の「アンテナ」という記載は、マストの欠損を指しており、クロスビーへの貸出後につけ替えられたとみるのが自然である、というのである。

所論の主張も、関係証拠の一つの読み方としては、十分理由のあるところと考えることができ、したがってクロスビーに貸し出された時点、すなわち本件発生の約四か月後の時点で、乙野バンのアンテナマストが折損していた可能性が全くないとはいえない。しかし、この点については次のような読み方も可能で、あるいはこの方がより適切ではないかとも考えられる。すなわち、「アンテナブロークン」という記載は、文字どおりアンテナの欠損した場合を指していると理解されるが、単に「アンテナ」とだけ記載されている場合は、アンテナの欠損を指すのか、湾曲を指すのか、どの程度以上の湾曲を指すのかなど様々で、いわば雑多な破損をすべて包含している趣旨と理解される。元来、この「貸出車両の状態」OUT欄の記載は、IN欄の記載と法的性質が全く異なり、客が貸出時点での車両状態を契約書上に明示して、返還時に損傷が発見されてもトラブルが生じないようにあらかじめ備える趣旨のものであるから、借り出す際、契約書上に車両の損傷をどの程度詳細に記載するよう求めるかは、客の要求次第という面が強い筈である。正確に記載しなければ気が済まない神経質な性格の客もいれば、そうでない客もいるというのが実際であろう。そして、契約書上に損傷内容を拾い出して細かく摘記することを求める客は、そうした性格からみて、アンテナが欠損している場合には、どちらかといえば「アンテナブロークン」とはっきり記載しなければ気が済まない神経質な性格の人で、「ブロークン」と記載するに適しない損傷の場合にのみ単に「アンテナ」と記載することになるのではないかと理解される。そうなると、ブロークンとはっきり記載するのに適しないアンテナ損傷という中には本来雑多なものを含む筈で、湾曲が中心になるとしてもそれに限られるわけではなかろうし、湾曲の程度・内容も様々で、その中にはマストのつけ替えを要する程度の湾曲もあれば、つけ替えを要しない程度の湾曲にとどまるものもあるというのが実態ではないかと考えられる。そうすると、単に「アンテナ」と記載されている場合、マスト交換をするかどうかの扱いは、損傷の内容・程度に応じて一律ではなく、「アンテナブロークン」と記載されている場合には大体つけ替えを要するのと較べれば、かなり事情が異なっていると推測するのが自然であって、これを一律である筈だとする検察官の主張には、十分な根拠があるとは思えない。このように考えると、クロスビーにレンタルされた際の乙野バンのアンテナの状態、すなわち単にアンテナという記載は、折損を示しているとは言い切れず、単に湾曲していたにすぎない可能性を否定できないといわなければならない。

(三) 乙野バンがサシャーのもとで発見されたとき、アンテナの台座カバー、すなわちアンテナを車体に取り付ける際に使用するマウントを上から覆うためのクロムメッキされた金属製の箱状カバーがなくなっていた(甲三〇八の添付写真一九、サシャーアンテナ[物六七四・同押号の二六四])。マウントとマストが残っているのに、台座カバーだけがなくなっているという事態は通常は想定できず、かなり特異な状態とみなければならない。その点は検察官が指摘するとおりと考えられる。そうすると、台座カバーがいずれかの時点で取り外されたと受け取るほかないが、取り外すのはどのような場合かを考えると、それは、(a)アンテナマストが取り外されているときに、同時に何らかの意図で台座カバーをマウントから取り外したか、あるいは、(b)何かの用向きでアンテナマストと台座カバーを一緒に取り外した後、カバーだけつけ忘れたか破損したかであろう。前者は、誰かが台座カバーをマストと一緒に取り外して持ち去ったというような可能性、例えば盗み、破壊行為、いたずらの類を示しているし、後者は塗装などの際に取り外してつけ忘れたか、何かの理由で変形するなどして取り付けられなくなり、これがなくても機能上問題がないためにそのままアンテナマストが取り付けられたことを連想させる。

一般的に考えれば、アンテナを取り外して手を加えることがあまりなかった車両について、その台座カバーだけが無くなっていたというような場合には、いたずら等の被害にあったのではないかと考えやすい。特に、路上駐車あるいはきちんとした駐車管理設備のない場所に駐車する機会が多い車両については、そのように推認されやすいであろう。そこで、乙野バンについて、Sアンテナのマストを取り外して修理その他をしたことがどの程度あったかを証拠に照らして具体的に検討してみると、そのような機会として考えられるのは、まず乙野バンが発見されたすぐ後で、白瀬らが捜査上の必要からその写真撮影をした機会に、アンテナを取り外したことが認められるし、また、ロス市警がサシャーからアンテナ、ベース、コード等を押収する際に取り外したことも認められる。乙野の弁護人は、そうした機会のどこかで台座カバーだけが失われた可能性を指摘しているが、しかしこれらを証拠物として観察の対象にしているときに、その一部を失うことがあるとは容易に考えられない。あと一つの機会として考えられるのは、乙野バンの塗装をし直したときである。すなわち、乙野バンのレンタル契約書によると、同バンは、一九八三年六月二四日から七月四日まで貸し出された際、車体後部右側に大きな損傷を受けたとされているので、同バンがその後サシャーのもとで発見されたときの状態と対比すると、その間のいずれかの時点で再塗装されていることが明らかである。そして、この塗装時にアンテナベースをボンネットから取り外したことがあり、その際には当然台座カバーも取り外され、これが何らかの理由で装着されなかった可能性が考えられる。検察官は、その可能性を否定し、この時の塗装はアンテナベースをボンネットに装着したままの状態で行われたと認められると主張し、その根拠として、アンテナベースの両側部下縁に沿って白いペンキが僅かに付着しているのに、裏面にはペンキの付着した跡がないことを挙げている。これは、アンテナベースを取り外さないで、ベース側面にペンキ防止用テープを貼った状態でペンキを吹き付けたため、貼り残し部分からペンキが直線状に付着したことが考えられるというのである。一つの見方であるが、証拠上全面的には肯定できない。すなわち、エコノラインにアンテナを装着していたボブ・ワンダリーズ・フォード社の部品マネージャーであるリチャード・ハロは、一九八九年一一月二九日にロス市警及び日本の捜査官からサシャーアンテナのベースを呈示され、これを見分した上で、その「白色のペイントは、新車の段階でついたものではなく、その後いつかの時点で車体から台座を取り外し、車体のペイントを塗り直し、そのペイントが乾かないうちに台座を取り付け直したためだと思う。」と述べているからである(甲一〇一三)。これに対して、検察官は、ベース裏面にペイントが付着していないから、このベースは塗装時に取り外されなかったと判断しているのに対して、ハロは、ベースは取り外されている、だからペイントが付着したと思うと全く逆の判断をしているのである。現在このベースを見分すると、両側部下縁に沿ってうっすらとペイントの付着が認められるが、裏面にはペイントが付着したようには見えない。その点は検察官指摘のとおりである。それでは、ハロは、前述の意見を述べるに当たって、ベース裏面の状態を見分せず、あるいは注意深く見なかったかというのに、ベースの両側部下縁に沿ったペイントに気づきながら、裏面の状態を見逃すことは考え難い。また、ハロのようにアンテナを日頃扱い慣れている人物が、ベースを実際に見分し、その上で述べた意見に全く根拠がなかったとも考えにくい。そこで、更にベースをよく見ると、現在ベースに付着して残っているペイントが非常に薄いことが見て取れるが、ハロが見分した時点では、裏面の全体的な状態が、少なくともペイントが乾かないうちに台座に取り付け直したと判断できる程度の付着状態にあって、そうだからこそハロのこの意見を、捜査官も納得して聴取したのではないか(前掲捜査報告書[甲一〇一三])、他方、ベース裏面の現状は、ハロが見分した当時のペイント付着状態と異なっているのではないか、ということが考えられる。ハロの意見を前提にすれば、ベース裏面の現在の状態に疑問が持たれ、裏面の現状を前提にすれば、ハロの意見に疑問が持たれることになるが、ハロの意見がその時点で書面上固定されるのに対して、ベース裏面の状態はいろいろな事情で経年変化を生じるから、疑問はあるけれども、これも一つの可能性としては考えられる。もっとも、塗装時に台座やカバーを取り外しても、塗装が終われば元どおりにつけ直すのが普通であろうから、何らかの理由で元どおりにされなかった可能性があるといっても、それは、可能性を否定できないというだけで、その可能性が高いとまでいえるものではない。全体としてみれば、何らかのいたずらや破壊行為が行われたために失われたのではないかという検察官の推論にもかなりの可能性があることは否定できない。だから、検察官からすれば、原判決が、サシャーのもとで発見された際のSマストの湾曲を直ちにクロスビー契約書にある「アンテナ」の記載と結びつけて、クロスビー契約書にある「アンテナ」の記載はアンテナの湾曲を指していると推論したのを誤認だと主張したくなるのも全く分からないではないが、しかし、この検察官の主張にも、次のような点に疑問がある。すなわち、検察官は、いたずらの内容として、アンテナマストと台座カバーを取り外したというが、そのカバーは、普通の状態では、台座マウントにきちんとはめ込まれていて、両者一体となるような装着状態にあった筈であるから、そうだとすると、いたずらをする者は何故、アンテナマストを取り外した際に、マストだけを持ち去らないで、更にマウントから台座カバーだけを分離して取り外したのか。台座はねじでボンネットに装着されているから容易に取り外せないとしても、アンテナマストと一緒にカバーだけを取り外したというのは、いかにも納得しにくいのである。その点では、むしろ塗装その他の必要があって、カバーとマウントの両者を取り外した上で再装着する際、カバー部分をなくすか壊すかして、装着できなくなったと想定する方が理解しやすい面があるといえる。また、Sマストは発見時にかなり湾曲していたが、そのことから同マストは二度も損傷し、しかも二度目の損傷は湾曲程度で済んだとするのはいかにも結果から逆算し過ぎとの印象を拭えないのであって、やはりこの湾曲は台座カバーが無くなっていることと全く無関係ではなく、むしろ共通する事情があってマストも台座カバーもこのようになってしまった可能性が少なくないと考えねばならない。

以上述べたところによると、発見された乙野バンの、アンテナマストがかなり大きく湾曲し、同時に台座カバーだけがなくなっていた理由については、いろいろな場合が想定可能である。主として台座カバー紛失に着目して、塗装時等に再装着されずあるいは再装着できなかったこと、マストの湾曲と台座カバーの双方に着目して、いたずら等の被害を受けてマストが湾曲し、同時に台座カバーもなくなったこと、更にはいたずらでマストが折損し、台座カバーもなくなって、新しい純正マストがつけられたが、それがまた被害を受けて湾曲したこと等、それぞれの場合が考えられる。その中で、検察官主張の最後の場合が最も可能性が高いとすべき根拠は見当たらず、結局台座カバーがなくなっていることを根拠としてアンテナマストの折損を推断することまではできないと判断される。

5 レンタル契約書中の「GOOD」の記載とアンテナの状態に関する所論の主張について

所論は、乙野バンのレンタル契約書に「GOOD」と記載されていても、それはそのときマストが正常であったことを意味しないのに、原判決が、右の記載を、乙野バンのアンテナに異常がなかった可能性が高いと判断する根拠の一つに引用し、アダムスの原審証言を信用できないとしたのは不当であるとし、その理由として、(a)アダムスの証言は、契約書等に現れている営業実態によって裏付けられていて、信用できること、(b)バレーレンタカーが所有してきた前記第二世代及び第三世代のバン型車両二〇台の場合にも、アンテナが折損したまま貸し出され、契約書にその点の記載があるのは一例しかないこと、(c)乙野バンの契約書にも、車体の損傷を記載しないものが多々あったこと、(d)だから、本件発生当時にも、バレーレンタカーでは、エコノラインに関して、マストの損傷は契約書の記載とは無関係であったから、これを根拠とすることはできないこと等を主張するのである。

(一) バレーレンタカーの経営者アダムスは、原審証言中で、バレーレンタカーで車両を貸し出す際には、車両の状態を客に確認させ、その結果を契約書中に記載して、返却時のトラブル防止をはかっていたことを一般的には認めた上で、アンテナは、「乗用車やクラブワゴンの場合にはステレオラジオがついていてアンテナが必要なので、折損すればすぐ取り替えるし、貸出中に折損すれば損害賠償の対象としていた、乗用車やクラブワゴンの契約書中の「貸出車両の状態」欄に「GOOD」と記載してあれば、それはアンテナが折れていないことを意味する。」が、エコノラインに限っては例外であるとし、「カーゴバンでは、マストが折れた場合時々取り替えたが、あまりにも頻繁に折れたのでそのまま放っておき、長くアンテナなしで貸し出すことがあった、だから仮にマストが折れていても、その旨をレンタル契約書に記載せず、客から求められても記載しなかった、したがって客がマストを折損しても賠償を求めることもなかった。レンタル契約書中に「GOOD」と記載してあっても、それはアンテナに関することではないから、マストが正常であった意味ではない。」と証言している。そして、九〇台くらいあったというレンタカーの中で、カーゴバン五台だけについて、しかもアンテナについてだけ例外扱いにしたのは、カーゴバンのアンテナは他の車両よりも洗車時に頻繁に折れたこと、AMラジオしか搭載しておらず、アンテナがなくても支障がなかったこと、些細な損傷まで取り上げると貸出手続に手間がかかるので契約書には記載せず、賠償を求めない営業方針にしていたこと等の理由を挙げている。

エコノラインだけを例外扱いした理由について、アダムスは、右のとおり洗車時の頻繁な折損等を挙げ、検察官も、原審においては同様の主張をしたことは先に述べたとおりである。しかし、原審における証拠調の結果、本件当時、バレー・カーウオッシュでの洗車にはブラシ式洗車機が使用されていて、洗車中にマストが曲がることはよくあったが折損することはあまりなかったし、ときに折損したときには同社において直ちに取り替えられていたことが明らかになった。そうすると、エコノラインだけを特別扱いにしてそのレンタル契約書にアンテナのことを記載せず、そのため「GOOD」と記載されていてもそれはアンテナの状態を示すものではないとする説明には根拠がないことになる。アダムスが、折損原因について、何故このような証言を行ったのかは不明であるが、この点に関する原審での審理経過は、同人の証言の信用性を全般的に低下させていることを否定できない。

これに対して、検察官は、アダムスの証言中、折損原因に関する部分が仮に信用できないとしても、洗車外の理由、例えばいたずら等でエコノラインのアンテナがよく折れたという折損頻度に関する部分はそのとおりであるから、その点まで信用できないとする理由はないという。しかし、アダムス証言は、エコノラインについての例外的取扱いをあくまで洗車時のアンテナ折損と結びつけて説明しているのであるから、この場合、両者を切り離して、それらの証言の信用度を別々に評価するのは適当でないというべきである。また、洗車外の理由による折損ということになると、それは当然、エコノラインを含むすべての車両に共通することとなるから、その場合にも、エコノラインの契約書についてだけ例外的な取扱いをする理由があったとは考え難くなる。検察官は、随所で、エコノラインの場合にはマストが洗車外の理由で度々折れていたことを強調し、そのことを前提として論旨を組み立てている。第二世代及び第三世代の車両あるいはロス市内で見分された駐車車両についての検討結果では、ある程度の数のアンテナ欠損事例がみられ、日本とは事情が異なっている状況が窺えることについては先に述べた。ただ、検察官がバレーレンタカーの駐車場で撮影した写真には少なくとも四台(C車、D車、E車、Q車)のカーゴバンのアンテナに欠損を生じた跡が残っているのに、弁護人側が出向いて撮影した写真(一九八九年八月二三日撮影の写真撮影報告書[弁B二六]、一九九三年二月二一日及び二五日撮影の写真帳[弁B五六・同押号の三四二])では、エコノラインのアンテナマストはよく整備された状態にあったようであり、アダムスが証言するような、頻繁に折損があり、それがそのまま放置されている状態とは見られないのであって、このような違いが何故生じるのか疑問を残したままとなっている。ところで、エコノラインのマストが洗車外で折損することが、仮に検察官が主張するように度々あったとしても、その理由は、いたずら被害にあう頻度が乗用車よりもカーゴバンのほうが高かったという趣旨なのか、何故そうなのか、どの程度の違いなのか等の、特別扱いを必要とした理由については、検察官から格別の主張も立証もされていない。エコノラインだけを特別扱いした理由について、アダムスは、前述の理由に付加する形で、手間がかかること及びエコノラインは他の車両と違ってAMラジオしかついておらず、これはアンテナが無くても実用上あまり支障がなかったからであると述べている。そうすると、これは、理由があってカーゴバンだけを別扱いにしていたというのではなく、アンテナの補修が多少他の車両の場合より遅れても、客から苦情が出ることが少なかったために、補修や契約書の記載にルーズな点があったという程度の趣旨かと理解される。

ところで、レンタル契約書中の「貸出車両の状態」OUT欄の記載は、前述したとおり、客の責任範囲を事前確認し、トラブルの予防をねらいとするもので、書面の性質上、契約書への記載は、レンタカー会社にとってよりも、顧客にとって必要性が強いものであった。したがって、顧客から事項を特定して記載を求められれば、これに応じざるを得なかった筈である。契約書の持つこのような意味合いはエコノラインについても同じであるから、この車両だけを特別扱いにする理由は本来は見当たらない。そうすると、エコノラインのアンテナについてだけは特別扱いをして契約書に記載しなかったとか、顧客から記載を求められても断っていたというような証言は、容易に信用できるものではない。検察官は、契約書に記載するかどうかはレンタカー会社側の営業上の判断にかかる事項であるというが、先に述べたところによれば、そのようにいえないことは明らかである。もとより、契約書の性質上は記載すべきものであっても、実際にはこれと異なった取扱いがされるということは、世間には往々にしてあり得ることではある。その理由として、アダムスは手間がかかるというのであるが、本件当時、バレーレンタカーが保有していた約九〇台の車両のうち、エコノライン以外の約八五台の車両については点検して記載するとしながら、五台のエコノラインについてだけは、しかもアンテナという、外から一見しただけで破損の有無が分かるものについてだけは、手間がかかるから記載しなかったというのも、素直に納得できる説明ではない。このようにみてくると、エコノラインだけを特別扱いし、貸出時にアンテナが欠損していてもその点だけには触れないで、「GOOD」と記載していたという証言に不自然さがつきまとっていることは否定できない。

(二) 次に、検察官は、第二世代及び第三世代のバン型車両二〇台の場合にもアンテナが折損したまま貸し出され、契約書にその点の記載がないのが一般的であったから、そのことからみても、乙野バンのレンタル契約書中の「GOOD」の記載はアンテナの状態を示していないと主張する。

そして、検察官は、前記第二及び第三世代のバン型車両二〇台について検討し、エコノライン九台のうち五台(C、D、E、Q、T車)に欠損歴があった、そして第二世代の五台のうちでは三台(C、D、E車)に欠損歴があった、ところがこれらの車両をバレーレンタカーが保有していた全期間の全レンタル契約書について調査したところでは、アンテナ異常の記載がされている契約書はうち一台について一通しかなかったという。

検察官指摘の各写真、レンタル契約書等を点検すると、例えば第二世代の乙野車の場合、八八年一〇月一〇日(甲六二六)、一一月一〇日(前同)、八九年二月五日(甲四四八)の各時点で撮影された写真によって、アンテナが折損したままの事実が確認されるから、この車については少なくともその約四か月間、またE車の場合、八九年二月一一日(甲四四八)、四月一〇日(甲一〇一九)の両時点で折れていたことが確認されているから、この車についてはその約二か月間、いずれもマストが欠損したまま貸し出されていた事実があることは否定できない。ところが、これに対応するレンタル契約書にはアンテナ異常の記載がないことが認められる。他には、E車について、一九八八年五月一二日の車両返還時に「アンテナ」の記載がされていて、同年一〇月一〇日の写真ではスカート式アンテナが装着されていること、またC車にも同様の補修がされていることをそれぞれ確認できるが、いずれも補修されない期間がどの程度あったのかは証拠上判明しない。第三世代の場合、八九年一二月一三日時点のQ車には、リングなしタイプのアンテナが、またT車にはリング有りタイプのアンテナがそれぞれついていたのに(甲一〇二〇)、九一年一月一四日の時点でのQ車にはリング有りタイプの物がついており(甲一〇二一)、また九三年二月の時点でのT車にはスカート式のアンテナがついていて(弁乙野五六)、その間に欠損したことまでは分かるが、これらの第三世代車については、契約書の記載調査がされていないので、記載との照合関係は不明である。以上によれば、アンテナの欠損とこれに対応するレンタル契約書とを照合することができたのは、D車及びE車の二台についてだけであるが、この二台から推測する限り、八八年から八九年にかけてのころには、エコノラインのアンテナに欠損があるときにも、その中に、すぐ補修しないである程度の期間放置されていた車両があることは事実と認められ、また、レンタル契約書にアンテナ欠損の記載が正確になされていない実情があったことも、おそらくそのとおりではないかと看取される。

次に、これをクラブワゴンについてみると、第二世代及び第三世代のクラブワゴン一一台中、四台(G、H、M、P)に欠損歴があったし、これらの車両についてもバレーレンタカーが保有し始めてから欠損時期以後までの期間の全レンタル契約書について調査したところでは、アンテナ異常の記載がされている契約書はうち三台について確認されている。なかでも、P車の場合、前後約二か月間に合計一一回の貸出があり、うち五回のレンタル契約書のOUT欄に「アンテナ」の記載がされており、その余の六回についてはその記載がない。このことは、同車のマストはその間補修されないままであったとみて無理がないといえる。この事実からは、この時期にはクラブワゴンについても欠損したアンテナマストの補修に時間がかかっていたものがあること、及びマストの異常をレンタル契約書に記載する場合もあったが、記載しない場合もあったことが推測され、エコノラインの場合と較べると、その取り扱いに若干の相異があるように感じられる。そこで、検察官は、これによってアダムスの証言が一部裏付けられているという。しかし、問題は、乙野バンのレンタル契約書中の「GOOD」の記載は、アンテナの状態を示していないといえるかどうかの点にある。すでに述べたところによると、第二世代及び第三世代のエコノラインのアンテナ状態に関するレンタル契約書上の記載は、アンテナの状態を意識して記載されているようにはみえないから、そのことは第一世代に当たる本件当時の乙野バンの場合にも、似たような状態ではなかったかと推測させる面があることはそのとおりである。しかし、なお問題がないとはいえない。まず、上述の検討は、およその傾向を推認させる点はあるが、なんといっても第一世代の乙野バン以外のエコノラインやその他の車両のレンタル契約書等、まさに直接の資料について比較検討された結果が明らかにされていない点に大きな欠点を持っている。第一世代のカーゴバンについての調査結果が原審法廷に提出されず、その後弁護人側の調査でクロスビーのレンタル契約書があることが分かりようやく開示されたという経過が、弁護人側に強い不信感を植え付け、それが解消されていない点からすると、原審裁判所ならずとも、判断に当たって慎重にならざるを得ないのは当然である。また、右の点とも関係するが、検察官の検討は、主として第二世代、第三世代を中心として行われており、その結果は洗車機がブラシ式であって異なっていた本件当時の実状を正確に推認させるかどうかについては大いに疑問がある。また、先に述べたとおり、エコノラインだけを特別扱いする理由が今一つ明確ではないのに、そのエコノラインのレンタル契約書だけは「GOOD」と記載されていても、それはアンテナに触れるものではないという特別の読み方をすべきだといわれても今一つ納得できるものではない。更に、検察官は、第二世代及び第三世代のバン型車両の一部をとりあげていわば局部的検討をしているが、レンタル事業の営業商品である車両についての欠損補修が全体としてどのように行われていたか、その営業実態が客観的資料に基づいて十分明らかにされていないうらみがある。弁護人らが出向いてバレーレンタカーの駐車車両を写真撮影した際の整備状況と検察官が同様に撮影した際の整備状況の差が何故生じているのかの疑問も解消しないままである(なお、原判決の理由中には、捜査官らが検討のためエコノラインの写真を撮影した回数などに関する記載部分に多少不正確な点があることは所論指摘のとおりであるが、問題の筋道を理解する上では影響がない。)。

(三) 乙野バンのレンタル契約書には、車体の損傷を記載しないものが多々あったことは否定できないが、その契約書一六七枚(一九八一年一〇月から八三年一二月までの間のもの。物五一八・同押号の二〇三、物五二二・同押号の二〇四)の記載を通覧してみると、記載傾向の一つとして、OUT欄に顧客の指示で記載されたと思われる車体の損傷状況が、日時の経過とともに自然に増える傾向が読みとれるから、大きな傾向としていえば、顧客は車体の点検を怠っておらず、一見目立ったり、大きかったりする車体のダメージはかなりよく拾い出されて記載されているとみることができる。しかし、同時に、それほど大きくない損傷については、一度記載された損傷がその後の契約書に記載されていなかったり、「GOOD」と記載されてたりしている例があるかと思うと、更にその後の契約書に、かつて記載されたことのあるダメージの記載が復活していたりしている部分もあって、同じダメージであるのに、その点の記載を、ある者は求め、他の者は求めないというようにまちまちで、主として顧客の性格に左右されているようにみえる点も明らかである。そのため、レンタル契約書のOUT欄に何らの記載がなく、あるいは「GOOD」と記載されていても、それは必ずしもアンテナを含めて損傷がなかったことを表示しているものではないと判断される。この意味で、原判決のこの点の判示の仕方には、多少問題があることは否めない。

しかしながら、契約書のそうした記載の中で注目されるのは、一九八二年三月三〇日のいわゆるクロスビー契約書(論告要旨別冊別表Ⅱ―14の対照表の番号四四)の記載である。そこには、車両状態に関して、「左側ペイントおよび車体損傷、ハブキャブ及びアンテナ、」と記載されている。左側ペイントという記載は、それ以前の顧客も度々指摘し、契約書上に記載されたことのある損傷で、同人もこれを見落とさずに指摘したものとみられるが、車体損傷の記載は、八二年三月一二日(同対照表番号三九)に一回指摘されたことがあるだけの損傷であるから、クロスビーが気をつけて点検したものと推察される。また、ハブキャブの指摘記載がある契約書は、この契約書と八二年五月二七日分(同対照表番号五七)との二回だけであるが、ハブキャブの損傷はその前後に変わりなく継続していたとみられる。そして、その間の記載はといえば、車体の塗装箇所の記載など同じ内容を指していると思われる記載が繰り返されたり、何の記載もなかったり、あるいは「GOOD」と記載されていたり、まちまちである。アンテナの記載がある契約書はこのとき一回だけであり、他にアンテナに関する記載は全くみられない。以上の一連の記載からは、この客は通常よりも細心、神経質な人であり、車両の異常箇所を克明に点検し記載を求めている様子を看取することができる。そのような性格からすると、アンテナがもし欠損しておれば「アンテナブロークン」との記載を求めた客ではないか、それを単に「アンテナ」とだけ記載し、しかも一連の損傷箇所の最後に記載しているのは、このアンテナが一寸した湾曲等の軽度の損傷にとどまっていたためではないか、ただその程度ではあったが、こうした性格の人であったために、その点についても記載を求めたのではないかと思われるのである。クロスビー以後の客の中にアンテナについての記載を求めた者がいないのは、このときに損傷したアンテナがつけ替えられたためと考える余地も全くないとはいえないが、一連の損傷を記載する中で最後にアンテナのことを記載している点もあわせてみると、むしろこのときアンテナの損傷が、通常の感覚をもとにして目立たない程度のものであり、クロスビー以外の客はアンテナについての記載を求めなかったためである可能性の方が高いのではないかと思われる。

(四) 以上の検討結果によれば、一般的には、第二世代、第三世代のエコノラインについて、レンタル契約書に「GOOD」と記載されていても、それはアンテナを含めて損傷がないことを示しているとは直ちにはいえないようであるから、疑問がまったくないわけではないけれども、本件当時もおそらくは同じ扱いではなかったかと推察される。その点に関する検察官の指摘は一応納得できる点がある。しかし、同時に、レンタル契約書中の記載は顧客の性格によってまちまちであり、多くの顧客の場合には車両の状態を正確に表しているとはいえないようであるが、神経質な顧客の場合には、かなり記載が正確だということもそのとおりと認められる。後者とみられるクロスビーの契約書中のアンテナの記載を根拠として、これはアンテナの欠損を指しているとか、その約四か月前の本件当時にも乙野バンのアンテナが欠損していた根拠になる等とは到底思えない。この点は先に述べたとおりである。

6 本件貸出し当日のマストの折損可能性に関する所論の主張について

所論は、以上に述べた各問題点について逐一詳細な論証を行った上で、クロスビーのレンタル契約書との関連を強調しながら、「犯行当日の乙野バンのマストが装着されていたか欠損していたかについては、いずれとも断定し難く、その可能性の大小についても論じ得ず、したがってアンテナに関する証拠は、結局のところ、乙野の犯人性を判断する上で、決め手とはなり得ない無意味な証拠でしかない」、と結論づけている。

原判決は、乙野バンにはアンテナマストがついていた可能性が相当高いとし、それ故、現場バンと乙野バンとが同一でない疑いがかなり残ると判断しているのに対して、検察官は、その点は結局不明といわざるを得ないと主張するのである。しかし、アンテナに関する上述の証拠関係からすれば、乙野バンにアンテナマストがついていた可能性が確かであるとか、これを根拠として現場バンと乙野バンの同一性をはっきり否定してしまえる程であるとまではいえないとしても、サシャーのもとで発見された乙野バンには純正品マストがついているのにその折損を具体的に窺わせる証拠はなく、その痕跡も認められないことからみて、検察官が主張するような、欠損の有無が全く判然としないというよりは、少なくともアンテナがついていた可能性の方が高いとみるのが相当である。しかも、このアンテナ問題の検討に当たって今一つ念頭に置かなければならないのは、ここで大事なのはアンテナ折損の有無の事実それ自体ではなく、仮に折損した場合に補修しないで長く放置されていたかどうかの点だということである。仮に折損しても、それがすぐ補修されておれば、本件当時の乙野バンにアンテナが装着されていなかった可能性はそれだけ低くなり、アンテナ装着の有無の点で、現場バンとの同一性に疑問が生じることに変わりはないからである。検察官は、第二世代、第三世代のバン型車両の一部に折損したまま一定期間補修しないままであった事例があることを明らかにした。しかし、洗車時に生じた折損については、すぐ補修されたとの証言があるほか、弁護人提出のバレーレンタカーのバン型車両の写真もよく整備された状況を示している(のみならず、検察官提出の写真、例えば甲一〇二〇などによっても、その整備状況は良好とみられる。)。そして、右は何といっても散発的な調査結果にすぎず、バン型車両のアンテナ折損状況を全般的に、しかも客観的資料に基き明らかにするものとはいい難い。そのような諸点を総合勘案するときは、現場で目撃されたバンと乙野バンとは同一の車両ではなかったのではないかという疑いにはかなり合理的な根拠があり、証拠上無視できないと考えられる。

三  車両の特徴による同一性の識別

所論は、原判決が、銃撃現場で目撃されたバンの車種、年式、車体の塗色等が乙野バンと同一であることを認めながら、当時のロス市内にはフォード社製の白いエコノラインが数百台は存在したと認められるから、乙野にレンタカー借り出しに関する前述の諸事情が認めれるとしても、そのことから直ちに、現場バンは乙野バンであったと推認するのは相当でない、と判断したのを不当であるとして非難する。

そこで検討するのに、原判決は、車種だけでなく、色調、年式も同じであるとしているが、そのように言い切れるか、多少の疑問がないではない。まず、乙野バンは、一九八〇年型、フォード社製カーゴバン、エコノライン二五〇(塗色ウィンブルドンホワイト)であったことが明らかである(乙野バンに関する捜査報告書[物一一一、一一二]、実況見分調書等[甲三〇六、三〇七、三〇八])。他方、現場で目撃されたバンの車種は、目撃者であるアルガイヤーやイエシドらの供述、甲野写真13に関する白瀬鑑定(甲二四二)、鈴木鑑定(甲七八二、七八五)等を総合すると、同じエコノラインの新型と認められるから、車種の点ではまず同一とみてよい。しかし、年式まで同じかどうかは明らかではない。つまり、同車は、一九七五年にモデルチェンジし、その後は、同型式の車の生産が続けられたとされている(前掲捜査報告書[甲一〇一三]112-16074)から、同年以降に生産されて車両のすべてがこれに該当する可能性があるとみられ、その中で一九八〇年型であったことまで目撃によって特定することは困難とみられるからである。次に、塗色は、エコノラインの場合は一五色程度あり、その中では白が三〇ないし三五パーセントを占めるとされている。色の識別を写真によって判定することは、性質上なかなか難しいことであるが、両車両の同一性鑑定に当たった白瀬敏雄の原審証言によると、鑑定依頼外の事項であると断った上での証言ではあるが、「非常に淡い色若しくは白系統の明るい塗装の車」であるとされている。その趣旨は、白であるともないとも断定できない、淡色系のアイボリーとか薄いクリーム色だとか、そういう非常に薄い、白っぽいのに僅かに変化した種類の車であるということくらいしかわからない、というのである(第三六回原審証言154-2770、第七六回原審証言169-6626)。目撃者らは、白いバンと表現しているから、白っぽい色であったことは間違いないとしても、更にそれに何かの色が混じった白っぽさであったかどうか、例えば七九年型及び八〇年型のエコノラインのカタログ(物七一八・同押号の三六五)にある「ライト・サンド」のような塗色でなかったかどうかまでは、分からない。その意味で、塗色は、両者似ているとはいえるが、それ以上に同じとまでの断定はできない。

また、現場で目撃されたような特徴のバン、すなわち、一九七五年以降に製造された新型エコノラインで、白っぽい塗色のバンというだけでは、原判決が指摘するとおり、該当車両が極めて多く、当時のロス市内を多数の同型車が走行していたことは間違いないことは原判示のとおりであるから(前掲回答書[弁B三三、三四]、前掲捜査報告書[甲一〇一三])、この特徴だけでは車両の絞り込み効果をあまり期待できそうになく、結局乙野が前日に借り出したバンと似ているとはいえても、それ以上の類似性は不明とするほかない。

そうすると、本件当時現場で目撃されたバンと同車種、同系塗色のバンを乙野が本件前日に借り出し、当日に返還した事実が認められても、アンテナの疑問が解消されず、車の特徴による同一性識別も右に述べた程度である以上、乙野バンの使途をめぐる嫌疑が検察官指摘のとおりであり、疑わしくても、乙野が乙野バンで現場へ臨場した事実を認めることには合理的な疑いが残る。

乙野の犯人性を立証するに当たり、検察官としては、乙野バンには正当な使途がなかった事実をひとまず立証でき、そのことによって、乙野バンが現場で目撃されたのではないかとの疑いまでは立証できたとしても、他方現場バンと乙野バンとの同一性について、アンテナ装着の有無等をめぐって生じる疑問が以上に述べたとおり解消できないままでは、これを全体としてみれば、乙野の現場臨場性についての立証が不十分と判断せざるを得ないのは当然である。

第七  犯行に加担する動機の有無について

殺人という重大な犯罪の共犯者になることを応諾する場合には、通常、納得できる動機が認められる筈と考えられる。原判決もそのことを指摘し、乙野は、本件当時平穏な家庭生活を営んでおり、甲野から報酬を払うといって誘われても、その殺人計画に容易に加担する状況にあったとは思えない、その意味で乙野に動機は認められないと判断して、この事実は乙野の本件犯行への関与に疑問を持たせると判示した。この点について、所論は、人の判断は多様であり、また甲野が乙野をどのように言って説得したかも分からないではないかという。しかし、この点に関する検察官の主張は、事柄の性質と本件証拠に照らすとき、全く説得力がない。以下に検討するところによれば、本件保険金殺人、C殺害に加担する動機が乙野にあったとは到底認められない。

乙野の本件当時の生活ぶりは、関係証拠によれば、おおよそ次のとおりであったと認められる。すなわち、乙野は、

1  高校卒業後、二年の受験浪人生活を経験して昭和四八年に渡米し、南カリフォルニア大学音声学特別講座で一年間英語を学んで同大学生物学部に入学、その後経済学部に転部した。同五三年八月に同学部を卒業して、同地の輸入代行会社千代田インダストリアルカンパニーに勤務し、仕事を通じて知り合った甲野に誘われて、同五四年一二月ころ独立し、「ドンドン」の名称で、甲野経営のフルハムロードが米国から輸入するギフト商品を、同社に代わって現地で仕入れ、同社宛てに発送する輸出代行業務を行うようになった。

2  この間、昭和五二年六月、学生として知りあっていたEと同地で婚姻し、同五四年四月一一日に長女Fが生まれた。当初はアパートに住んでいたが、同五四年一一月に「ドンドン」として業務を始める直前ころ、仕事場を兼ねてロス市モントレーパークの一戸建ての住居に移り住んだ。

3  ドンドンの営業活動から生じる乙野の収入は、当初甲野との間で、フルハムロードとの取引額の一〇パーセント、月一〇〇〇ドルは保障する約束となっており、実際それを上回るほどの収入があった。また、これとは別に、CBHとフルハムロードとの間の取引に関する顧問料として、毎月四〇〇ドルがフルハムロードから支払われる約束となっていた。更に、同五六年六月以降は妻Eが看護婦として勤めに出て、月約一二〇〇ドルの収入があったが、生活費に回す必要はほとんどなかった。

4  一方、当時の家計支出は、家賃その他を合わせても月に一〇〇〇ドル位あれば足り、超えても、若干プラスすれば足りる状態であった。

5  ところで、昭和五五、六年ころ、乙野はモントレーパークの家の家主から家を売却するかも知れないと聞かされ、同地が気にいっていたこと及び当時の家賃が五〇〇ドルから六〇〇ドルとかなり高額であったことから、頭金があればその付近に家を買いたいと考えたが、すぐに買うまでの余裕はなかった。

6  昭和五六年に、乙野は二八〇〇ドル、妻は三〇〇〇ドル、合計五八〇〇ドルを投資して金や銀の先物取引を行い、結局丸損をしたということがあった。

以上によれば、乙野のアメリカでの生活は、アメリカ在住の日本人としてはかなり順調で、かつ安定していたとみられる。先物取引に手を出して損失を出したことはあったが、この投資は資金に余裕のある範囲内で行われており、深刻なものではなかった。そのことは、同人らの預金残高からも分かる(銀行預金口座の入出金に関する捜査報告書[甲五七四]、Eの第四七回原審証言[157-3772, 3835〜3837]、同公判調書添付の預金通帳の写し⑨から⑪)。モントレーパークに家を買いたいという希望もまだ漠然としたもので、差し迫った話ではなかったし、元来同人は、性格的にも自分の生活ペースを大事にしつつ家族中心の生活を送る傾向の強い人物で、当時家庭では二歳の娘を中心として安定した平穏な生活を送っていたとみられ、こうした身辺事情を全体としてみると、乙野はようやく築き上げたアメリカでの平穏な生活を一挙に失う危険を冒してまで、甲野のため、同人からの誘いにたやすく応じる状態にあったとは到底思えない。検察官が描く本件犯行の構図を基にして考えれば、本件は、甲野にとっては犯行による金銭的利得が考えられるから、その点を動機と考えれば考えられるとしても、乙野については大きな危険を冒してまで犯行に加担するだけの積極的事情は全く認められない。また、乙野はかつて甲野方に招かれてCに会ったことがあったほか、その長女で、自分の長女と年が似通った子供に会ったこともあり、同じように可愛いい盛りの子を持つ親として、その子の母親を殺害するような行動ができる筈はなかったと述べているのも、単に口先だけの弁解とは思えない。検察官も、乙野に動機らしい動機が見当たらないことは認めつつ、しかもなお、甲野が絶対に発覚しない等と言って強力に説得したかも知れないし、乙野としては、その収入が主として甲野との取引に依存していることを重視して引き受けたかも知れないから、動機となりそうな事情が一見しただけでは見当たらないからといって、すぐに乙野は犯行に関与していないと推測するのは早計であるという。しかし、殺人という重大犯罪について、右のとおり、ほとんど動機らしい動機がないのに、それでも関与を決断したかも知れないという程度の理由で動機を肯定するのは、危険である。そうすると、この点は、乙野の犯行への不関与を窺わせる一つの事情として考慮するのが相当であって、そのことを指摘した原判決に不当な点はないというべきである。

なお、検察官は、原審での冒頭陳述において、乙野は「社長である被告人甲野の部下ともいうべき立場にあった」とか、「忠実な下僕のごとく同被告人に服従するようになった」と述べて、甲野と乙野とのこのような関係が、今回の犯行の動機ないし伏線になっていると主張したことがある。この点は、控訴趣意では触れられていないので、その後の審理経過からみて撤回されたものかと窺われるが、証拠によれば、両者の間にこのような関係は認められず、ましてそのような関係の中に本件の動機を見いだすこともできない。

第八  乙野と甲野との謀議について

検察官は、本件犯行を甲野が乙野に持ちかけ、乙野がこれを応諾して実行したとするならば、犯行前に、両者間で綿密な事前打ち合わせが行われていた筈であることを認めている。しかし、その上で、最終謀議に関する原判決の判断を不当であると非難する。すなわち、原判決は、事件前日の一一月一七日に、乙野がCCMに甲野を訪ねて会っている事実を認めながら、これは乙野を共犯者と推認させる情況証拠にはならないと判示し、その理由として、(a)乙野は、甲野がロスへ来たときにはいつもすぐ同人と会って、甲野の滞米中の仕事や日程の打ち合わせをしていたと述べており、両者の仕事上の関係からみて納得できるから、このときも同様であったと考えられること、(b)甲野は乙野と別れた後の時間帯に、別人の共犯者と会っている可能性を否定できないことの二点を挙げているが、これは不当であるというのである。そして、検察官は、甲野の渡米は、九月以来で、二か月ぶりのことであったから、本件犯行を翌日に控えて最終謀議をする必要があったほか、現場を下見して打ち合わせた筈である、Cが買い物に行ったのは謀議に必要な時間を作り出すためにことさら買い物に行かせたのであり、こうして作り出した貴重な時間帯に、共犯者としての諸条件をよく備えた乙野が甲野に会っているということは、謀議のためであったとみるのが自然であり、これは乙野が共犯者であることを示す情況証拠になる、というのである。

ところで、このときの甲野と乙野の面会については、商用メモ等の証拠は全く残されていない。原判決の認定は、甲野が商用で渡米したときのいつものやり方と何ら変わりはなかったという乙野と甲野の供述に基づいているのに対し、検察官の主張は、銃撃事件発生の結果から逆算して、事件前に最終謀議がされた筈であり、その機会としてはこのとき以外にはなかった筈であるという論理と、面会直後に、乙野がレンタカーを借りに行っていることとのつながりを根拠としているものと考えられる。

一  謀議を要する事項と謀議の必要性

午前一一時過ぎという白昼の時間帯に、人目の少なくないバス道路沿いの駐車場で、目撃されることなく、Cの顔面と甲野の足を引き続いて銃撃・命中させ、Cの所持品を現場にまき散らして逃走し、強盗を偽装するという綱渡り的犯行を甲野が仕組むためには、共犯者間で、事前に相当入念な謀議を遂げておくことが必要・不可欠と考えられることは、容易に想定できる。犯行態様からみて、入念な打ち合わせを要する事項は少なくないと思われる。簡単に思いつくだけでも、第一に、凶器として使用されるライフル銃の足のつかない調達方法、それを甲野が調達することは実際上考えられないから、共犯者がどのようにして調達、保管、習熟、処分するかが問題にならざるを得ない。第二に、単にCを銃撃するだけでなく、偽装のため甲野本人の足を同時に銃撃することを計画していたとすると、足を銃撃するといっても、まかり間違えば甲野本人に取り返しのつかないダメージを与える危険があることは見やすい道理であるから、まず甲野が、そのような銃撃の一般的威力を得心のいくまで納得し、銃撃犯人の射撃の腕の確かさを信用でき、最悪の場合にも予想される負傷の程度とその予測に間違いがないかどうかを確かめることは省略できないであろう。第三に、保険金目的の犯行であるとすると、保険会社に疑いを持たれない犯行場所と犯行態様の選定が重要であり、またCBH用の写真撮影中であったことを口実とするのであれば、それと矛盾するような不自然な場所であってはならないだろう。そして何よりも、実際に銃撃を行う者にとっては、人目が少なく、犯行をできるだけ目撃されない場所その他の現場条件を確かめることが不可欠である。第四に、計画実施に当たっては、本件駐車場や駐車状況の下見が必要であろう。Cに気づかれないで銃撃するには、どの場所からどのような態様で銃撃するかが問題で、事前検討を要するところと思われる。そのためには、バンの調達と現場での配置方法を検討し、かつそのバンから足がつかないよう配慮しておくことが必要である。第五に、報酬金額、その支払方法、支払時期等についての合意も不可欠である。打ち合わせを要する事項は少なくなく、どうみても簡単な謀議で済みそうにはない。例えば、犯行現場の選定問題一つを取り上げてみても、本件現場は、バス道路沿いの狭い駐車場で、路線バスがこの時間帯には一時間に六本位は通っている場所であり、その道路を挟んだ反対側に広い駐車場があり、駐車場には多数の車両が駐車中で、路上駐車車両や路上駐車のできそうな場所を探して付近をうろうろする車もあって、そのためそうした車に対する取り締まりがよく行われていたと本件目撃者らが供述している場所であったから、十分な検討が必要であったと思われる。また、現場にバンを配置すればその陰から目撃されることなく銃撃できるとの見込みを立てるためには、実際にバンを借り出して現場に配置してみる必要があったであろう。特に、東方の水道電力局ビルは、少し離れてはいるけれども現場を見下ろせる位置に建っていて、本件では偶々八階に目撃者らがいたけれども、見下ろされる犯人の側にとっては、何階から目撃されるか分からないことを前提として警戒しなければならない現場状況にあったし、他に北東方向の保険センタービルからも目撃可能であり、これに駐車車両が加わることを想定すると、目撃可能性の一点だけを取り上げても、銃撃を実行する犯人にとっては、相当真剣に検討しなければならなかった筈と推察される。検察官は、保険金請求との関係で、銃撃被害を受けたとして不自然さが感じられない場所という観点からみて、本件現場は犯行に適当な場所であったという。しかし、少なくとも短時間の打ち合わせで足りたとは到底思えない。

甲野と銃撃犯人とは、右の打ち合わせを、甲野が日本にいることを前提として、完了しなければならなかったことになる。本件の共謀にはこれだけの膨らみがあり、これを銃撃犯との間で行うには、かなりの時間と機会を必要とすることは当然で、それは簡単に済むことではなかったとみなければならない。

二  謀議の機会と方法

1 謀議の機会

本件謀議の始期について、検察官は、本件の約三か月前におこった殴打事件後のことと主張する趣旨のようである(原審での冒頭陳述2-81)。殴打事件に失敗したために、手段を強めたとみるのが一般的には分かりやすい筋道である。本件の警察側捜査の取りまとめに当たった寺尾証人は、当審公判廷で、殴打事件で殺害目的は未遂に終わったが、事態が表面化することなしに終わった点で、甲野にとっては必ずしも失敗ではなかったと見られる、帰国後すぐにCに行わせるアンティークドレスの展示即売会の会場予約をするなどしたのは、殴打事件直後、ロスにいるときすでに銃撃事件の下準備を始めたことを示しているという。しかし、証拠上は、全く根拠がない。

2 国際電話

謀議のための両者間の連絡方法としては、直接会って打ち合わせる方法と、国際電話等による連絡とが考えられる(検察官は、これ以外の方法として、昭和五六年一〇月に、甲野がフルハムロードの社員谷村宏に封筒を託して、これを乙野に手渡したことを挙げる。しかし、これが本件に関係する物であったことを示す証拠は存在しない。そして、これは一方通行であって相互連絡ではなかったから、所詮補助的な連絡方法に過ぎない。)。

そこで、まず、殴打事件から本件に至るまでの間に甲野が乙野にかけた国際電話の架電状況(甲野の自宅や事務所に設置されている電話回線分)をみると、大半はごく短時間の通話ばかりで、その中に一〇分ないし一三分余の通話が六回あるという程度に過ぎない(国際電話使用状況に関する報告書[甲六三六])。検察官は、原審での釈明の中で、一〇月一三日以降、甲野が日本国内からロスの乙野に頻繁に電話をかけて連絡をとったと述べている。しかし、同日以降分のこれに相当する電話は四回認められるが、この電話は、すべて会社の事務所内から、通常の執務時間内にかけられており、電話機の周辺に社員がいる状況のもとで、殺人実行の共謀ができるとは考えられないのであって、これが共謀のためとは到底思えない。そして、これ以外には連絡の痕跡を証拠上窺えないから、電話を使った共謀は可能性が低いとみなければならない。

3 渡米時の共謀

そうなると、甲野が渡米して乙野に直接会った機会に謀議をしたとみるほかないことになるが、これに相当する機会としては、甲野の出入国記録からみて、本件の二か月前の九月渡米時(九月一三日から同月一九日まで)と本件発生時の二回しかないことが明らかである。そのことを前提として、前記の打ち合わせをする手順を考えると、普通ならば九月渡米時というのが順当なところであろう。しかし、このときの甲野の行動については、検察官からはほとんど内容のある主張や立証はされていない。かえって弁護人から、甲野と乙野は、甲野到着翌日の一四日から、一〇月に開催を予定していたギフトショーに参加してくれる会社探しに奔走し、実際に二〇社位の参加を得ることができ、その覚書(メモランダム、甲七七四)を作成するのに忙しく、本件の打ち合わせをするような時間的余裕はなかったとされ、実際一〇月一日、二日の両日、かねての予定どおり、日本青年館でフルハムロードのギフトショーを開催した事実があるから、これによって、右のような渡米時の状況は一応裏付けられているといえる。このとき、バンを借り出した事実はなく、死角範囲の確認をした形跡も窺えない。

甲野は、一〇月五日にフルハムロードの従業員谷村を渡米させ、自らは一〇月七日から一〇月一一日までタイペイに出張している。谷村渡米の目的は、ギフトショーで注文を受けた商品のオーダーをアメリカ側に直接持参する点にあり、甲野の出張は、台湾からの直接買い付けを検討するためであったようである。もし、このころ、甲野が本当に本件犯行を画策していたのであれば、このとき谷村を渡米させないで、甲野本人が渡米し、その機会に本件銃撃の謀議を遂げることを考えていてよさそうに思われる。

4 本件前日の共謀

このようにみてくると、ほとんどの準備と打ち合わせが本件前日に持ち越されていたことになる。だから本件前日の最終謀議が欠かせなかったというのが検察官の主張である。しかし、このように重大な犯行を計画しながら、その実行細目の大半についての共謀が事件前日に持ち越されていたとは到底考えられない。検察官の論法によれば、甲野は、出発前にCに生命保険をかけ、同女を連れて渡米するなどして、いわば日本でできる犯行準備を完了して渡米していることになるのに反して、現地のロスでは全く準備未了の状態であったことになり、あまりにも不均衡過ぎると考えられる。そうなると、何故甲野は到着翌日という、綿密な謀議をする時間的余裕のないことが初めから分かり切った時期に本件犯行を実行することにしたのか、最終謀議を一七日に持ち越すほかない日程であったのであれば、十分な謀議を終えて、一八日以降に実行しそうなものではないかとの疑問が生じるのである。

これを殴打事件発生前の状況と対比してみると、このとき甲野は、何回にもわたってDに念押しをし、打ち合わせを繰り返した跡が明らかである。両者を較べると、今回の犯行の方が犯行内容がはるかに複雑であるのに、その準備は殴打事件のときよりもはるかに不十分過ぎるようにみえ、このように準備未了の状態で本件を実行できると本気で考えていたとすることには、少なからぬ違和感を抱かざるを得ない。

ただ、事件前日、乙野はCCMで甲野と会った後、すぐレンタカー会社へ行き、そこで白いバンを借り出した事実があることはそのとおりである。甲野と会って話した結果、バンの借り出しが必要になったのであろうと推測されるが、その話とは何であったのか、それは乙野のいうように取引関係のことで、その必要から借りに行ったものなのか、あるいはそれは検察官がいうように本件の謀議のことで、犯行に使用するために借りに行ったものなのか、いずれとも不明である。先に述べたとおりの込み入った銃撃計画の共謀というにしては、その謀議経過も謀議内容も全く判然としない。謀議の成立を主張する以上は、少なくとも謀議をするのに十分な機会があったことを客観的に立証しなければならないのに、そもそも謀議の機会があったのかどうかが判然としないのである。このように未解明部分の多い証拠関係を基にして、事件前日の両者の面会は最終謀議を内容とするものであったと認定することなどできるものではない。

以上によれば、事件前日に乙野が甲野に面会した用件は、はっきりはしないけれども、甲野がロスに来たときはその都度、すぐに仕事上の打ち合わせをするのがいつものやり方であったということは、誰にでも納得できる普通のことといえるから、他の理由がない限り、その可能性が高いとみることができる。

第九  殺人報酬の約束と支払い

一  検察官の主張

保険金目的の殺人への加担を応諾するときは、報酬約束がされていなければ不自然であろう。原判決は、乙野が甲野から本件犯行の報酬を受け取ったと認めるに足りる証拠はないとし、もし乙野が報酬の取得を目的として犯行に加担したとするならば、当然報酬を受け取っていなければおかしいのに、受け取った証拠がないということは、同人が犯人でないことを窺わせる事実であると判断した。

これに対して、検察官は、甲野は乙野に対する殺人報酬の支払いを踏み倒した可能性が濃厚であるとし、踏み倒された乙野の立場については、妻子と共に帰国後、親の資産と事業を受け継ぎ、本件犯行の翌年の昭和五七年一一月、Cが死亡したころにはすでに多額の収入を得るようになって生活が安定し、甲野から右の報酬をもらう必要が薄れてしまっていた、そこでこの際甲野から報酬を受け取るよりも、犯行に関与した事実の発覚を防ぐためには受け取らない方が得策と考えたことも十分あり得る、乙野が甲野から報酬を受け取ったことを示す証拠がなくても、必ずしも乙野が犯人でないことを窺わせる事情とはいえない、という。しかし、以下に述べるとおり、到底そのように認めることはできない。

二  乙野への一八三万円の入金

関係証拠によれば、乙野に本件報酬が支払われていないという原判決の認定に誤りはないと認められる。すなわち、乙野が甲野から受け取った金員の中で、いささかでも殺人報酬の支払いを疑わせるものとしては、昭和五七年八月に甲野から乙野に銀行送金された一八三万円があるだけで、それ以外にはない。検察官もそのことを認めた上で、原審では、この一八三万円を本件殺人報酬の一部であると主張した。しかし、殺人の報酬ならば、本件犯行の態様からみて、一〇〇〇万円を下ることはなかったろうと検察官自身も認めているときに、この金額は、殺人という重大事件の報酬としてはいかにも少額で、金額が半端過ぎる。また、もしこれが殺人事件の報酬という性質をもつのならば、証拠を残さないように現金で授受するのが普通であろうと考えられるのに、この金員は、昭和五七年八月二三日、甲野から乙野の妻E名義の富士銀行立川支店の普通預金口座に振り込まれ、九月四日乙野がこれを払い出して、東京銀行大阪空港支店のE名義の普通預金口座に振り込まれているのである。殺人報酬の支払方法としては不自然過ぎるとの印象を拭えないのであって、その旨の原判決の判断には十分理由がある。原判決は、この金員支払いの趣旨をCBH関係の顧問料であると認定している。乙野と甲野との間には、同顧問料として、月額四〇〇ドルを支払う約束があったところ、その支払いが途中から滞り、乙野がドンドンの営業を止めた昭和五七年二月時点では未払総額が八〇〇〇ドルになっていて、それをその時点での為替レートに基づいて計算して支払ったと認定しているのである。被告人両名の原審供述がその点では一致しているほか、乙野が一時帰国していた同五七年二月九日、同人は甲野に対して、CBH関係の費用であることを明示して、右八〇〇〇ドルを同年八月末までに支払うよう求める書面を作成し、これに甲野の署名をもらっていた事実(E第四七回原審証言・同公判調書添付資料⑥[157-3832])、未払い金額と送金金額とが当時の為替レートに基きほぼ合致している事実、乙野の後任者も同様の金員の支払いを受けている事実等によって裏付けられているから、そのとおりと認めてよい。もっとも、右金員送金の表面上の名目は、CBH関係費用とはされておらず、看護料名目となっている。それは、甲野が、顧問税理士のアドバイスにしたがって、保険金から支払いたい意向であったことや、実際Cが米国で入院中には、その看護面で看護婦資格のあるEの世話になったいきさつがあったために、名目をそのようにしてもよかろうとの判断があり、そのため看護料名目で送金されたというのである。そうすると、名目は看護料となっていても、その実質がCBH関係の顧問料であったことに違いはないと認められるから、これを報酬の一部だと主張する検察官の主張は採用できない。

三  甲野の出金

乙野について報酬入金の形跡がないことについては右に述べたが、これを甲野側からみても、相手は誰であれ、報酬と呼べる金員を出金した形跡は認められない。

すなわち、検察官は、甲野が管理しているすべての預金口座(単に、甲野名義の預金口座だけでなく、C、G、H、I名義の口座などを含む。)の入出金状況及び甲野の海外出張中の金員の精算関係につき、主として昭和五六年八月一九日以降(いわゆる殴打事件の際の渡米から帰国した日)、昭和五九年一月一九日(「疑惑の銃弾」の掲載された週刊文春が発行された日)までの間の調査、検討を行っている(論告要旨第二分冊七四九頁、同別冊IB別紙一ないし一三)。かなり徹底した調査が行われ、これによって金員の流れはほとんど解明され、報酬の支払いがされていないことは明らかになっている。もとより、その調査結果によっても、使途不明金が全くないわけではないが、その金額は少額で、支払方法等からみて、本件に関係ある報酬は皆無とみられる。日頃の甲野の金銭処理について、CのいとこのJは、個人の金銭と会社の金銭とは日頃からはっきり区別され、その間に混同はなかったと述べている(同女の原審証言160-4409, 4499)から、検察官の右の検討はほぼ実体を反映していると理解してよいであろう。ところで、もし、殺人に加担したことの報酬を支払うのであれば、乙野について前述したとおり、本件発生後騒がれることなく二年以上経過している右の時期までの間に、ある程度まとまった金額の支払いがされたであろうと考えられる。殺人報酬というような性質の金銭支払いについて、前金なし、分割支払いというようなことは、通常考えられない。それにもかかわらず、その間に支払われていないということは、報酬を支払うべき必要がなかったためではないかと一応は考えざるを得ず、共犯者がいたという検察官の主張に大きな疑問を抱かせることは否定できない。

検察官は、控訴趣意では前述の一八三万円の性質には触れず、代わって甲野は乙野に支払うべき報酬を踏み倒したとか、乙野は帰国後生活に困らなくなったために、報酬請求を放棄したと考えてもおかしくないという。しかし、これは証拠に基づく推論とは到底いえず、あまりにも辻褄合わせが過ぎるとの感を拭えない。もし、真実乙野が、平穏な家庭生活を一挙に破壊する危険まで覚悟して本件に加担したとするならば、その報酬をたやすく放棄することはあり得ないとみるべきであろう。

このように検討してくると、報酬支払いの事実がないのはもとよりとして、報酬支払いの約束があったともみえない右の状況は、両者の共謀を否定する情況事実と評価するほかなく、その旨の原判決の判断に誤りは認められない。

第一〇  乙野とライフル銃との結びつきについて

所論は、原判決が、本件銃撃に使用されたライフル(二二口径、右一六条のライフルマークを持つ。)を乙野が所持していたとする証拠がないこと、本件銃撃犯は、Cの顔面に銃弾を命中させるとともに、甲野に対しては致命傷を与えないようにその大腿部に銃弾を命中させることのできる相当の腕前の持ち主と認められるのに、乙野は、四、五回射撃場に通って練習した程度で、射撃に習熟していたとは認められないから、本件のような困難な銃撃を行えたか疑問であると判断したのを不当であると主張し、ロスでのライフル銃の購入、処分は極めて容易であるから、積極的証拠がなくても犯人でないとはいえないし、また、ライフル銃はピストルと違って命中率が極めて高く、初心者であっても間違いなく命中させることができるから習熟は不要であり、しかも乙野は自分でもライフル銃を所持していたのであるから、本人がいう以上に習熟していた筈である、と主張している。そこで検討するのに、

一  ライフル銃の所持関係をみると、乙野は、昭和五一年八月又は九月ころ、大学で知り合った林正史が帰国する際に、同人からルガー製の二二口径ライフル銃を五〇ドルで買い受けた。このライフル銃は、スコープ付き、セミオートマチックのもので、銃ケース、二ケース入り一〇〇発の弾丸、説明書などと共に受け取った。乙野は、その後の同五三年にフェドラー通りのアパートを林昭東に譲ってEと共にケンモア通りのアパートに移り、更に同五四年一一月モントレーパークの一戸建ての家に移ったが、その間ライフル銃は林昭東に預けたままで、その後、同人が日本に帰国する同五四年一二月ころに同人から返還を受けた。そして、同五七年四月、乙野が帰国するにあたり、前記のライフル銃と実包を、妻にも内緒で、引越荷物に紛れ込ませて日本に持ち込み、日本到着後、梱包し直して、自宅倉庫の天井の梁の部分に隠匿して所持していた。これが、今回、銃砲刀剣類所持等取締法違反に問われた銃で、この銃が本件銃撃に使用されたものでないことは明らかである。

問題は、乙野が、このライフル銃以外にライフル銃を所持していたことがあったかである。この点に関して検察官は、原審での冒頭陳述中で、本件後の昭和五七年二月二〇日ころに乙野の友人である柴山光央、真理子夫妻がロスの乙野宅を訪れた際、そこで、自動式ではないボルトアクション式のライフル銃を見たと述べていることを指摘した。しかし、同証人らの供述は、目撃状況に関して客観的な事実に反する点が目立ち過ぎ、到底信用できないことは原判示のとおりと認められる。柴山らが見たというライフル銃は、関係証拠によれば、光央がその友人と昭和五二年夏ころに、フェドラーのアパートに乙野を訪ねたときに見たのと同じ銃で、それは、乙野が今回持ち帰ったルガー製のライフル銃であると考えるのが相当である。したがって、今回発見されたのとは別の、本件で使用されたのと同じライフル銃を乙野が所持していたことを示す証拠は見当たらない。検察官は、アメリカではライフル銃の購入も処分も容易であるから、所持の事実が不明であっても、だから犯人でないとはいえない、という。しかし、犯行に使用した銃を、本件犯行前から犯行と無関係に所持していたものであれば、あえて周囲の者に隠すこともなかったであろうから、銃の捜査が行われれば、所持状況はたちまち判明しておかしくないだろうし、もし本件への加担を求められ、応諾した後に新たに購入し、短期間内に習熟のため練習し、使用後急いで処分したとするならば、その過程のどこかで身近の者に感づかれているように思われる。そして、後者の場合には、とにかく同人の手元に使用可能なライフル銃一丁があったのであるから、新たに購入などしないでその銃を使用し、その上でこれを処分してしまえばよかったのではないか等の疑問が解消しないのである。

なお、乙野は、右のとおり林から譲り受けたルガー製のライフルを持ち帰ったことを妻にも話さず、聞かれたときにはアメリカで渡辺に譲り渡してきたと答えてごまかしていたが、その後銃撃事件の捜査が厳しくなる中で、これを警察に提出した。提出した理由について、乙野は、捜査官から、銃撃事件については弾丸があるからこれによって銃の同一性は照合可能であるとの説明を受け、無実の証明が可能と分かったので提出したというのである。銃の持ち帰りが大騒ぎになってしまった後の収束策としてみれば、理解できないことではない。ところで、乙野は、この提出に先立つ昭和六二年六月一六、一七日の両日、不死王閣で警察官による取調べが行われた際、自分が所持していたとするライフル銃の形状等を図面に記載して提出している(乙八五・同押号の三七八)が、その図にはボルトアクションのレバーに相当する部分が書き込まれており、乙野が日本に持ち帰って所持していたライフル銃とは明らかに異なっている。これでは乙野は、日本に持ち帰ったライフル銃以外にもう一丁ライフル銃を所持していたことになってしまう。このような形状のライフル銃を記載した理由について、乙野は、原審公判廷での説明の中で、自分の記憶は薄れていたが、捜査官から、友人の柴山光央の供述を伝えられて誘導されたので、間違いないだろうと思ってそのように図示したように思う、というのである(第八六回原審証言[174-7557, 7592]、同公判調書添付資料25、第九四回原審証言[180-8514])。しかし、もし乙野が、持ち帰った銃の外にもう一丁別のライフル銃を入手するなどして、それを本件犯行に使用していたとすると、これらライフル銃の形状は脳裏に焼き付いていた筈であり、それに関しては神経質なくらいの対応をしたと思われ、このように複数の銃を所持していたことにつながる図面を不用意に作成するとは考えられない。この点に関する乙野の供述経過には、乙野が、持ち帰っていたライフル銃以外には、ライフル銃を持っていなかった事実が現われていると考えられる。

二  また、乙野の射撃能力がどの程度であったか、判明している限りでは、姉の夫や友人らと四、五回(あるいは一〇回程度という供述もある。)射撃場に行って射撃したことがあるという程度とされているから、まだそれほどライフル銃に習熟していたとまではいえず、その点は原判決の判示するとおりと考えてよいと思われる。一方、本件の銃撃犯人は、いずれも一発でCの顔面と甲野の大腿部を撃ち損じることなく撃つことができるだけの銃撃能力を持ち、また、ホローポイント弾を使用していて、これで顔面を撃てば殺害でき、大腿部を撃てば致命傷にいたらないことを知っていた人物のようである。しかも、練習として撃つのではなく、いつ動くかも知れない相手方を、気づかれて逃げられたりしないよう短時間内に、しかも他人に目撃されないように気を配りながら撃つことが求められており、この役割を落ち着いて実行できるためには、やはり相当手慣れた銃撃能力を必要とすると考えられる。だから、落ち着いて撃てば素人でも百発百中を期待できるという検察官の論法は、本件の局面では採用できない。

このように考えると、本件で使用されたライフル銃と乙野とのつながりが全く不明となる。銃撃に使われた凶器とのつながりが皆目不明であるという右の事実は、犯行の性質上、乙野の犯行関与の事実を立証するに当たって大きな欠落部分があることを示すものであり、この点に関する原判決の判断に不当な点は見当たらない。

第一一  乙野のアリバイについて

所論は、原判決が、「一般に重大犯罪を犯す犯人は、後日の捜査を想定してアリバイ工作を行うのが自然であり、ことに乙野は、ロスでは甲野に最も近い人物と見られていたから、乙野が殺害犯人としたならば、あらかじめ本件殺人事件当時のアリバイ工作をしておくのが、本件の計画性、用意周到性からみて自然であると考えられるのに、アリバイ工作を行ったと認めるに足る証拠がない。」とし、これを、乙野が犯人でないことを窺わせる事情であると判示した点を不当であると主張し、保険金殺人の過去の事例を見ても、アリバイ工作をしている事例もあればしていない事例もあり、アリバイ工作がなかったとしても、そのことはその者が犯人であることを積極的に示す事実がないというにとどまり、犯人でないことを窺わせる事情とはならない、というのである。また、これに付加して、乙野が一切アリバイ工作をしなかったとすることにも疑問がある、という。しかし、原判決は、乙野にアリバイがあるとは認定していない。だから、その点に触れる検察官の主張は前提を欠いている。また、検察官は、事件発生当日の午前及び午後の乙野の行動に関する同人の供述には疑わしい点があるとし、これは同人が犯人であることを示す重要な証拠であるという視点を打ち出しつつも、最終的な意見はなお留保するとしているので、この点についても当審では特に判断しない。

そこで、数人が共謀して、例えば保険金殺人の犯行を計画、実行する場合、アリバイ工作をするのが普通であるかどうかは、事案の内容と犯人の性格その他によって同じではないかも知れない。しかし、これを検察官が本件事案の構図として主張するところに沿って考えてみると、本件は被害者を偽装した保険金殺人で、その目的達成のために種々方策を思いめぐらし、例えば露見し難いように犯行地を外国に選定し、Cを銃撃したのに引き続いて自分の大腿部を撃たせるという手の込んだことまでして被害者を偽装したということになるのであるから、その計画性、用意周到さはかなりのものとみなければならない。それに対して、乙野は、犯行地の近くに居住し、その土地ではすでに甲野やその妻Cとの関係を知られていて、Cが不測の被害に遭えばまず目にとまり、事情聴取を受けておかしくない立場にあり、しかも乙野は、その時点ではまだ近々帰国する予定を立ててもいなかったとみられるから、甲野の立場と較べれば、乙野は極めてガードが甘い立場にあったことは明らかである。だから、もし乙野が犯行に加担するのであれば、せめて何らかのアリバイ工作などの発覚防止策を講じておかなければ立場がなかったろうとの印象を拭えない。その意味では、原判決が、乙野にアリバイ工作をした跡が見えず、犯行に関与したとするには疑問を持たせる点があるとしたことは理解できる。

検察官は、アリバイ工作をしたのにそのことが露見しない場合があるから、原判決のように、表面をみただけで、乙野はアリバイ工作をしていないと速断するのは疑問であると主張する。確かに、アリバイ工作としては、例えば誰かから免許証を借りてバンを借り出すとか、借りたバンの走行距離を不正に操作しておくとかの、弁護人が主張する、絵に描いたような直接的な工作をするだけとは限らない。このような方法は、一見有効なようにみえても、かえってアリバイ工作自体が新たな痕跡を残し、そこから露見する危険を抱え込むことにもなりかねないからである。とすると、妻Eとの間で、乙野が犯行時刻ころには自宅にいたという、直接的で露骨な口裏合わせをする代わりに、本件の場合にそうであったように、自宅を出た時間は正確にはわからないが、ぐずぐずしていて遅くなったと妻に供述させ、間接的にアリバイ的雰囲気を醸成する方がより自然であるという見方もなくはないかも知れない。また、犯行時刻にぴったり見合った時間帯のアリバイではなく、これとは少しずれた時間帯のことについて、例えば当日午後一時三〇分にロス市内の交差点のところで乙野は甲野と待ち合わせをしていたのに、甲野が来ないため事情が分からず、一時間半もの時間、約束した路上で待ち続けていたと供述し、それを証拠立てるために、出先から自宅のEに対して、五分遅れて着いたが甲野と会えないなどと電話しておき、事件発生のことを知らなかったことを仮装するというやり方も十分想定可能なことではある。その上で、本当は事件に関与していたのに、事件後も素知らぬ振りをして、被害者の看病をするため病院に詰め、家族の世話をし、警察の事情聴取に対して甲野の代役を努めるという手法も、世間にはよくある手であるといえる。

右のうち、どちらが真実であるかは、結局のところ、乙野を取り巻く他の諸状況と照合し、総合判断して決めるほかはない。ところが、それらの諸状況をみると、別に述べたとおり、乙野については、犯行に加担する動機が薄いという犯行の始まりの部分から、犯行終了後も報酬の授受が一切ないという結末の部分までの一切の事情と、更に本件審理における供述内容その他を総合考慮するとき、同人の言動にはことさらなアリバイ工作を感じ取ることができないとした原判決の判断は十分首肯できる。

所論は、バレーレンタカーのことがEの供述から判明したことは間違いないが、それは乙野が口止めをしていなかったからであるといえるかどうかとの点について、二人はそのように供述しているが本当に口止めしていなかったかどうかは分からない、真実は口止めされていたのに、乙野が逮捕されたため、その疑いを晴らそうとしてEが敢えて述べたのかも知れないという。しかし、乙野の疑いをはらすためにEが敢えてバレーレンタカーの存在を明らかにするというのはいささか理解し難い筋書きであって、この点はやはり、Eと口裏を合わせておくことは十分できたのにそうしてはいなかったと理解してよいであろう。

第一二  乙野バンがレンタカーであった事実の主張について

所論は、原判決が、「乙野が本件バンを犯行に使用したものとすると、同車はレンタカーであったから、もしその車両のナンバーを目撃されたときには、その犯人が乙野であることが直ちに判明してしまう状況にあった。しかし、同人がそのような行動を採るということは、本件の計画性、綿密性に照らし、その不均衡が目立っている。」と判示して、乙野がレンタカーであるバンで犯行現場に臨場したことを疑問とし、乙野の現場臨場性を否定する一つの事情としている点について、これはあまりにも些末なことであり、これが現場臨場性を否定する理由とならないことは明白であるという。

そこで考えるのに、ナンバーを目撃され、そのことから犯行が露見することを心配するのであれば、所論がいうように、おそらく盗難車を使うか、偽造運転免許証を使用して借りたレンタカーを使うか、それとも正規のナンバープレートに偽造のナンバープレートを一時的に装着してカムフラージュするか等の工作をしなければならないであろう。しかし、本件犯行の際に、どのような手段が用いられたか、用いられなかったかは、全く不明である。何らかの偽装がされていてもおかしくはないが、されていなくても、不自然とはいえない。原判決も、この点を大きな疑問点として重視している趣旨ではないであろう。判決中におけるその点の扱い方と文脈からそのように読み取ることができる。むしろ、それ以上に奇妙だと感じられるのは、一一月一七日にバレーレンタカーからバンを借りて本件犯行に使用したとされる乙野が、その後も一二月二九日、翌年一月八日とたて続けに同じバレーレンタカーからバンを借り出して使用している事実があるという点である。このことは、乙野がバレーレンタカーから借り受けたバンを使用して本件銃撃を行った犯人であるとすれば、疑問の大きい行動だとみなければならない。

そうすると、原判決が指摘するような理由で乙野の現場臨場性を否定することにそれほど大きい意味があるとは思えないが、乙野が本件後もバレーレンタカーをそれまでと変わりなく利用している点は、乙野の犯人性に大きな疑問を投げかける点だというべきであり、その意味ではレンタカーの使用状況に問題があるということができ、原判決の判断とは理由は多少異なるけれども、判断の結論は不当でないと認められる。

第一三  殴打事件に関する乙野の言動について

所論は、乙野は、(a)銃撃事件の直後に、Cの両親から殴打事件の犯人である女性に心当たりがないかと尋ねられたのに対して、その女は乙野が知っている実在の女性であるが、こちらからは連絡ができないという意味の嘘をつき、(b)週刊誌上で「疑惑の銃弾」の連載が開始された後、Cの両親が、事情を聞きたいとして大阪に乙野を訪ねてきた際にも、「その女に名刺を渡したのは甲野だった。自分はもうはっきり覚えていないが、ロスで店の写真を撮ってきてくれれば、その店を思い出すかも知れない。」などとでまかせの嘘を告げて、殴打事件は甲野が仕組んだ犯行であることをうやむやにしようとした、これは銃撃事件の共犯者であったためである、(c)殴打事件の凶器であるハンマー様の物を、犯行直後にプレスビテリアン病院の待合室で甲野から示されていたのに、捜査官から尋ねられたときにも、証言時にも、そのことを話そうとしなかった、これも事件との関わりを隠そうとしたもので、同じ理由による、という。

一  チャイナドレスの女のこと

殴打事件の犯人と甲野が述べていた女性のことについて、乙野が所論指摘のような嘘をついて甲野と話を合わせたことは、本件記録中、Kの供述(六三年一〇月一四日付け検察官調書[甲一二三])、Lの供述(原審証言)、Mの供述(原審証言)によって大体明らかであるし、乙野自身争ってもいない。

この女性のことで嘘を述べた理由について、乙野は、原審公判廷で、嘘の始まりは甲野から女性関係で助け船を求められて軽い気持ちで相づちを打ったことにあったと説明している。要するに、Kが甲野に対して「三か月前にもCが頭を殴られて怪我をしたけれどもそのときの女は甲野と男女の関係はないのか。」と追及したときに、甲野から「乙野君、その女はアンティーク屋で会った女だけどそんな関係ないよね。」などと言われて、目で助けを求められたために、「そんなことはないでしょう。」といって口裏を合わせた、また甲野の退院直後に、Mが、甲野に対して、「Cに聞いたんだけど、襲った女はチャイナドレスを作っている女と聞いているけど、甲野さんどうなの。」と詰問し、甲野は「それは銃撃とは関係ないし、あのときの女はチャイナドレスを作っている、乙野君も知っている人だよね。」と答えた際にも同様に言ったと述べて、これが嘘であったことを認めている(乙野の五九年四月二七日付け警察官調書[乙二二]、六〇年九月二〇日付け警察官調書[乙二四])。これによれば、乙野は、甲野と口裏を合わせていた事実を捜査のかなり早い段階から認め、前記大阪空港ではK夫妻に謝罪しており、ただ全面的に嘘であったとまで打ち明け切れなかったけれども、それ以上に積極的に嘘をつく姿勢ではなかったと受け取られる。もとより、その嘘が殴打事件の犯人に関する口裏合わせであることは乙野にも十分分かった筈と思われるが、その時点では、それが保険金目当てに引き起こされたという事情はまだ表面化しておらず、乙野の認識は単なる女性関係のもつれによるトラブルという程度の認識であったとみられるから、このような口裏合わせは、Cの家族が置かれていた立場を察するとはなはだ不誠実であったけれども、世間には時にみられる態様のものとみられる。乙野は口裏合わせを認めつつも、別にそれに該当すると思われる女性が実在したようにも供述しているところ、この女性の実在性については判然とせず、乙野がMの面前で、「あっ、あの女性ですか。」などと言ったのはどうみてもわざとらしいが、そうであったとしても、乙野は、殴打事件に関してかなり踏み込んで甲野が犯人ではないかと捜査官に指摘してもいるのであるから、この点を、所論がいうように、乙野が銃撃事件の共犯者であったために本件の発覚につながりかねない殴打事件の真相を偽ったとみるのは相当ではない。

二  凶器のハンマーのこと

次に、乙野が、ハンマー様の凶器を甲野から見せられていたのに、そのことを供述しなかった点について検討する。乙野にとって、ハンマー様凶器を見てもいないのに、見たなどと言って作り話をする必要性は考えられないし、実際乙野は、殴打事件発生後間のない時期に、妻Eにもそのことを話していたようである。また、その点に関する同人の供述内容は、具体的であって、この供述を信用できないとする理由は見当たらない。ところが乙野は、この事実をもっと早い段階で捜査機関に供述する機会があったのに、供述しなかったのである。すなわち、本件記録によれば、乙野が甲野にハンマー様凶器を見せられたことを捜査官に初めて供述したのは昭和六二年一〇月一三日の警視庁での取調べにおいてであり、同じ日に妻Eも、大阪の自宅で事情聴取をされ、その旨乙野から聞かされたことがあると捜査官に供述したことが窺われる(ただし、乙野は、原審及び当審公判廷では、右警視庁での取調べより前の昭和六二年六月に不死王閣で取調べを受けた際にも話したというが、それは記憶違いであったと同六三年一一月三日付けの検察官調書(乙五九)で供述したことが窺われ、Eもその点を捜査官に初めて供述したのは九月のことであったと供述している。)。ともあれ、両名は、六二年になって初めて、この事実を捜査官に供述したことが明らかである。同人らはそれまで話そうとしなかった理由について、殴打事件の犯人はチャイナドレス云々の中国人女性と報道され、乙野の妻が中国人であったために、世間から乙野が事件に関係しているのではないかという目で見られているように感じられたこと、昭和五九年四月から六〇年九月ころまでの間に何回か警察官の訪問を受け、その都度事件に関する事情説明をしたが、殴打事件の凶器のことを聞かれたことはなかったこと、ところが、その後殴打事件の犯人としてDが浮かび上がり、六〇年九月ころ、乙野は、Dが書いたという凶器の図面も見せられた。その図面は、乙野の記憶とは異なっていたが、しかしDが現れてようやく自分達が犯人と疑われる苦境を脱したのに、ここで凶器を見せられたことがあるとか、凶器の形状についての説明をしたりすると、Dの供述を否定する形になって、またまた話が複雑になることが心配され、凶器を見せられたことは話さないことにしようと妻との間で口裏合わせをしたこと、そのような経過を経た上で六二年に入り、乙野が甲野から凶器を見せられたことを二人とも捜査官に供述したこと等の事情を説明している。乙野が述べるこのような供述経過は、以下の事情に照らすと、同人らの当時の心情をある程度正直に反映していると理解できる。すなわち、当時、マスコミを通じて、乙野が事件に関係しているのではないかとの疑惑報道がされ、乙野としてはかなりの緊張関係にあったこと、Dの描いた凶器と乙野がその後描いた凶器との間には実際にかなりの違いがみられたこと、乙野は、K夫妻に対しては全面的に正直ではなかったが、捜査官に対してはかなり率直な供述をし、六〇年九月の取調時には殴打事件当時の甲野の言動の不自然さを指摘して、「甲野がDという女性にやらせたことは間違いないと思います。」と供述し、本件銃撃事件についても、「やはり甲野の犯行だろう」と供述している事実があり(昭和六〇年九月二〇日付け警察官調書[乙二四]、同月二七日付け検察官調書[乙四五])、虚偽の供述までして殴打事件の解明を阻止しようとしたり、捜査の手が銃撃事件に及ぶのを阻止しようとした態度は見て取れないからである。そうすると、乙野は、殴打事件について、一方で甲野の犯人性を率直に供述しながら、他方で凶器を見せられたことを供述しなかったことに不審を持たれかねないが、乙野にすれば、殴打事件発生当時にはロビーにいてこれに全く関与していないことが明らかで、そのため仮に甲野が疑われることになっても、それが乙野に波及する心配は全くなかったから、甲野の犯人性に関して供述しやすかったのに対して、凶器を見せられて関わり合いを生じるときは、その渦中に巻き込まれることを危惧してそのことに触れたくなくなることは十分考えられる。思いもかけず、このような立場に立たされた者のこのような態度をとらえて、それは犯人だったからではないかとすぐ結びつけて考えるのは、やはり相当とは思えない。全体としてみると、乙野はできるだけ事件との関わり合いを避けたいという気持ちから、余計なことはしゃべらないでおこうとの態度をとっていたと理解するのが相当である。結局、ハンマー様凶器を甲野から見せられたという事実を隠していたことを、そのまま乙野の犯人性を示す証左とする検察官の主張は、採用し難い。

第一四  乙野を銃撃実行者とする殺人の訴因についての総合判断と結論について

所論は、C殺害を仕組んだ首謀者は甲野であり、その共犯者として銃撃を実行したのは乙野以外にないと主張し、その根拠として前述したとおりの情況事実を指摘している。そして、それらの情況事実は、どれを取り上げても、それだけでは犯人を断定し得る証明力を有しないとしても、それらの情況事実を総体として観察し、そうした諸事実が犯人以外の人物に凝縮して存在するという偶然が、はたして現実の社会事象の中であり得るかという視座の下で判断することが求められているのであり、このような見地から本件を見れば、乙野が銃撃実行者であることは証明十分であるのに、原判決は証拠の読み方が不十分であるため間接事実を誤認あるいは看過し、認定された間接事実を複合して現実的に考究する作業を尽くさなかったため結論を誤った、というのである。

そこで、以上の検討結果を取りまとめて総合判断すると、次のとおり判断するのが相当と考えられる。

一 乙野の銃撃行為への関与を疑わせる事実

1  情況事実の中で最も重要と考えられるのは、乙野が借り出した白いバンで銃撃現場へ行ったと認められるかどうかの点である。

まず、乙野が、現場で目撃されたのと同じ車種、塗色の似た白いバンを、本件発生の前日にレンタカー会社から借り出し、本件発生当日に返還している事実は、本件との関連性を疑わせる。甲野が本件犯行の首謀者で、乙野に指示して銃撃を実行させる場合には、両名はおそらく実行前に犯行手順について最終の打ち合わせをしている筈と考えられるところ、事件前日に甲野と会ったことが確認されているのは乙野だけであり、その乙野は、甲野をCCMに訪ねて面会し、別れた直後にレンタカー会社に行って乙野バンを借り出している。借り出しと返還の時期が、丁度本件の発生と符節をあわせていることに加えて、右のバン借り出しの事実とレンタカー会社名を共に忘れていたとして捜査開始後も供述しようとせず、昭和六三年一〇月に逮捕後もしばらくその態度を続けた末に、捜査官からレンタル契約書を突きつけられて初めて供述した経過は、やはり疑いを招いてやむを得ない。乙野は、そのレンタカー会社から、同人のアメリカ在住の終わりの時期に、仕事のために一〇回程度は借り出したことがあったのであるから、仮に本件当日に借り出した事実までは覚えていなかったとしても、このレンタカー会社のことをすっかり忘れ、他のレンタカー会社名だけ覚えていたというのはいかにも不自然と考えられる。

2  借り出したバンの使途について、乙野が、事件前日に甲野からブレストカレンダーの追加注文を受け、その集荷・追加積載目的でバンを借りたが、集荷に行く途中でタイヤがパンクして修理に手間取り、目的を果たせなかったと弁明する点は、OG三W号のカットオフ期限との関係で客観的には追加積載の可能性がなかったこと、仮に主観的にそれができるかどうか分からないがやるだけやってみようと考えて借り出したことが考えられるかというと、途中でタイヤがパンクしたため集荷しないで終わったという理由は現実的には考えにくいこと、当日集荷を中止しながら翌日以降にこれにかわる集荷の連絡をした形跡がないのも、またその後入荷した貨物を急いで発送していないのも共に不自然で、こららの諸点からみて、その可能性はかなり低いとみられる。また、検察官が、乙野バンはいかなる商用にも私用にも使われていないと主張し、そのうち商用に使用されていない点は当時のドンドンの取引関係資料を綿密に検討して立証し、私用にあてられていない点は乙野やその妻の記憶にを頼りに明らかにしている点は、推論が綿密で説得的であり、かなりの程度理由があると考えられる。

ただ、乙野の追加注文分の集荷・追加積載目的でバンを借りたという前記弁明は、同人が身柄を拘束されていて手元に十分な資料がない時期に述べられたものであったが、もしOG三W号の運航が当初の予定どうりであったならば、バンを借り出した日はすでに同船の出航後に当たっていたから、通常ならば、追加積載の余地が全くなかった筈で、その意味で客観的事実と正面から矛盾し成り立たない危険をはらんでいたのに、実際には、当時同船の運航に希にみる大幅な遅れが生じていて、乙野が追加出荷を考えたのではないかというその時期にはまだ出航していなかった事実が明らかであり、そのため乙野が僅かな記憶を基にして述べたところとOG三W号の運航遅れの事態とが奇妙に一致する結果となっているのであり、この点には乙野の前記弁明を全面的に否定しきれないものが残る。また、乙野バンがいかなる商用にも私用にも使われていないという点は、七年も前のことであるから、すべての用途を漏れなく想定してほぼ全面的に否定できるとすることには不安がつきまとう。

また、乙野は、本件当時実名で乙野バンを借り出している。だから、そのバンを本件犯行に使用したとすると、犯行後に同車種のバンを同じバレーレンタカーから繰り返して借り出すことははばかられた筈と思われるのに、同人は同年一二月や翌年一月にも相次いでバンを借り出している事実があり、この点にも自然には納得できないものが残る。

しかし、以上に述べた諸事実の一連の流れからすると、乙野は乙野バンで本件銃撃現場へ行ったのではないかと捜査官が疑うことにも一応の理由があることは事実であり、右は乙野の現場臨場性を示す一つの情況事実として考慮すべきものと考えられる。

3  甲野が本件犯行を計画し、ロスで共犯者に指示して銃撃させるという検察官が主張する本件犯行の構図を前提とすれば、その銃撃実行者となり得るためには、その者が具備しているべきいくつかの適格条件を想定することができるから、共犯者についてそれらの条件具備の状況を検証することは、一つの合理的手法といえる。また、その適格条件として検察官が掲げる内容に積極的に不当とすべき点は見当たらない。しかし、それらの条件を個別にみると、共犯者を絞り込む効果があるのか疑問とおもわれるもの、初めから乙野を対象者として想定しこれに合うように設定されたのではないかと受け取れるもの等があり、そのため検察官が乙野を共犯者としての条件を具備するほとんど唯一の人物であると主張する点には、直ちに同調することはできない。更に、乙野については、検察官が掲げている条件とは別に、乙野の犯人性に疑問を投げかける事実が少なからず認められるから、それらの犯人性にとって消極的な条件を合わせて考慮しなければならない。

二 乙野の銃撃行為への関与に疑問を感じさせる事実

乙野の銃撃行為への関与に疑問を感じさせる事実が少なくないことについては先に述べたとおりである。

1  乙野が乙野バンで現場へ臨場したことに疑いを抱かせる理由の一つは、現場バンにはアンテナが装着されていなかったか、あるいは最初は装着されていたが破損して無装着状態になっていたことが明らかとなっているのに対して、乙野バンにはアンテナがついていた可能性があり、その点で両車は同じでない疑いがかなり強い点である。乙野バンが本件の約七年後に転売先で発見されたとき、同車にはエコノライン用の純正アンテナが、やや湾曲した状態で装着されていた。また、乙野が、乙野バンを借り出したときのレンタル契約書の貸出車両の状態欄には、「GOOD」の記載がされていた。これらの点をどう理解すべきかについて、検察官は証拠の綿密な調査と分析をし、まず、乙野バンのアンテナは本件当時破損し、修理未了状態にあった可能性がある、その後純正のアンテナマストが取り付けられ、それが更に湾曲し、その状態でサシャーのもとで発見されたのかも知れないと主張し、また、レンタル契約書の記載については、バレーレンタカーではカーゴバンの場合だけは、貸出車両の状態欄に「GOOD」の記載があってもそれはアンテナの状態を示していないというアダムスの原審証言等を根拠として、結論として、本件当時の乙野バンにアンテナがついていた可能性の高低に言及できるだけの証拠関係にはない、結局不明であると述べている。しかし、前述した関係証拠によれば、乙野バンにアンテナがついていた可能性を無視することはできない。検察官の分析に沿って考えても、右の可能性を否定できてはいない。そのことについては先に詳しく述べたとおりである。そうすると、現場に停車していたバンは、少なくとも乙野バンと同一車両でなかった可能性が相当程度残ることは認めざるを得ない。

目撃された現場バンの特徴についてみると、乙野バンと現場バンとは、フォード社製カーゴバンという車種は同じで、車体の塗色も白っぽく見える点ではよく似ていたといえる。また、乙野バンは一九八〇年型であるところ、現場バンも同型式の車であった。ただ、同車は、一九七五年にモデルチェンジをし、以後同型式の車となっていて、同年以後に製造された車はすべてが同じ型式の該当車であったことになり、原判決が指摘するとおり、当時のロス市内には多数の該当車が走行していたと認められるから、この程度の車の特徴では車両の同一性を絞り込む効果をあまり期待できず、現場バンは、乙野が借り出した乙野バンと似ているとはいえても、それ以上の類似性となると分からない。

以上によれば、結局両車両の同一性に無視できない疑問が残り、ひいては乙野の現場臨場性に疑問が残るといわざるを得ない。

2  本件当時の乙野は、平穏な家庭生活を営んでおり、これを一挙に失う危険を冒してまで甲野の誘いに応じる状態にあったとは思えない。当時、同人の収入は、甲野との取引に依存してはいたが、そのことを考慮しても、乙野には動機らしい動機が見当たらない。また、保険金殺人への加担を応諾する場合、当然報酬約束がされる筈と考えられるが、甲野と乙野との間でその約束がされた形跡はなく、本件後に支払われた事実もない(乙野側に受け取った事実が認められないだけでなく、甲野側に支出した形跡もない)。昭和五七年八月に、甲野から乙野に対して一八三万円が銀行送金された事実はあるが、この金員は、CBH関係の顧問料であることに疑いはない。そうすると、犯行の動機、報酬のいずれの点にも疑問が残り、本件犯行の形態等に照らすと、これらは乙野の犯行関与に疑問を持たせる事情だと考えなければならない。

3  本件態様の犯行を実行するには、共犯者間で綿密な打ち合わせを遂げておくことが不可欠と思われるが、関係証拠によっても、今回の渡米前に乙野と甲野とが直接会ったのは九月渡米時だけであり、その間に本件の謀議をしたかどうかについては全く証拠がなく、また国際電話等を通じて謀議をした形跡も認められない。検察官は、甲野がロスに到着した当日、すなわち犯行前日に、乙野がCCMに甲野を訪ねて三〇分ないし四〇分程度面会した機会に最終謀議を遂げたと主張するが、疑問点が多過ぎる。すなわち、謀議に当たっては、足の着かないライフル銃の調達やその処分方法、甲野に取り返しのつかないダメージを与えかねない犯行態様に照応して銃撃犯人の腕の確かさを甲野が納得できるよう確かめる必要性、保険金請求をしても疑われず、かつ目撃されない犯行場所の選定、バンを借り出した上これを現場に配置して下見等をする必要性、報酬金額、支払方法等についての合意その他検討事項が多いから、これらすべてを事件前日に、短時間内に終えることができたとは考えられないし、また、謀議する十分な余裕がないのに何故到着翌日に実行することにしたのかも理解できない。また、本件銃撃に使用されたライフルを乙野が所持していた状況が全く窺えないこと、本件銃撃犯人は相当高い銃撃能力を持っていたと認められるが、乙野がそれほどの腕前を有していたとは認められないことも、乙野の関与に疑問を抱かせる。

そして、以上に述べた積極、消極双方の情況事実を照合して検討すると、乙野の銃撃行為への関与を認めるには、疑問が多過ぎると判断される。

三 現実性の評価

検察官は、本件の証拠評価に当たっては、情況事実を総体として観察し、社会事象としての現実性を評価することの必要性を強調している。

1  間接事実が持つ有罪認定にとって積極・消極双方の可能性を正しく識別し、他の関連する間接事実と照合して現実的可能性を見極めることが必要であること、この場合、間接事実の積み重ねは、証拠評価上は、加算というよりはむしろ乗算的に評価されるべきであるという検察官の発想は、一般論としては間違っていないといえる。しかし、検察官がする具体的な証拠評価の過程には疑問とすべき点がある。すなわち、検察官は、情況証拠を評価するに当たって、個々の情況証拠が持つ多方面の証明力の中から、有罪認定に都合の良い可能性を持つ一面を選りだして、これらを重畳的に重ね合わせ、その上で、これだけ多くの事実がすべて集まるのは偶然ではないと主張しているようにみえるのである。そこでは、有罪認定をするのに都合の悪い、いわば消極的可能性を持つ他の一面や、有罪認定とは矛盾する可能性が高い情況証拠をも正当に評価するという視点が十分でないようにみえる。検察官の主張にしたがって仮に情況証拠の積み重ねが積算であると仮定すると、矛盾証拠の評価は減算では済まなくなるであろうが、検察官が行っている証拠評価にはそのような思考が不十分ではないかと感じられるのである。有罪認定にとって都合の悪い証拠をあえて取り上げなかったり、強引な論理で否定したりしている点が目につくのである。

2  このことを、前述した事実に基づいてやや具体的に述べることにする。例えば、謀議の点についてみると、検察官は、乙野が甲野との間でどのように謀議を進めたかについてほとんど触れず、事件前日にCCMで三〇分ないし四〇分位会ったときに最終謀議を遂げたに違いないという。甲野と乙野との仕事上のつながりからすると、甲野の渡米直後に、両名が会って、甲野の滞米中のスケジュール等の打ち合わせをするのはごく普通のことと理解できるから、甲野のロス到着直後に、乙野が甲野をホテルに訪ねて会ったという事実だけからは、それが本件の最終謀議のためであったのか、それともいつもどおりのスケジュール確認のためであったのか、いずれとも分からないことをまず前提としなければならない。その上で、これを関連の間接事実と照合して検討するのに、もし検察官主張のようにこのとき最終謀議をしたのだとすると、甲野は、本件のように犯行内容が手が込み、共犯者間で詳細な打ち合わせを必要とすることが明らかな殺人行為の実行を企図しておきながら、一方で事前に協議を遂げないまま、他方で被害者となるCに取りあえず保険だけかけて、見切り発車的に、同女を連れて日本を出発したということにならざるを得ないが、これはかなり不自然なことではないか。また、検察官が述べるように、犯行現場の下見をする必要が特に甲野にとって強かったとすると、何故ロス到着当日に短時間の最終謀議を予定しただけで、下見その他に時間的余裕を取りにくい翌日を犯行実行日に選定したと考えられるのかについて、納得できる説明が必要であるのに、その説明はされていない。また、このときの最終謀議の結果、翌日に実行することに話がまとまったという以上は、犯行加担への報酬額、支払条件についても両者の協議が整っていた筈とみられるが、この種の報酬については、かなりまとまった金額を前金として支払うのでなければ乙野としては到底応じられない性質の話であろうと思われるから、口約束だけで協議が整ったなどと考えるのはどうみても無理と判断せざるをえない。したがって、もし前金の授受が全くないとすると、そのことは単に報酬支払い約束がなかったことを示しているだけではなく、つまりは犯行への協力依頼そのものがあったかどうか極めて怪しいことを意味しているのではないかと思われるのである。これに対して、検察官は、甲野は支払いを約束したが、犯行後に踏み倒したと考えれば説明はつく、という。しかし、他人に殺人の実行行為を行わせておきながら、約束したこの種の報酬を、犯行後事件が表面化するまでの二年以上にもわたって支払わず、結局踏み倒し、しかも実行犯人が文句も言わずにこれを受け入れているというような事態は、それこそ検察官のいう現実的な問題として、どれほど可能性のあることと考えられるだろうか。また、CCMでの乙野と甲野との面会を犯行についての最終謀議と位置づけるためには、ここに指摘したような諸々の関連事実と照合して無理のない説明が可能でなければならないし、逆にそこに無理が生じるというのであれば、それはCCMでの面会を最終謀議と位置づけることに無理があるからではないかと考え直さなければならないのではないか。先に、有罪認定に不都合な情況証拠を強引な論理で無理に排除してはいけないと述べたのは、以上のような点を指している。

3  同様のことは、レンタカー借り出しの関係についてもいえる。検察官は乙野バンのアンテナ装着の状況を明らかにするため、乙野バンを転売先をたどって発見し、同車のレンタル契約書綴り等を点検し、いわゆる第二世代及び第三世代の車両のアンテナの折損と補修状態をそのレンタル契約書の記載から調べあげ、その結果を第一世代、つまり本件当時の車両に当てはめるという手法で、非常に綿密な検討と推論を試みた。しかし、その結果得た結論は、乙野バンにアンテナがついていたかついていなかったかいずれとも断定し難く、その可能性の大小についても論じ得ず、乙野の犯人性を判断する上では無意味な証拠でしかないというのである。しかし、この点に関する検察官の立証結果によっても、乙野バンにアンテナがついていた可能性もあるし、破損したまま修理未了でついていなかった可能性もあるとするのがせいぜいである。いずれとも断定できないからすべて無視すべきだとするような証拠関係にはないことは明らかで、むしろ、どちらかといえば、前述したとおり、乙野バンにはアンテナがついていた可能性の方が高いとさえ考えられるのであるから、現場バンと乙野バンとは別車両であった疑いがあることはやはり覆い難い。無意味な証拠であると簡単にいって無視してよい事柄とは思えないのである。

このようにみてくると、原判決の判断には、多少の説明不足や争点への踏み込み不足はあるとしても、その総合判断の手法に誤りはないと認められる。

そして、検察官の詳細、綿密な控訴趣意にかんがみ、以上に述べた点のほか、控訴趣意中に現れているその他の主張をも視野に入れて、記録を精査検討したが、原判決が、銃撃実行者を乙野と認めるにはなお合理的な疑いが残ると判断したことに誤りがあるとはいえず、この点に関する検察官の論旨は理由がないとするほかはない。

第三部  甲野の弁護人の控訴趣意中、訴因問題(同控訴趣意第二及び第四)の主張について

次に、原判決が、甲野と氏名不詳者との共謀による銃撃の事実を認定した点の当否について検討する。まず、右の認定をした手続きに関する甲野の弁護人の控訴趣意は、第一部第一の三の2に摘記したとおりであるが、これに対する当裁判所の判断結果は、次のとおりである。

第一 手続経過

起訴状(昭和六三年一一月一〇日付け)に記載の訴因の要旨は、「甲野と乙野は、共謀の上、保険金を取得する目的で、甲野の妻Cを殺害しようと企て」、銃撃事件を実行した、というものである。検察官は、原審第一回公判期日において、その具体的内容について釈明し、次のとおり明らかにした。すなわち、

「(a)殺人の共謀をしたのは被告人両名に限られる、(b)被告人両名は、事前にも共謀し、現場においても共謀した、(c)事前共謀として、被告人両名は、昭和五六年一一月一八日午前一一時ころまでに、複数回にわたり、ロスアンジェルス市内などにおいて、同日、同市フリーモント通り二〇〇ブロック所在の路上で、乙野において、Cをライフル銃で射殺し、その場で、これを強盗による犯行であるかのように装うべく甲野の大腿部をも狙撃することなどにつき、謀議した、(d)甲野は、乙野と共謀して、本件犯行現場にCを連れ出し、同所で乙野をしてCを狙撃させたもので、事前及び現場において共謀し、かつ、現場において実行行為を共同して行った共同正犯者である、(e)銃弾を発射したのは乙野である。」というのである。

その後、検察官は、冒頭陳述において、訴因の内容を具体的な事実によって更に詳細に示した。それによると、甲野が共謀した相手方は乙野ただ一人とされ、また両名の謀議状況につき、甲野は、①昭和五六年九月一三日ころ渡米し、約一週間滞在して同月一九日に帰国した間に乙野と接触し、②その後、同年一〇月五日、フルハムロードの従業員谷村をロスに派遣した際、茶封筒一通を同人に託して乙野に渡し、③同年一〇月一三日以降、日本国内からロスの乙野方に頻繁に国際電話をかけて連絡をとり、④その上で、事件前日の一一月一七日午後、甲野が投宿していたCCMを乙野が訪れた際に最終謀議をして、犯行現場の確定、乙野がバンを借り受け、事件当日現場の駐車場へ先着していること、甲野がCを下車させ、見通しが困難なバンの陰に立った際、乙野がライフルでCの頭部を狙撃して殺害し、その後甲野の大腿部も撃つこと、Cの所持金品を現場に散乱させることなどについて確認しあった、と述べた。

このような検察官の主張と立証の枠組みは、論告に至るまで変更されていない。もとよりその間に、裁判所が、検察官に対して共謀の相手方ないし実行犯人に関して釈明を求めたり、訴因変更の示唆等をしたことも一切なかった。こうして、原審での審理は、この検察官の主張と立証の枠組みを前提として進められた。

ところが、原審裁判所は、判決中で、乙野が銃撃等の行為をしたと認定することには大きな疑問があるとの判断を示して、右訴因につき同人を無罪とする一方で、甲野については、「氏名不詳者と共謀して本件殺人の犯行を行った」事実が認定できるとして、同人を有罪とした。以上が、訴因問題に関連する原審手続の経過である。

第二 当裁判所の判断

一 本件共謀の性質について、検察官は、前記釈明(d)の中で、「事前及び現場において共謀し、かつ、現場において実行行為を共同して行った共同正犯者である。」と述べている。これによると、この時点では、共謀共同正犯だけの主張をしていたとは受け取れないが(もっとも、その後論告等の中で、検察官は、共謀共同正犯であることを前提にしていると受け取られる論旨を展開しており、また、当審答弁書中では、共謀共同正犯であることを明確な形で打ち出し、それを前提として陳述している。答弁書一五頁)、原判決は、判文中で、本件は共謀共同正犯であると明確に判示している(原判決五六丁)。ところで、本件において、甲野は、犯行現場へCを伴って行き、現場でCと共にレンタカーから下車して写真を撮りつつ付近を歩きまわり、手を振ったり、屈んだりする行為をしたとされていて、そのことは証拠上明らかであるところ、これらの行為は、例えば銃撃犯人に銃撃の機会を与え、その合図を送るというような、本件犯行に関連して何らかの意味を持つ行為であったのではないかと疑われている。もし、甲野が、共謀の相手方と示し合わせた上でこのような行為をしていたとすれば、結局甲野も犯行現場で実行行為の一部を分担した共犯者と評価できるから、その意味では、本件は、典型的な共謀共同正犯、つまり単に共謀に関与しただけの者が、共謀の相手方が行った行為について共謀それ自体を理由として責任を問われる場合とは異なっていることになる。しかし、甲野が、右のとおり、Cを伴って現場へ行ったり、現場で下車して手を振ったり、屈んだりしたという行為は、はたして犯行に関係のある行為だったのか、それともこれとは全く無関係な、いわば単なる旅行者の行為に過ぎなかったのか。その点は、右行為の外形だけからはいずれとも判定できない。殺意など全くない状態で、妻を伴ってこのような場所に行き、付近を歩いてお互いに写真を撮りあい、その際に撮影合図として手を振るといったことは誰にでもごく普通にあり得ることであるし、また、もしその際、真実大腿部に銃撃被害を受けたのであれば、そのために屈んだりしてもおかしくはないといえるから、結局右の行為は、行為自体の中に犯行への関与を読み取ることのできる性質の行為といえないことは間違いない。この場合、行為の意味や、甲野と犯行との結びつきを明らかにするのは、結局共謀の有無の点である。共謀が認定できない限り、現場での甲野のこのような行為の意味を判別することは不可能で、結局同人の犯行への加担を認定することは難しい関係にある。このように、本件では、甲野の犯人性立証にとって共謀が決定的な重要さを持っており、原審での当事者の訴訟活動はそのことを当然の前提として進められた経過が明瞭であるから、本件は、その意味で、典型的な共謀共同正犯の場合と実質的にさして変わりはないということができ、本件を共謀共同正犯と判示した原判決の判断は、大きく間違ってはいないといえる。

二 本件において、甲野の有罪認定が、実質的に乙野との間の「謀議」内容にかかっていることは右に述べたとおりである。検察官はその謀議の具体的内容を、釈明や冒頭陳述を通じて前述のとおり明らかにした。共謀に関する部分の要点は前記①ないし④のとおりであるが、その中で、謀議の相手方は乙野だけであることが明らかにされている。これによって、検察官側の立証構造が具体的な形で明確になり、被告人側の防御対象もはっきりしたといえる。

ところで、検察官が謀議の内容として主張したところとその後の立証内容との間にずれが生じた場合、被告人側はいずれを対象として防御すべきものか。例えば、等しく謀議といっても、多数の者が多数回謀議する機会を持ち、各回ごとに顔ぶれを替えながら全体として共謀を仕上げていったというような場合には、そうした多数回の中の一部について謀議への関与が認められなくなっても、全体としての謀議に関与したとされる基本構造に変わりはないといえる場合があり得よう。また、本件のように二人だけで謀議したとされる場合にも、乙野と共謀したことに基本的に変更がないのであれば、前記①ないし④に相当する具体的事実経過の内容に部分的な変動が生じることがあっても、それだけで謀議の内容が別物になるとは考えなくてもよいであろう。しかし、共謀が乙野との間で、二人だけでされたと主張されているときに、その相手方である乙野の関与がそもそも否定されてしまうという場合には、これと同様に考えることはできない。共謀の相手方の変更は、共謀の日時、場所、方法などといった共謀を外部から特定するだけの事実の変更とは異なり、その者の行為を介して実行行為を行ったと主張されている意味で、実行行為の内容そのものに直結した主張内容の変更であり、それは、防御対象の骨格を大幅に変えてしまう。加えて、共謀の相手方の変更は、多くの場合に、共謀の内容とされてきた具体的事実経過についても、大幅な変更をもたらさずにはおかない。すなわち、共謀の相手方を乙野とする当初の訴因は、その基礎にあるところの、甲野が乙野と、いつ、どこで会ったり、電話をしたりして、犯行についてどのような連絡を取り合ったかという具体的事実と結びついてその上に構成されている筈であるから、その場合に、訴因上共謀者を変更するということは、基礎にあるこのような具体的事実をこれまでとは違う新たな事実と組み替えざるを得ないことを意味している。そうした場合には、等しく共謀といっても、その具体的内容はかなり異なったものにならざるを得ない。二人だけの間で共謀がされたと主張されている場合にその共謀の相手方を差し替えることは、事件についての基本的な主張と立証の枠組みを大きく変更させ、防御への影響が極めて大きいと考えられるのである。

三 このことは、本件に即して具体的に考えれば、一層明白になる。例えば、甲野にとって、訴因が「乙野との共謀」である場合の防御方法としては、乙野と直接会ったり、同人と電話で話したりして連絡することが一切なかったことを立証するか、そうした連絡等をした事実があるときは、その連絡の内容が本件に関する謀議でなかったことを中心として立証することになるであろう。これを前記①ないし④の事実に当てはめてみると、甲野が渡米してロスで乙野と直接会ったことがあるのであれば、会ったのはどのような場所で、どの程度の時間であったか、その際の用件は何であったか、同席者はいなかったか等の、主として乙野と一緒だった時間帯の出来事を中心にして防御することになるであろうし、また国際電話での連絡云々ということに関していえば、甲野から乙野への架電が、例えば甲野にとって人目の多い事務所以外の、いわば人目につき難い場所からされているか、電話連絡がどの程度頻繁にあるいは長時間、どの時期にどの程度集中してされているか、その時期には他に商用等で頻繁な電話連絡を必要とする事情はなかったのか、といったことを中心として防御することになるのであろう。検察官は、本件前日の一一月一七日午後、CCMで甲野は乙野と三〇分ないし四〇分程度会って最終謀議をしたと主張しているから、そのときのことについていえば、弁護人としては、甲野が乙野と会っていた時間、話した内容、その前後の両名の行動等を明らかにして防御することが必要になるであろう。ところが、訴因が「氏名不詳者との共謀」に変更された場合には、事態は一挙に逆転する。すなわち、甲野が乙野と会ったり、電話連絡をしたりしていた時間帯は、むしろ「氏名不詳者との共謀」をしていなかったことが明らかで、甲野にとっては防御する必要性が薄い、それだけ安全な時間帯であるということになるから、むしろそれ以外の、乙野と一緒でなかった時間帯の行動を中心として防御しなければならないことになる。乙野がCCMから帰った後で乙野以外の者と会っていないかが問題とされるようになり、乙野にかけた国際電話は問題でなくなり、代わって乙野以外の者に国際電話をかけていないかが問題とされる。また、谷村に託して乙野に渡したとされる茶封筒は、全く問題でなくなる。こうして、防御を要する範囲や事項、防御の内容はまさに一変するから、被告人や弁護人の立場からすれば、これが防御上の大きな不利益でなくて何であるかということになるのは当然である。

このようにみてくると、訴因を「乙野との共謀」とするか、「氏名不詳者との共謀」とするかは、少なくとも本件のような事案では、防御の対象と重点を一変させるのであって、そのことを考えれば、共謀の相手方が誰であるかは、被告人側の防御にとって、抽象的にも具体的にも、極めて重要であり、まさに防御上の不利益に直結した事実と考えるべきである。したがって、原審裁判所において、「乙野との共謀」を訴因として審理を進める中で、もし「氏名不詳者との共謀」の事実を認定するのが適当だと判断するに至ったときは、まず検察官に訴因を変更させ、その点を手続上明確な争点とし、両当事者に攻撃、防御を尽くす機会を与えた上で、その点に関する事実の認定をする手順を踏むべきものであったと考えられる。原審が、訴因変更の手続をとることなく、検察官が争点としてはっきり主張していなかった「氏名不詳者との共謀」を突然認定した手続は、違法と考えねばならない。

四 原判決は、訴因変更を要しないと判断した理由として、「いずれの事実においても、甲野はC殺害の共同正犯とされているのであり、更に、本件訴訟の経過に鑑みると、このように認定しても甲野に実質的な不利益を与えたり、その防御権を侵害したりするものでないことは明らかである。」と述べている。

しかし、共謀の相手方が、被告人側の防御にとって極めて重要な事実に当たっていること、また本件の場合、その点の変更は、立証の骨格を大幅に変更させ、防御に大きな影響を及ぼしかねない事項であったこと等については、すでに詳しく述べたとおりである。したがって、この点に関する原判決の判断は到底維持することができない。

五 次に、検察官は、訴因変更の要否に関する原判決の判断を支持する立場から、その理由として、次のとおり述べている(検察官作成の答弁書一三頁ないし四一頁)。

すなわち、検察官が訴因として提示する事実の中には、(a)処罰を求めようとする訴追対象事実と、その日時、場所、方法などの、処罰を求める事実を特定するための周辺事実とがあり、訴追対象事実に変化があるときは、縮小認定でない以上訴因変更が必要だが、周辺事実の変化である場合には原則として訴因変更は不要で、被告人の防御権を侵害するときにだけ必要となる、そして、(b)共謀共同正犯の場合、実行行為者と共謀したとの事実が訴追対象事実であって、その実行行為者が誰であるかは訴追対象事実ではないと考えるべきである、そうすると、共謀の相手方が「乙野」であったか「氏名不詳者」であったかは周辺事実についての変化に過ぎないことになる、(c)そこで、右の変化が被告人の防御権を侵害するかどうかをみると、本件での防御の要点は、Cを銃撃した人物が乙野であったか氏名不詳者であったかの点にはない、それは例えば、甲野が乙野に「今だ、刺せ」と言って刺殺行為を指示したことが目撃証言によって認められる事例の場合に、防御の要点は、一般に、甲野がした刺殺行為の指示の点にあって、実行者が乙野であったかどうかという点にはないのと同じであるといい、これを本件に当てはめて、検察官は、訴因では「白色のバンに乗っていた人物がCを狙撃した、その人物は乙野だった」と主張したが、原審審理の結果、その人物は乙野だったという後半の部分が認められないとされ、白色のバンに乗っていた人物が狙撃したという前半の部分が残っただけのことである、だから甲野の防御権を侵害したことにはならない、というのである。

しかし、検察官のこの意見には多くの点で同調できない。まず、検察官のように、共謀共同正犯の場合、実行行為者が誰であるかは常に訴追対象事実ではなく周辺事実であるとして、これを本件にこのような形で当てはめてよいかは大問題である。本件は、実行行為者が誰であるかが実質的には特定はされていて、ただその名前その他のネーミングに関する事項だけが不詳であるというような事案ではない。銃撃行為があったのだから、その犯人が白いバンの中かその陰にいた筈であるとされていて、そこに共犯者の影があるといわれればそうかと思うだけで、それ以上には共犯者像が判然としていない事案である。そのような事案の場合、検察官がいうところの訴追対象事実である「実行行為者と共謀した」事実とは、つまるところ銃撃行為には犯人がいた筈だから、甲野は「その犯人と共謀した」といっているに過ぎなくなってしまう。

また、検察官が提示する前記の設例は、本件にとって適切であるとは思えない。すなわち、その設例では、甲野が乙野に対して「今だ、刺せ」と言って実行行為の指示をし、その直後に、指示に従って乙野が刺したことが、証拠上明らかな場合とされている。つまり、この設例では、甲野と乙野は、甲野が乙野に指示する共謀関係にあったこと、指示した内容は「刺せ」というもので、その内容自体からして実行行為の指示以外に理解できない明確な内容であったこと、その指示に従って乙野が実行したこと、したがってその現場に甲野がいたのは加害者としてであって、被害者としていたわけではないこと等の各事実が、いずれも目撃者等がいて証拠上明らかな場合であることがはじめから前提とされている。これに対して、本件では、右の例において甲野が乙野に「今だ、刺せ」と言って指示したとされている部分に相当する甲野の行為、換言すれば共謀を示す行為が、検察官の冒頭陳述によっても、ほとんど明らかにされていない事例である。甲野が現場へCを伴って行き、Cと車から降り、写真を撮るためオフセット駐車場内の駐車車両の間に立たせたことがそのとおりであったとしても(検察官作成の答弁書二一頁)、それは、「今だ、刺せ」というような行為とは違って、それだけで加害行為の趣旨を明らかにする性質の行為ではない。それが本当に犯人の銃撃に手を貸すための行為であったのか、銃撃とは全く無関係な行為であったのか、甲野がその現場にいたのは、加害者としてなのかあるいは被害者としてなのか、それだけではいずれとも判定できない状況にあるのである。もとより、Cと甲野を共に銃撃した犯人がいたことは明らかであるが、その銃撃行為を甲野が指示して行わせたのかそうではないのかを識別できる事実は全く指摘されていないのである。だから、弁護人らが、これらの点を明らかにするために、共謀の有無、内容に焦点を当て、共謀との関連で甲野の行為の意味を明確にしていくほかないとの防御上の判断をすることには十分な理由があると考えなければならない。検察官が提示する前記の設例は本件にとっては適切でなく、これを念頭において本件に当てはめれば、判断を誤るおそれがあると思われる。

また、検察官は、乙野を共犯者とする当初の訴因は、その内容を分解すれば、白色のバンに乗っていた人物が銃撃犯人であり、甲野はこの人物と共謀したという部分と、その人物は乙野だったという部分の二段構えになっており、原判決はそのうちの前半部分だけを認定したに過ぎないことになるから、甲野の防御権を侵害したことにはならない、という。しかし、これも理由のある主張とは思えない。すなわち、検察官が乙野との共謀を主張している場合には、被告人側としては、当面それを前提とすべきであって、「乙野との共謀」に焦点を当てて防御活動を行うことは当然と思われる。あらかじめ検察官のこの主張が立証不十分と判断されることを予想したり、その場合には白色のバンに乗っていた男との共謀が認定されるのではないかなどと予想したりして、これに対する防御を先回りして行うことまで考えねばならないものではない。そうであるのに、いきなり判決において、乙野以外の人物との共謀を認定するのは、どうみても防御権の侵害に当たると考えるのが相当である。防御の関心を「乙野との共謀」に引きつけておき、その隙をついて、それまで関心が向けられていなかった「氏名不詳者との共謀」を認定するような手法が、訴因制度の精神に反することは明白というべきである(なお、検察官は、「氏名不詳者との共謀」を想定しても、弁護人側が反証を行う場合、実際には銃撃状況に関連して行うほかなく、その点の反証はすでに「乙野との共謀」を前提とした審理の中で行われているから、具体的に防御権の侵害はないという。しかし、検察官の主張が銃撃状況を中心に行われたからといって、弁護人側からの反証がその枠内にとどまらなければならない理由はなく、弁護人側が「乙野以外の人物」との共謀が実際に可能であるのか否か等々に関して反証を展開することは十分あり得ることと考えられる。そのことは前述したとおりであり、そうすると検察官の前記主張は理由がない。)。

更に、共謀の相手方が誰であるかを、訴追対象事実でなく、実行行為の日時、場所などと同様に周辺事実に過ぎないとする検察官の意見は、次の点からみても疑問だと考えられる。すなわち、原判決は、「氏名不詳者との共謀」を認め、甲野を殺人につき有罪としたのであるから、これを先に述べた検察官の意見に当てはめると、検察官の甲野に対する訴追対象事実はそっくり原審判決で認められ、ただ共謀の相手方という周辺事実についてだけ、これを乙野とする検察官の主張が容れられなかったということになる筈である。訴追対象事実がすべて認められている以上、検察官にとって控訴理由はなかった筈ではないかと考えられるが、実際には、検察官は乙野に対してだけでなく、甲野に対しても、右の認定を争って控訴している。このことは実質的には何を意味していると考えられるか。それは、検察官の意識の中にも、乙野の犯人性立証が、甲野の犯人性立証の関係でも重要な意味を持っていること、特に本件のようにもっぱら情況証拠を集め、これらをつき合わせて全体像を推認してゆくほかない事件の場合には、乙野について共犯性、実行行為性が認められるか否かが甲野に対する立証面に及ぼす影響が大きく、極めて重要であるとの判断があったためではないか。そのことは、実質的には、訴追対象事実が「乙野との共謀による殺人」であったことを示しているのではないかと考えられる。そうすると、共謀の相手方が誰であるかという事実がこのような重要性を持っているときに、これを訴因の記載との関係では単なる周辺事実であるとして、その事実の変更には原則として訴因変更の手続を要しないとする意見には同調できるものではない。

六 以上述べたところによれば、原審裁判所が、訴因変更手続をしないで原判示のとおり「氏名不詳者との共謀」の事実を認定したことは違法というべきである。ところで、この手続的違法の性質について、所論は、第一次的には、審判の請求を受けない事件について判決した場合(刑訴法三七八条三号)に当たるとし、そうでないとしても、判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反(同法三七九条)に当たるという。しかし、変更前後の両訴因とも、同じ日時、場所でおこった同一被害者に対するライフル銃による銃撃事件である点で変わりはなく、基本的に同一事件と考えられるから、審判の請求を受けない事件について判決をした場合に当たるとはいえないと考えるのが相当である。論旨のうち、右の部分は理由がない。

しかし、刑訴法三七九条の訴訟手続の法令違反に当たることは明らかで、それが判決に影響することも明白である。そして、原判決は、甲野について、原判示罪となるべき事実第一の罪とその余の原判示の各罪とを平成七年法律第九一号による改正前の刑法四五条前段の併合罪の関係にあるものとし、一個の刑を言い渡しているので、甲野の弁護人のその余の主張について判断するまでもなく、原判決中甲野に関する部分は、その全部について破棄を免れない。そして、その場合、先に述べたとおりの理由によって、この段階で当審において自判するのが相当であると判断される。

第四部  甲野に関する自判(その一。主として、銃撃事件の銃撃実行者を氏名不詳者とする殺人の予備的訴因について)

第一  主位的訴因について

銃撃実行者を乙野とし、その乙野と甲野とが共謀して本件殺人を実行したとする主位的訴因については証拠が不十分であり、犯罪の証明がないと判断するほかないことについては、すでに第二部で詳述したとおりである。ここには繰り返さない。

第二  予備的訴因の追加請求とその内容

以上の経過をうけて、検察官は、当審において、昭和六三年一一月一〇日付け追起訴状記載の殺人の事実について、銃撃実行者を氏名不詳者とする予備的訴因の追加を請求し、当裁判所は、所定の手続を経てこれを許可した。そこで、次に、本件の銃撃実行者を氏名不詳者とする検察官主張の訴因について検討しなければならない。

一  予備的訴因の要旨

予備的訴因の要旨は、次のとおりである。

「甲野は、外一名と共謀の上、生命保険金取得目的で、昭和五六年一一月一八日、ロスアンジェルス市内で、白いバンで臨場した右一名において、Cの頭部に二二口径のライフル銃で銃弾を発射して命中させ、同五七年一一月三〇日、右銃弾による脳挫傷により、死亡させて殺害した。」

二  予備的訴因の追加を相当と判断した理由

1 争点化の必要

本件の捜査は、甲野の犯人性立証を出発点として開始され、そこから捜査範囲を順次拡大して、甲野の依頼で銃撃行為を引き受けた共犯者を乙野であると特定・判断するに至った経過であった。そのことは、原審公判での検察官の立証構造からも読み取ることができる。ところが、原審審理の結果では、捜査を拡大して共犯者を乙野と判断した部分が証拠不十分とされ、捜査の元々の出発点であった甲野の犯人性の部分だけが、その共犯者を乙野の代わりに氏名不詳者と置き換えて、有罪と認定された。しかし、この有罪認定は、共犯者を乙野であるとする当初の訴因を変更することなく行われたために、そのままでは手続上認定できない事実を認定した違法を抱え込むことになった。当審で自判するに当たって、もし原判決が認定しているとおりの有罪認定をするに足りるだけの十分な証拠が実質的にそろっているのに、訴因上の制約という手続的な理由でその点の判断ができないというのでは、ことが殺人という重大な犯罪に関することであるだけに、問題である。やはり、あらかじめ訴因について再検討し、もし検察官において「乙野との共謀」のほかに「氏名不詳者との共謀」をも主張するのであれば、せめてその旨を手続上明確に打ち出し、被告人側においてもこれを明確な対象と意識して防御活動を尽くし、その上で実体判断をして決着をつけるのが相当ではないかと考えられる。当裁判所が控訴審の審理中、検察官に対して訴因に関する釈明を求めたのは、そのような考えからであった。

2 両当事者の意見

これに対しては、当事者双方から異論が述べられた。

まず、検察官は、当初は、訴因変更をしなくても裁判所は「氏名不詳者との共謀」の事実を認定することが可能であるとの考え方を強調し、本件について、実質的には「氏名不詳者との共謀」との主張をすることは原審当時と変わりはないが、そのことをあえて訴因変更という手続を通じて明確にするまでの必要はないというのである。検察官からすれば、甲野について、予備的訴因とはいいながら「氏名不詳者との共謀」を掲げることは、いわば乙野について予備的無罪の訴因を掲げるのにも似て、受け入れ難いことであるに違いない。しかし、そうはいっても、「乙野との共謀」という訴因を掲げながら、隙をついて「氏名不詳者との共謀」を認定することが訴因制度上適当でないことは前述したとおりであるから、もし当審でも予備的訴因を追加しないまま最終判断の時を迎えたとすると、当審においても真実実体判断を必要とする部分について判断できないまま審理を終わる結果になりかねない。原審裁判所での「氏名不詳者との共謀」という訴因変更手続を経ていない事実について実体判断をしたことを不当とする主張が甲野の弁護人の控訴趣意中でされ、その点が問題として取り上げられている当審において、同じ扱いを繰り返すようなことは適当でない。検察官において「氏名不詳者との共謀」の主張をするのであれば、これが認められるかどうかの帰趨はどうであれ、そのことを訴因として明示し、その点に曖昧さを残さないのがより適当と考えられる。結局、検察官はその趣旨を理解し、当審第一四回公判期日において、予備的訴因を追加するという形で疑問の解消を図ったが、適切な対応であったと考えられる。

甲野の弁護人は、このような訴因の変更を、特に控訴審の審理が最終段階を迎えた時期に行うことは許されないと主張した。その理由はおおよそ次の三点にあると解される。

(a) 予備的訴因にいう「外一名」については、氏名が特定されていないだけでなく、住所、年齢、性別、職業、国籍、容貌、身長、体重その他およそ人を特定するために通常用いられる要素が何一つ明らかではないから、訴因として不特定である、

(b) 予備的訴因にいう共謀について、冒頭陳述がされていない点で形式的に刑事訴訟法二九六条の規定に違反しているだけでなく、実質的にも共謀の内容が明らかでなく、被告人・弁護人側の防御権を侵害する、

(c) 検察官は、原審はもとより控訴審の審理冒頭においても、「乙野以外の者との共謀」の訴因を予備的に追加する意向はないと明言していたのに、控訴審での証拠調べがほぼ終了した段階になって、予備的訴因を追加することは、被告人・弁護人側に著しい不利益を課すものである、というのである。

そこで検討するのに、予備的訴因にいう「外一名」の共犯者の氏名等が明らかでないことはそのとおりであるとしても、本件においては被害者名のほか、犯行の日時、場所、手段・方法等は明らかになっていて、訴因が全体として特定に欠けているとまではいえないから、(a)の主張は理由がない。もっとも、共謀の相手方を氏名不詳の「外一名」とするほかないことに伴う当然の結果として、その者との共謀内容は明確とはいい難い。しかし、その氏名不詳の共謀者とは、本件では、結局のところ、原審で検察官が乙野の果たした役割として主張してきたところを前提として、その役割を果たした者を乙野から氏名不詳者に変更しただけのことであって、その者が本件犯行へ関与した内容、態様、程度等の主張には何らの変更も生じていない。また、追加請求をした訴因については、検察官が冒頭陳述をしておらず、冒頭陳述という機会に共謀の内容が明らかになる手続経過がなかったことは弁護人ら主張のとおりであるが、冒頭陳述は証拠調べの初めに行うべきこととされているだけで、審理の途中で訴因が変更されたとき、常に行わなければならないものではない。そして、本件の審理経過に鑑みれば、そのことが実質的に被告人・弁護人側の防御権・弁護権を侵害しているとはいえないから、(b)の主張も理由がない。最後に、この訴因変更は、従来弁護人側において、「氏名不詳者との共謀」について有罪認定をするためには、その前提として訴因を変更し、検察官の主張内容を明示することが必要であると主張してきた手続であって、その変更手続は、それ自体としては被告人側に格別の不利益を及ぼすものではない。弁護人らがいう趣旨は、おそらく審理が進んだこの時期に変更するのは手遅れではないかという点にあると思われる。しかし、訴因変更の要否に関する判断は、被告人側の立証状況を考慮に入れつつなされることもあり得るのであって、その場合には審理の冒頭に近い段階よりも、むしろ終盤で、更には控訴審での審理を踏まえてなされることも、望ましいことではないけれども、ないとはいえない。そして、そのような訴因変更も、審理経過からみて真に必要があり、かつ、特に不当とすべき事情がなく、被告人側の防御に実質的な不利益を生じるおそれがないと認められる限り、許されないことではないと考えられる。これを本件の審理経過に照らしてみると、この予備的訴因の追加は、先になされた証拠調べの結果を訴因の内容に反映させようとする趣旨のものであって、控訴審段階になってからそれまでの審理結果と関連の薄い主張を新たに行い、防御の対象を不安定にするといった性質のものではないし、また、被告人側において特に必要があるときは、防御のため補充立証の申し出をすることによって十分対応できる範囲内にあると認められるところ、その趣旨の補充立証が行われている経過もあり、これらの諸点を総合考慮すると、本件予備的訴因の追加が被告側の防御権を侵害するとは思えない。したがって、(c)の主張も理由がない。

三  予備的訴因における実質的争点

予備的訴因の内容は、要するに、当初主張した訴因のうち、銃撃実行者を当初の訴因では乙野としていたのに代えて、氏名不詳の「外一名」とした上で、その者は白いバンで犯行現場に臨場した人物であって、甲野のいうグリーンの車に乗った二人連れではないというのである。そこで、この訴因については、銃撃実行者はその白いバンの男であると認められるか(グリーンの車に乗ってきた男達である疑いはないといえるか。)、かつ氏名不詳のその人物と甲野との間に共謀成立の事実を認めることができるかの点にあり、この二つの要証事実を念頭において情況証拠を検討すべきことになる。

検察官が、甲野の犯人性として主張する主な情況事実は、次のとおりである。

(a) C殺害の動機・目的が存在したこと、

(b) C殺害の共犯者を物色し、犯行への加担を打診・説得したと受け取られる行動が認められること、

(c) Dと共謀して殴打事件を敢行して失敗に終わった事実があり、そこに本件類似の犯行意図が現れていること、

(d) 本件犯行現場にCを連れて自ら臨場し、自動車から降りて写真を撮りながら、Cを駐車場内の目撃されにくい位置に立たせたり、手を挙げて銃撃の合図を送る等の関与行為をしたこと、

(e) 本件銃撃の状況・態様の中に甲野が弁解するような強盗による銃撃ではなく同人が仕組んだ保険金殺人を窺わせる事情が存すること、

(f) 現場に白いバンが駐車し、これが銃撃に利用されたことは明らかであるのに、そのことを隠して、グリーンの車に乗った者達に銃撃されたかのように虚偽の供述をしていること等の諸点である。

第三  銃撃実行者が未解明である事実

一  まず、予備的訴因の検討に当たって、最初に指摘しなければならないことは、本件では、甲野に協力して銃撃を実行したとされる犯人が、関係証拠上未解明であるだけでなく、共犯者として嫌疑濃厚と目される程度の人物も、捜査当局の長期間に及ぶ精力的な捜査にもかかわらず見当たらないという点である。検察官は、銃撃実行者が乙野である事実が立証されなくても、甲野が、誰かは分からないが、外一名の実行者と共謀していたことは間違いない、そしてその程度の立証でも、本件は、甲野の刑責を問うことはできる場合と考えるべきであると主張する。

しかし、本件は、甲野とCが旅行先のロスで一緒にいたところを何者かによって二人とも銃撃され、死傷したという事件である。外見的には、旅行者が誰か強盗犯に襲われたとみえる事件である。これを、甲野が銃撃実行者と共謀し、仕組んだ殺人事件であるというためには、甲野の側からみて共犯となる銃撃実行者が客観的にいたこと及びその者と甲野との間で共謀が成立していたことが明らかにされなければならない。そうでなければ、本件のような態様の犯罪としては成り立たないと考えられる。その意味で、共犯者像の確定は、本件では最も重要な事柄であって、もし、その点の立証がおぼつかなくなれば、本件が成立する余地は決定的に難しくなることは明らかである。

そこで、検察官は、乙野をほとんど唯一の共犯者であるとして、当初から同人の犯人性を立証する活動を展開してきた。この点の立証は、乙野の刑責を問うためであったことは勿論であるが、同時に甲野の刑責を問うために欠かせない前提立証でもあった。そうであればこそ、検察官は、控訴審で甲野に対して予備的訴因を追加し、共犯者を氏名不詳の「外一名」とした時点においてもなお、この氏名不詳の「外一名」の中には乙野が含まれるとか、しかも乙野が現実に最も可能性のある共犯者であると主張したのである。しかし、乙野の犯人性については、すでに第二部で検討したとおりで、同人を銃撃実行者とするには証拠が不十分であるとする原判決に誤認はないとの結論に達している。

二  一般に、共犯者がいることが明白な事件の中にも、証拠上、その共犯者の見当が皆目つかない場合もあれば、およその見当まではつくが、なお刑責追求をすることができるほどには特定できない場合があることは十分理解できる。検察官が、訴因の変更を要しないと判断した理由として掲げた事例、すなわち、犯行現場にいた二人のうちの一名が、他の一名に対して、「今だ、刺せ。」といって犯行を指示した事実が目撃者の供述によって明らかになっているのに、刺した者を特定できない、という事例などは、後者の場合と理解できよう。

しかし、それと異なり、捜査の結果から、遡って共犯事件であるかどうかそれ自体の見直しを迫られる事件があることも否定できない。本件の場合、検察官は、乙野を最も共犯者の可能性が高い者と判断して起訴した。そして、原審及び当審を通じて、乙野を銃撃実行者とする観点から、同人以外には共犯者となりうる人物は実際上見当たらないとの立証を尽くしてきた。当審における若林証言及び寺尾証言等によっても明らかな如く、捜査官は、これまでの捜査過程で、疑う余地のありそうな者は、マスコミ等で騒がれただけの人物をも含めて、網羅的、広範囲に取り上げてくまなく捜査したが、共犯者という視点からみると、嫌疑を抱く理由のある者は見当たらなかった、というのである。この事実に直面するときは、遡って本件を共犯事件とする根拠がはたして確かであったのかどうか、その点を見直す必要がないとはいえない。銃撃実行者不詳のまま、その者との事前共謀を認定するのははなはだ異例な事態であるが、あえてそのような認定を正当とするためには、その共犯事実について、仮に氏名不詳者が見つかっても、その者からの事情聴取が必要でないほどの、確かで、証明力の高い証拠が備わっていることを検討・確認しなければならない。そのことを念頭に置いて、以下の検討を進める。

第四  犯行の動機について(検察官が主張する情況事実 一)

検察官は、甲野にはC殺害の動機があったと主張し、具体的にはCに対する愛情を喪失しており、他方、その経営するフルハムロードの営業活動の維持、発展のため、多額の営業資金を必要としていて、それらが結びついて本件を計画してもおかしくない状況にあった、それが具体的に表面化したのが殴打事件であり、本件渡米時にCに高額の海外旅行傷害保険をかけたのも、当初から保険金目当てであったというのである。

一  夫婦関係の冷却とCに対する愛情の喪失について

原審で取調済みの関係証拠によれば、甲野の女性関係が乱脈を極めていたことは覆うべくもない。甲野は、当初昭和五〇年二月に結婚し、約六か月後の同年八月離婚、翌五一年六月に再婚したが、それも二年半後の同五三年一二月に離婚している。これらの結婚が、いずれも短期間で破綻した理由は必ずしも判然としないが、同五四年七月にCと結婚した後も家庭外で、多数の女性との性的関係が目立っている。例えば、同五五年夏ころから一年以上伊勢丹の女性店員と肉体関係をともなう交際を続け、同五六年二月ころから六月ころまではNという女性と同様の関係を続け、同年五月ころには、後記のとおり、赤坂東急ホテルのパーティーで同女を介してDと知り合い、その数週間後には肉体関係ができて深い交際を続けながら、同時にDの紹介でその友人らとの肉体関係をも求め、更にはフルハムロードの従業員らとも同様の関係を持って、それらの中には海外に連れて行った者もいるという有様であった。また、交際の仕方をみても、例えば、知り合いの女性二人とフルハムの男性社員を一緒にホテルの一部屋へ呼び寄せ、四人一緒に肉体関係を持ってはばからなかった事実も認められる。こうしてみると、甲野の女性関係ははなはだしく常軌を逸しており、その女性観、更にその根底にある物の考え方に普通でないものを感じさせられる。

ところで、夫婦の関係について、甲野は、外泊、深夜帰宅もなく、日曜祭日には「Cサンデー」と称して子供を親元に預けて二人で出かけるなどしていて、二人の仲はよかったと述べ、Cの両親も、外からみる限りでは仲は悪くなかったと証言している。しかし、更に立ち入ってその内実をみると、Cは激しく言い立てたりはしていなかったものの、甲野の女性関係を察知して悩んでいた事実は動かし難い。例えば、殴打事件前、甲野の海外出張中に、Cがいた自宅へホステスが押し掛けてきて、自分が甲野と結婚するといってCに離婚を迫るというような異常な出来事もあったし、Cが精神的に大きな衝撃を受けていたであろうことは否定すべくもない。甲野はそれ以外の女性関係をCは知らなかった筈だというが、Cの周辺にいたJの原審証言によれば、Cは、甲野がCの友人との間でも肉体関係を持っていると推測していたことが認められるほか、Cの遺品中にあったシンガポール航空の絵はがきに書かれたメモ(Mの第五〇回原審証言・同公判調書添付資料①[159-4260])の記載は、Cが甲野の乱れた女性関係を知って悩んでいた状況を端的に示している。しかし、本件にとって重要なのは、Cの甲野に対する思いではなく、甲野のCに対する思いの方である。Cは悩みながらまだ愛想を尽かしていなかったとしても、甲野の思い如何によっては、本件犯行の動機が生まれてもおかしくないからである。そして、先に述べたような甲野の女性関係からすれば、Cに対する甲野の感情は到底誠実なものであったとはいえず、状況如何によって、Cに対する犯行が起こっても、必ずしもおかしくない素地はあったと理解される。例えば、Cが銃撃の被害を受けて東海大学病院に入院中の時期にも、甲野はDをはじめ他に何人もの女性と性的関係を続けていたことが認められ、その行動には、口先で何と言おうと、当時の甲野のCに対する思いが端的に現われているとみなければならない。

二  フルハムロードの営業資金の必要性、保険契約締結の事情等について

殴打事件に至るまでのフルハムロードの資金需要や保険契約締結の事情については、甲野の殴打事件に関する一、二審判決が直接に証拠調べをし、詳細に認定・判示しているところである(当裁判所に顕著な事実である。)。もっとも、同事件について取り調べられた証拠がすべて本件でも取り調べられているとは限らないから、右の判断がそのまま本件にも当てはまるとはいえないが、主な証拠は共通しているもののようで、本件記録と当審における事実取調べ結果を含めて検討しても、同判決の認定内容には同感できる点が多い。すなわち、

1 甲野は、昭和五三年にフルハムロードを設立し、以来その経営に当たってきたが、本件直前までの営業実績と資金繰りの状況等を中心としてみると、設立以降毎期末に赤字状態が続いていたものの、売上高は順調に伸びていた。特に、昭和五六年当時、アヒルのランプ等の輸入雑貨の販売が好調で、国内生産を委託開始するまでになっていたし、同五五年三月にはアメリカのCBH社との交渉が調い、同社の商品につき五年間日本国内での独占販売権を取得して、これに基づき国内では高島屋、伊勢丹等の大手デパートとの間に一定数量の買取契約を締結するなどしていた。その後、CBH商品の品質上の問題からデパートが入荷を渋るようになり、紆余曲折を経た末に、同五七年三月フルハムロードはその地位を大手企業の三永株式会社に譲渡して撤退したが、三永から一時金のほか若干のマージン取得の権利を手にして、フルハムロードとしては、有利な解決をみる結果となっていた。売上高が伸びるとともに、資金需要も拡大したが、同五六年八月以前の主な資金借入先としては、国民金融公庫(五五年三月、三三六万円)、東海銀行(五六年二月、八〇〇万円)、三永(五五年四、五月、二〇〇〇万円)のほか、甲野個人、その父親Hらからの短期借入れ程度であって、その返済は順調に行われていたようであり、特段の問題は窺えない。また、同五六年九月ころから仕入れ代金支払いのために手形を振り出すようになったが、資金需要が拡大すれば、一般的に考慮されてよい支払いの手法であって、そのこと自体を特段問題視すべき事情は見当たらない。同年九月、一〇月に、三永から一〇〇〇万円、四四〇万円と短期の借り入れをしている事実があるが、これは仕入れ代金を必要としたのに、甲野の取引銀行であった東海銀行原宿支店からは、甲野本人の定期預金など確実な担保のある範囲内でしか融資を受けられなかったために、取引関係のある三永に依頼して同社から融資を受けたものと認められる。しかしそれも、その直後の同年一〇月、一一月には売り上げが増加して経常収支が好転しているので、このことを予測して借り入れたものと了解できる範囲内にある。フルハムロードでは給与の支払い遅延等もなく、かえって同五六年九月には事務所を移転、拡大し、同年暮れにかけてコンピューターの導入をはかるなど、企業活動は積極的で、従業員は概して若く、活気のある職場であったと認められる。これらの事実を総合してみると、フルハムロードの経営状況は、資金的に余裕がある状況ではなかったけれども、資金的に特に困っているという事情にもなく、まして保険金殺人でも計画しなければ乗りきれないといった切羽詰まった資金状態は認められない。

2 殴打事件当時、甲野はCを被保険者とする次の保険に加入していた。

(a) 第一生命保険相互会社との間の、同五五年一月一日付け、Cを被保険者、甲野を受取人とする死亡時保険金額一五〇〇万円(災害死亡時三〇〇〇万円)、保険期間五年、保険料掛け捨ての集団定期保険契約(以下、第一生命の保険などという。)、

(b) 千代田生命保険相互会社との間の、昭和五六年二月一日付け、Cを被保険者、甲野を受取人とする死亡時保険金二五〇〇万円(災害死亡時五〇〇〇万円)、保険期間一〇年、保険料掛け捨ての定期保険契約(以下、千代田生命の保険などという。)、

(c) アメリカン・ホーム・アシュアランス・カンパニー(以下、アメリカン・ホームという。)との間の、昭和五六年八月五日締結、Cを被保険者、受取人を法定相続人とする死亡・後遺障害保険金額七五〇〇万円、保険期間同年八月一二日から一〇日間の海外旅行傷害保険契約(同時に、甲野を被保険者、受取人を法定相続人とするほかは同条件の保険にも加入している。)。

以上の三つ保険契約のうち、前記殴打事件の一・二審判決において、保険契約締結時から保険金目的の殺人の意図があったと認定されたのは前記(c)の保険契約である。この保険契約は、後述のとおり、甲野がDにロスでのC殺害を依頼し、同女から承諾を取り付けて、実行計画に見通しが立った後で加入したものであり、その直後に実際に殴打事件が持ち上がっていることと照らし合わせて考えれば、この時点で保険金取得目的の殺人の下心があり、その趣旨で加入したものと推認されて不合理とはいえない。しかし、それ以前に加入していた(a)の保険は、Cと再婚する前から加入していた甲野本人の保険について、再婚を機に受取人の変更など手直しをし、その時に締結した経過のあるもので、時期的な点からみても、特段疑わしい点があったとはみられない。また、(b)の保険についても、保険金額は(a)と合算して四〇〇〇万円であるから、甲野の当時の収入等からみれば高額過ぎるとはいえない。しかし、この契約締結直後ころから、後記の共犯者物色と推測される行動が始まっていること、そして同年八月の殴打事件に至る一連の経過をみると、この時すでに、C殺害による保険金取得の下心が芽生えていなかったか、全く疑う余地がないわけでもない。ただ、単なる疑い以上には根拠がないから、この保険契約についても、契約締結時に保険金目当ての殺人の意図があったとみるのは無理と判断される。

三  今回渡米時に締結した保険契約について

1 次に、本件当時、渡米に当たり、甲野は、(d)アメリカン・ホームとの間で、同五六年一一月一六日締結、Cを被保険者、受取人を法定相続人とする死亡・後遺障害保険金額七五〇〇万円、保険期間同年一一月一七日から七日間の海外旅行傷害保険契約に加入している(同時に、甲野を被保険者、受取人を法定相続人とするほかは同じ条件の保険契約にも同時に加入している)。まず、この保険への加入手続自体に不自然な点があるかどうかを考えるのに、この保険の最高保険金額は同年七月二〇日前は五〇〇〇万円、同日以後七五〇〇万円に改訂されていたところ、検察官は、甲野は最高保険金額が五〇〇〇万円当時には三〇〇〇万円の保険に加入するのが通常であったのに、今回最高金額に加入しているのは保険金取得目的があったためであると主張する。しかし、甲野は、同年九月に商用のため単身で渡米したときにも最高金額の保険に加入していた事実が認められるし、また、保険金額の違いは一見大きくみえても、保険料の違いは僅か二〇〇〇円程度であって、そのため海外旅行保険では、社会的立場のある人のうち四分の三は最高金額の保険に加入する実情にあるというのであるから、それらの点からすると、甲野が最高金額の保険に加入した手続自体をとらえて、直ちに今回の渡米中に保険金目的の殺人を敢行する意図があったためであるというのは、疑問である。この点につき、この保険契約締結に関与したアメリカン・ホームの日下祐二は、最高額の保険契約を同人から甲野に勧めてはいない、甲野から八月と同じ金額といって申し込みを受けたと述べている。甲野が、訳あって最高額の保険に加入したかのようにも響くが、日下の立場からすると、契約締結時には同人の側から勧めたものであっても、保険事故が起こった後では、自分の方で勧めた契約ではなかったと言いたくなる事情もあると一般的には察せられるから、この点を同人の供述だけで判断するのは適当でない。

2 それでは、加入手続前後のその他の事情と照合してみればどのように考えられるか。関係証拠の内容は、一様でないようにみえる。

何といっても、この点に関して無視できないのは、三か月前に殴打事件が起こっていて、そこには甲野のCに対する本心が露呈しているとみられることである。当時、二人の間には、前年の昭和五五年九月に長女が生まれていて、普通ならば円満な関係にあっておかしくなかった筈である。ところが、殴打事件が持ち上がり、その件への甲野の関与を否定できないこととなって、そのため殴打事件直前に加入した前記(c)の保険について、保険金取得目的の殺人の意図を否定できないことが後述のとおりだとすると、その事件に現れている甲野のCに対する感情は極めて複雑で、表面上はどうであれ、腹の底では一体何を考えているか分かったものではない危険さに満ちていたと考えざるを得ない。そして、次にCを連れて同じロスに行くことになったのが、ここに問題になっている本件一一月のことなのであるから、そうすると、八月渡米時に保険金目当てに保険に加入した事実があるとされる以上、一一月渡米時の保険加入に当たっても、八月の保険加入時のことが甲野の頭の中に全くなかったとは考えにくい。もとより、前回そうだったからといって、今回も同様に保険金目当ての意思があったとすぐにいえるものではない。しかし、この時点での甲野は、Cに対する愛情を失っていなかったから保険金入手目的でC殺害を目論むことはあり得ない、といえるような純な状態になかったことはどうやら確かであり、そうである以上、その点の判定に当たっては、契約締結後の甲野の行動を注意深く観察した上で判断する必要があるように思われる。

しかし、この点については反対の事情も認められる。すなわち、当時の甲野は、フルハムロードの資金繰りに関して切羽詰まった状態にあったとは認められず、せいぜい取引規模その他の事業拡大資金の必要があった程度と認められるに過ぎない。そうすると、甲野は、切羽詰まった事情もないのに、妻を銃撃・殺害するとともに、自分の大腿部をも銃撃させ、一歩間違えば、将来取り返しがつかない後遺症を残すかも知れない危険に自己の身をさらしてまで保険金取得に執着したことにならざるを得ないが、それはどうみても不自然過ぎるのではないかという点である。

また、保険加入の意図を探るには、そのための一つの事情として、入手された保険金の使途が参照されてよかろう。そのような観点から、本件保険金の使途をみると、入手したこれらの保険金は、フルハムロードの関係でもその他の関係でも、差し迫った用途に費消されてはいない。すなわち、Cが廃疾した関係で入手した保険金は、おおよそ昭和五七年三月一六日の第一生命からの三〇〇〇万円、同月二四日の千代田生命からの五〇〇〇万円、同年七月九日のアメリカン・ホームからの七五〇〇万円、合わせて一億五五〇〇万円であるところ、これらはまずは株式、国債など有価証券や金地金の購入、定期預金、若干の金員の支払い(これはさほど高額なものではない。)等に使われたこと、その後、その一部がフルハムロード関係の車両の購入資金、甲野が経営する別会社(エルエーマート)に対する貸付資金、フルハムロードが五九年に倒産したときの清算資金等に充てられ、その他同五八年に東京都杉並区下高井戸に宅地を購入して家屋を建設した資金の一部にも充てられたことが認められる。そして、ほかには、フルハムロードが同五七年四月二七日に保険金を原資とする甲野個人の一〇〇〇万円の定期預金を担保に一〇〇〇万円を運転資金として借り入れたこと、同じくフルハムロードが同年五月二七日にC名義の利付き国債を担保に一五〇〇万円の当座貸越し契約を銀行との間に締結していること、前記の宅地の購入に際して土地に根抵当権を設定するほかに保険金を原資として購入した有価証券の一部をも担保として六〇〇〇万円の住宅ローンを組んでいることが認められる程度であって、大体これに尽きる。こうした事実によれば、本件で支払われた保険金は、基本的には、資産として蓄えられ運用されていたといえる。したがって、保険金の使途をみる限り、差し迫った資金需要という面での保険金殺人の動機は窺い難い。

このようにみてくると、今回の渡米時に締結した(d)の保険に加入した当時の甲野の真意は、その直後に起こった本件犯行の内容の確定を待って、これらの事情を含めて総合判定するほかはない。

四  小括

以上によれば、甲野は、Cに対する誠実さにはなはだ欠けており、同女を裏切って保険金取得を考えることが、甲野の心理の底流においてあり得ないこととは思えない。また、殴打事件への関与を通じて、そこにC殺害による保険金取得への欲求を認めざるを得ない以上、同様の欲求が、その後間のない本件当時、まだ消滅せず残っていた疑いはかなり強い。しかし、甲野がそのことを実現する時期として、今回の渡米時を選定したと積極的に疑わせる事実は証拠上明らかでない。

特に、本件の特徴は、単にCを銃撃するだけではなく、その銃撃は甲野が仕組んだものでないことを強調するために自らの大腿部を同時に銃撃させるものだという点にある。他人の殺害だけを目的とするのであれば、動機と呼べるほどの動機が客観的にはないのに、それでも殺人を犯す者がいないではない。しかし、犯人が殺人と同時に自分をライフルで銃撃させることとし、両者をワンセットにして実行するという態様の犯行は、容易に想定できるものではない。殴打事件では、自分の身体に危険が及ぶことは一切なかったが、本件の場合には、一つ間違えば、自分の生命に危険が及び、場合によっては一生を台無しにするかも知れない危険が伴っている点で、犯行内容が全く異なっている。甲野の負傷結果は前記のとおりであり、結果として比較的早期に退院できたが、この程度で済むことが最初から分かっていたとはいえないし、それにしてもかなりの恐怖を伴ったことに変わりはないというべきである。このような危険をあえて覚悟するには、余程切羽詰まった動機がなければならないが、これまでの検討結果によると、この時期に、それほどの問題があったとは思えないのである。殴打事件を通じて認められる犯行の意図が、これとは全く内容の異なる銃撃事件に自然に発展したとは、容易に納得できないものがある。こうしてみると、銃撃事件のような内容の犯行を犯す動機に絞ってみれば、積極的に肯定できるとはいえない。

第五  共犯者の物色について(検察官が主張する情況事実 二)

検察官は、甲野が、本件犯行や殴打事件以前から、何人かの者達に、保険金殺人と察知されるような犯行計画を、いずれも突然というに近い経緯の中で持ち出して、加担する意思の有無を打診した事実があることを指摘して、甲野がそのような意図を以前から常々抱いていたと主張している。そこで、以下においては、それぞれの人物に対する甲野の接触状況、意向打診の内容等を順次検討し、それらの行動の中に現れている甲野の真意と、それが本件にとってどのような意味を持つ情況事実とみられるかを検討する。

一  野澤清重に対する打診

1 野澤の原審証言によると、甲野が野澤に接触した状況は、おおよそ次のとおりであったと認められる。

(a) 野澤は、昭和五二年六月当時、甲野経営の会社で働いていたが、二か月後に解雇された。ところが、その後の同年九月ころ、甲野から突然自宅に電報が届き、折り返し電話をしたところ、「金もうけの話がある、やってみないか、二、三千万円になる。」と言われ、翌日、千駄ケ谷にあった甲野経営の会社「Mオフィス」近くのシャンポールという喫茶店で甲野と会った、

(b) 同店で甲野は、妻と別居できないか、離婚ならもっと良い、と言いながら、永遠に別れるような意味の話をするので、保険金殺人かと聞くと、そうだと頷いた。野澤は、「聞きたくない。」と言って帰ろうとしたが、甲野は、「いろいろなやり方がある、お互いの妻を殺す、相手に保険をかけて一年かそれくらい経った時点で車で轢いて殺す。」などという話を始め、更に、「もっといろんな納得できる方法がある、二人で五〇〇〇万円手に入れた者がいる。」などという話を続けた。甲野は、「よく考えておいてくれ、連絡するから。」と言い、野澤は「二度と電話をくれるな。」と言って、別れた、

(c) 帰宅してそのことを妻に話したところ、妻は怒っていた。数日後、甲野から電話があり、その妻が応対に出たそうで、「冗談じゃないと言って電話を切った。」と言っていた、というのである。

2 甲野は、野澤の供述を全面的に否定している。そこで検討するのに、まず、野澤が打診されたという時期は、同人の供述によると、昭和五二年九月ころとされていて、甲野がCと結婚した同五四年七月よりもかなり前の時期に当たっているから、少なくとも本件とのつながりは希薄とみられる(甲野がCと初めて会ったのは、昭和五三年六月である)。また、同人は、甲野の話の概略を知人や懇意な飲み屋の女主人らに話しておいたところ、それらの人がそのことを憶えていて、本件の報道を見た際に思いだして連絡してきたと述べ、自己の証言が確かなことの根拠としている。しかし、同人の供述には要領を得ない点が多過ぎる。例えば、一方で、自宅の電話が止められていたので電報で呼び出されたといいながら、その後に甲野から電話があり妻が応対に出たと述べたり、お互いの妻に保険を掛けて保険金を入手するというのに、被害者となるそれぞれの妻の保険料の支払負担をどうするかの話が不明であったり、また取得した保険金は相互に相手の口座に振り込んで支払うというのであり、これも辻褄が合わない。しかも、野澤は、甲野に突然解雇され、当時退職手当も支払われなかったために、こうした甲野のやり方に不満・反感を抱いておかしくない状況にあったとみられるし、加えて同人は、テレビのワイドショーに出演して料金を得ていた経過もあり、そのためか本人のいうところによると、警察からは五、六回事情聴取をされたというものの、殴打事件では証人申請もされなかった人物である。こうした諸事情を考慮すると、野澤の供述には疑問が多過ぎる。

二  福原光治に対する打診

1 福原の原審証言によると、甲野が福原に接触した状況は、おおよそ次のとおりであったと認められる。

(a) 福原は、昭和五六年一月ころ、ロス市リトル東京の浪花寿司で店員として働いていた当時、店に客として出入りした甲野と顔見知りとなった、

(b) その後の同年二月中旬ころ、甲野からの封書を同僚店員を通じて受け取ったが、それには「男と見込んで重大な仕事を頼みたい、三月になったらロスに行くから会って欲しい、この手紙は焼却して欲しい。」と書かれていた。福原は、咄嗟に密輸か薬物の話を想定し、ビジネスの話とは思わなかったが、応諾の返事を出した(物六七・同押号の三、146−182,282[手帳の写し])、

(c) 同年三月に入って甲野から電話があり、モーテル(CCM)に一人で来て欲しいとのことであったので出かけた。そこで甲野から、世間話、ビジネスの話などに続いて、一緒に犯罪請負の仕事をしないかという話があった。甲野は、ありとあらゆる犯罪をやってきたとか、世の中には完全犯罪も沢山ある等という話を長々とし、当初はせいぜいマリファナなどの密輸くらいのことを考えていたところ、ピストルを撃てるかとか、殺人に関係する話になってきて、更に殺人を行うことは決して悪いことではない、いいか悪いかは結果で決まるというような話になった。要するに殺人依頼の話と分かり、ばれないで金になるのなら悪くないとの気にもなって報酬額を聞いたが、殺人に金額はない、計画が絶対発覚しないものであれば、少ない金額でもやる価値がある、要は計画が完璧かどうかだと言われた。殺人の具体的内容を聞いたが、今は言えないとのことであった。今住んでいるところを引き払い、周りには「ニューヨークに仕事が見つかったから行く。」と言って仕事を辞め、実際は日本に戻って甲野が指定するホテルで待機すれば、その時話すというものであった。凶器は、ピストルも日本刀もあるという話であったと思う。そのほかに、殺す相手は全然知らない面識のない人物で、福原に頼んだのは、同人には動機も甲野との接点もないからである、偽造のパスポートも用意できる、完全犯罪だ、ということであった、

(d) 渋ったところ、「金とどっちが大事だ。」と言われたが、最終的には断って席を立った。話は全部なかったことにする、警察に話しても証拠はないと言われたように思う、

(e) 本件後の昭和五八年秋、前記寿司店の厨房に甲野が入ってきて顔を合わせたことがあるが、ロス市警にモンタージュを見にきたとのことであった、警察に全部話したからと言ったら、ご冗談でしょうと言っていた。口封じにきたのかと思っている、おおむね以上のとおりである。

これに対して、甲野は、福原と寿司店以外で会ったことはない、同人に殺人を依頼したことはない、ただし、浪花寿司で寿司を食べながら、新聞に載っていた殺人事件を話題にしたことはあるから、そのことを言っているのではないか、という。ただ、福原の同僚がフルハムロードに立寄ったとき、同人に福原宛のたわいもない内容の手紙を預けたことがあったことを、殴打事件の公判供述中で認めている。

2 ところで、その後の経過について、福原は、甲野からこのような打診を受けたことを後日妻になった女性や職場の同僚等に話したほか、学生小出恭三に話した、同人からロスのマスコミ記者の耳に伝わり、結局昭和五七年二月末から三月ころ、ロス警察の捜査官から事情聴取を受けるに至ったが、捜査官と十分な意志疎通ができず、犯人扱いされている印象を受けたために、その時は甲野から殺人を依頼されたわけではないということにして話を終わった、同五八年一一月ころ、週刊文春の記者が訪ねてきたので取材に応じ、その後多数のテレビに出演したり、多くの週刊誌等の取材に応じたりした、という。そして、甲野が殴打事件で逮捕された後、昭和六〇年九月以降に、日本の捜査官からも事情を聞かれ、検察官調書が作成された。福原のこうした供述経過をみると、同人は、テレビなどマスコミの取材に応じる際に相当多額の金員を受けとっていることが窺われるから、当時のマスコミ攻勢に迎合して発言した部分があるのではないかと疑われる余地が全くないわけではない。また、その供述には、甲野とCCMで話をしたという日時の供述に若干の変遷がないではない。しかし、その供述内容は、全体として、相当具体的かつ迫真的であり、また返事を出したことが手帳に記載されており、しかもその内容を周辺の親しい者に漏らしていて、事後的に作り話をし難い状況にあることや、またかなり早い段階からロス警察の事情聴取に応じている点などからみて、前記のような話が、福原と甲野の間でなされたことは、大筋において間違いないと認められる。ただ、このときの話の内容は、なお具体化された話ではなく、そのためこれを具体的な殺人依頼であるとか、ましてC殺害の共犯者物色行為とまではいえないにしても、甲野の発想ないし物の考え方をよく示している点がある。そして、甲野が福原に、このような話をした約五か月後に、Dを使った殴打事件が持ち上がったのであるから、その事件との関連性は勿論であるが、本件との関連性についても無視できない点がある。以下に述べるO、渡辺らに対する言動とあわせて、再検討すべきである。

三  Oに対する打診

1 Oの原審証言によると、甲野がOを勧誘した状況は、おおむね次のとおりであったと認められる。

(a) Oは、昭和五六年一月にフルハムロードに営業部員として入社し、同五七年一〇月営業部長に昇進したものであるが、入社前に甲野と面接した際、執行猶予の前科(窃盗前科)があることを話していた、

(b) 入社して数か月が経った昭和五六年春ころ、フルハムロードの商品仕入れの情報が外部に漏れているのではないかという噂が流れたことがある。その内容は、同じ商品が他の店(ランチマーケット)で安く売られていて、取引先や直営店筋からクレームがあったというものであったが、その後、フルハムロードの倉庫で、Oは甲野から、ランチマーケットの件を調べた書面が届いて、情報漏れの内容が分かったと話されたことがある、

(c) その後、Oは、甲野から二回にわたって赤坂東急ホテルに呼び出された。一回目は、同年五月初めころのことであるが、同ホテルの部屋で、甲野から、「Cがランチマーケットの社長と浮気している、甲野の仕事関係のインボイスが家に置いてあるが、Cがそれを見てランチマーケットに情報を流した、結婚前からの知り合いらしく、昼間電話してもCはいない。」などと言われ、少し雑談した後で、今度は、「O、おまえ、お金のためならなんでもできる人間か。」「このまま一生働いてもいくら貯められるか、どのくらい貯まるか分かるか。」と言われた。Oは、当初は、大阪にフルハムロードの事務所を作ってそこに行くとか、乙野のしていた仕事をロスでする等の話を想定したが、正規の仕事以外の仕事をする趣旨かとも考えた。Cの話が出て、その後にこのような話が出たことやその場の雰囲気から、怖くなって、「考えてさせてください。」と答えた。その後は社員の話や女性を紹介してくれなどという話になって、四〇分くらいで話は終わった。部屋を出るとき、「この件は誰にもいうな。」と釘を刺された、

(d) その後、甲野から二度誘いがあり、断っていたら、同年五月終わりころにまた赤坂東急ホテルへ誘われた。行くと、「この間の話だが、その仕事をやる気があれば一生かかっても食べきれないくらいの仕事がある、やる気があればフルハムロードを六月一杯で辞めて、社長から連絡があるまでブラブラしていろ、給料は保障する、仕事が終わったら二、三年外国に行って遊んでくればよい。」、と言われた。具体的には二〇〇〇万という金額が出たと思う。それから、甲野の乗っている車のブレーキを利かなくすることができるかと聞かれ、社長の車はコンピューター制御なのでできないと答えたが、その他の車はどうかなどと質問された。それについても技術的にできないと答え、その話はそれ以上には進展しなかった。話の流れから、Cかランチマーケットの社長を事故に見せかけて殺害する話だと思ったが、これ以上話を聞くと断れなくなると思い、この話はなかったことにしてくれと言ってはっきり断った。甲野は、あっさりとこの話はなかったことにすると言い、その後は社員の話や異性の話をして、この日は終わった、

(e) 採用時に前科のことを話しておいたので、自分に頼みやすかったのかも知れない。自分に殺人を依頼してきたものと理解している、おおよそ、以上のとおりである。

これに対して、甲野は、これらの点を否定し、情報漏れが分かったと言って示した興信所の書面は、実際に興信所から報せてきたものではなく、何かの書類を思わせぶりに示してそのように言ったかも知れない、赤坂東急ホテルで会ったかどうかは分からないが、人材を育てたいという趣旨から、命を懸けても俺と一緒にやっていけるかというニュアンスで聞いたことはあるかも知れない、自動車に細工できるかなどという話は、ホテルではなく、昼に一緒に食事をした際に、その店で見ていたテレビのワイドショー番組に関してそのような話題が出たものである、また、Cの浮気話に関しては、自分の女性関係を正当化したくて、Cも適当にやっているからというようなことを言っただけで、ランチマーケットの社長というような具体的な話をしたことはない、わざわざOを赤坂東急ホテルに呼んだことはない、という。そして、Oの供述の信用性に関して、同人は、マスコミに乗せられて、ありもしない話をするようになっていったかのようにいうのである。

2 しかし、関係証拠によると、Oは、昭和五七年四月三日から一〇日までの間、フルハムロードの商用でロスに出張することとなった際、甲野もその一日前にロスへ行き、とんぼ返りで日本に帰ってくる予定となっていることを聞き、これはロスで甲野がOを待ち受けているのではないかと身の危険を感じて、以前に甲野から聞いた話の内容を書き留めた書簡五、六通を作成し、これを友人の深町明秀に託したと述べている。加えて、右の出張先のロスで渡辺哲と会った際、ねらわれることを心配するあまり、同人に依頼して、宿泊先のCCMで、甲野が宿泊した後をOが引き継いだ部屋の変更を申し出たり、部屋番号を外部に教えないよう依頼したりしたほか、渡辺から、同人もOと似たような殺人依頼の話を甲野から持ちかけられていたことを聞き及び、そこで自分も言われていたことを打ち明けたといい、その点は渡辺の原審証言と一致している。これによれば、Oの供述にはかなりの裏付けがあるといえる。

ところで、Oは、同五九年一月ころ、週刊誌に情報を流しているのは同人ではないかと甲野に疑われたことがあり、そのことが直接の原因となってフルハムロードを退職した経過があった。そして、マスコミの取材に対しては、前記のような事実を一切口にしていなかったが、甲野が逮捕された後同六〇年九月に警察から事情を聴取された段階で、初めてこの事実を供述したというのである。このような経過に照らしてみると、同人の供述は、マスコミに迎合してなされたものとはいささか趣を異にする上、その話は極めて具体的であり、信用性が高いと考えられる。甲野から提示された具体的金額や、ブレーキの細工を打診された対象車両などの点については、その供述に若干の変遷がないではないが、これに近い話が甲野からされた事実は間違いがないと判断される。そして、甲野がOをわざわざ赤坂東急ホテルへ呼び出して持ちかけていること、O証言の自然な流れ等からみて、甲野がOに対して、Oのいうとおり、甲野はCの殺害を依頼しようとしていたのではないかと推測することに、かなりの程度理由があるとみられる。しかし、殴打事件及び本件との関係で、この事実の持つ意味合いを検討しなければならない。

四  渡辺哲に対する打診

1 渡辺の原審証言によると、甲野が渡辺を勧誘等した経過は、次のとおりであったと認められる。

(a) 渡辺は、昭和五四年七月に渡米し、旅行会社に勤務する傍ら、同五六年ころCCMのフロント係にアルバイトで勤務していたとき、客として出入りした甲野と知り合い、話をするようになった、

(b) 同年八月又は九月ころ、甲野から、乙野が当時行っていたフルハムロード関係商品の買付け代行の仕事を引き受けないかと誘われ、翌五七年二月ころから、オアシスという名称で、これを引き継いだ、

(c) 右の勧誘を受けたのとほぼ同じころ、CCMのロビーで、甲野から、「お金をもらえばなんでもできる人か。」とか、「二、三年ロスを消えることができるか。」等と尋ねられた。薬物犯のことかと感じた、二、三千万という話がでたように思うが、仕事によって考えると返事したところ、冗談だといってそれ以上話は進まなかった、

(d) 翌五七年七月にOが仕事でロスに来てCCMに泊まったとき、同人から部屋替えを求められたことがあった。Oに聞いたところでは、甲野から殺人を頼まれて断ったことがあり、しゃべられたら甲野は困るので、ねらわれるのではないかと危惧したからということであった。殺害の相手方は、話の内容からみて、Cだと思った。自分も同じような話を甲野からされたことを思い出し、そのことをOに話した、おおよそ以上のとおりである。

これに対して、甲野は、渡辺の仕事への覚悟をただすために、死にものぐるいで何でもできるかという意味のことを言ったことはあるかも知れないが、前述のような意味で、お金をもらえればロスから消えることができるかと言ったことはないと述べて否定する。

2 渡辺は、マスコミの取材には応じていないが、ロス警察や日本の警察からの事情聴取には応じており、同人の原審証言によると、昭和六二年四月、日本の警察官調書が作成され、その後の一九八八年(昭和六三年)にはロスで宣誓供述書が作成されたという。甲野から、買付け代行以外の仕事を依頼されたというこの話は、最初の調書には記載がなく、宣誓供述書には記載されているというのであるが、そこには、甲野から聞いた具体的な言葉として、「ナベさんは、この仕事をやめて、飛行機に乗って一年位、他の国に行けるか。」と言われたというのであり、原審供述よりは、この方が正しいと述べている(158−4022)。渡辺には、このような話を創作して述べる理由は見当たらないから、右の話は一応そのとおりと考えてよかろうが、ただ、これが殺人依頼の話であるのかどうかはまだ具体的でなく、ましてCに関する依頼かどうかまでは分からない。したがって、この話を、甲野がC殺害の計画を渡辺に打診した趣旨ではないかと、すぐに結びつけて判断するのは困難である。しかし、普通でない話という印象は拭えないから、他の者に対する働きかけと並べて、検討するのが適当である。

五  乙野に対する打診

乙野の捜査官に対する供述調書(昭和六三年一〇月一九日付け検察官調書[乙五一])、原審及び当審供述等によると、乙野は、殴打事件よりも前に、甲野から、フルハムロードの従業員である谷村の友人がライバル会社であるハリウッドランチマーケットの社長のところで働いていて、その者からの報告によると、フルハムロードで買い付けた商品と同じものがすぐランチマーケットにも出ているとのことだ、Cが相手の会社の人間と浮気をして情報を漏らしているみたいだから気をつけてくれ、という趣旨のことをいわれた、と述べている。

これに対して、甲野は、当審公判廷で、乙野から女性関係のことで忠告された際に、忠告をそらす意味で、「いいんだよ、うちのも適当にやっているから。」というように言ったに過ぎない、Cは会社のことを知らないから、Cが会社の情報を漏らすことはあり得ない、そのことは乙野にはすぐ分かることだから、そのようなことを乙野にいう訳がない、という。しかし、乙野は、そのような話を聞いたと一貫して述べているのであって、女性問題の多い社長の妻の浮気といったストーリーが印象に残ることは明白であることや、Cの浮気という、これと同様の話をOやDも聞いていることなどからすると、この供述はかなり信用できるというべきである。ただし、乙野に対する話は、その程度で終わっているから、せいぜいそこに甲野のCに対する感情を窺い知ることができる程度であって、これだけでは殺人加担への意向打診とか、共犯者の物色などとまではいえない。

六  小括

甲野が持ちかけた以上の話は、どれを取り上げても、個々的には甲野の打診内容が、具体的でまとまりのある話とまでは理解できない。しかし、それらの中で、比較的具体性のあるOの場合を中心として、他の者に対する話とつき合わせてみれば、その発想にいくつかの共通性を読み取ることができる。まず、これらの話は、時期的には、野澤への話が昭和五二年九月で他の場合とかけ離れている以外は、いずれも同五六年春から夏にかけてのことであり、その夏に殴打事件、秋に本件が起こっていることとの関係からみると、その準備段階に当たっており、他方、前記千代田生命の保険加入との関係では、その少し後に当たっている。そして、話がされた状況をみると、Oの場合、二回にわたって赤坂東急ホテルに呼び出され、秘密めかした話し方がされたというのであり、話を持ちかけた状況に特徴的ないきさつがあり、また、話の内容にも、情報を漏らした者としてCの名前が出ていたり、車のブレーキに細工をするなどといった具体性が含まれている。ここにいう車のブレーキ云々という事故態様の発想は、野澤に対して、事故に見せかけて車で轢き殺すと話したとされる発想と類似している。また、加担すれば高額の報酬が期待できるという点は、O、渡辺、野澤、後述するDらに共通しているし、実行後かなりの期間姿を消す等して甲野とのつながりを断つという言い方は、Oや福原に共通しており、Cの浮気云々の点は、O、D、乙野らに共通している。こうしてみると、ここに現れているような発想を、甲野は平素から、常々抱いていたのではないかと感じさせる点がある。

また、Oに断られた三か月後に殴打事件が起こっている。したがって、その間にDに働きかけた順序になるが、D説得に甲野が用いたとされる話の中に、Cの情報漏洩や浮気といった、Oに話したのとほとんど同内容の話が含まれていることからすると、やはり甲野は、Oを呼び出した際にすでに、C殺害の計画、具体的には殴打事件を頭において打診していたのではないか、もしOが応じておれば、Dとの間でなされたように、犯行の日時、場所、方法等を順次具体化させる段取りとなったのではないかと強く疑わせるものがある。

Oの場合をこのように理解すると、その他の者に対する話についても別の見方が可能となる。特に、福原の場合は、Oに話す約三か月前の時期に当たっており、わざわざ甲野の方から封書を人に託して福原と連絡を取り、CCMに呼び出して会ったというのであるから、Oに対するのと同様に、C殺害を頭に置いて抽象的な話をし、感触を探ろうとしたのではないかと理解できなくはない。渡辺の場合には、同人を近々乙野の後任者に予定していたから、今は仕事上密接な関係ができる者に弱みを握られかねないやり方は疑問と考えられるものの、言い含めてしばらく姿を隠させる発想が見え隠れしていることや、冗談話というにしては立ち入り過ぎていること等の点からみて、全く無視してよいとも思えない。

ともあれ、甲野がこのように何人もに対して、同傾向の話を持ちかけ、打診を繰り返した末に殴打事件を敢行した一連の経過に着目すると、甲野は、このころ保険金殺人を発想しており、適当な共犯者を物色していたのではないかと強く疑われる。右は、直接には殴打事件に結びつく情況事実と考えられるが、それに失敗したことによって、この発想が直ちに消失したとも考えられないから、本件銃撃事件にとっても無関係とは思えない。ただ、殴打事件が未遂に終わり、Cに疑念を植え付ける結果になった後では、しばらく間を置き、ほとぼりが冷めるのを待つこともあり得るから、殴打事件に失敗したからすぐに次に銃撃事件を計画したと簡単に考えるのは問題であろう。もっとも、殴打事件後に渡辺に働きかけた事実が確定できれば、本件銃撃事件とのつながりを考えやすいとはいえるものの、同人に働きかけた時期は、検討してみると、証拠上明白とはいえない。ただ、甲野から打診された福原、O、渡辺らは、本件の発生を聞いて一様に、甲野の話と本件との関連性を感じ取ったと述べているし、その他フルハムロードの土肥俊雄も、本件が発生したことを聞いた直後に、Oに対して、この事件はおかしいと思わないかとの直感的感想を口にしたというのであって(146-337)、関係者のこうした直感は、甲野から打診されたときの微妙な雰囲気を感じ取り、あるいは日頃の人柄をのみ込んだ上での自然な受け止め方を示すものとして、軽視できない。

第六  殴打事件について(検察官が主張する情況事実 三)

検察官は、甲野が殴打事件を敢行した事実は、本件銃撃事件についても甲野の犯人性を示す情況事実になると主張する。この殴打事件は、本件発生の約三か月前である昭和五六年八月一三日に、ロス市のホテル「ザ・ニュー・オータニ・ホテル・アンド・ガーデン」二〇一二号室において、保険金目当てに、甲野が女友達のDに言い含めて、当時甲野と一緒に宿泊中であったCの頭部を、ハンマー様の凶器で殴打して殺害しようとしたが、負傷させただけで未遂に終わった、とされる事件である。甲野は、その件でも起訴され、否認したが容れられず、一・二審とも有罪、目下被告人上告中である。別件のことであるから、その殺人未遂事実の認定・判断は、すべてそちらの裁判手続で行われるべきことであり、本件審理の中であれこれいうべき筋合いではない。しかし、両事件は、同じ加害者・被害者間で相次いで起こったとされる事件であり、そのために、殴打事件を生み出した動機は、同時に本件を生み出す動機にも関連しており、また殴打事件が未遂に終わったために、より一層犯行手段を強めて、再度企てたと主張されてもおかしくない関係にある。そして、両事件とも、摘発されにくい外国のロスで、しかも甲野が被害者を伴って行った機会に、やや特殊な状況の下で発生していることなど、表面上、強い共通性も窺われて、動機を認定・理解する限度では、殴打事件当時の甲野のCに対する感情や事件前後の言動それ自体が(つまり、それが殺人未遂罪に該当するか否かとは無関係に)、本件にとっても実質的に重要な意味を持つと考えられる。そこで、本件に必要な限度では、それらの点に立ち入らざるを得ない。

一  D供述の信用性について

殴打事件への関与を甲野は一貫して否定するが、Cをホテルの一室で殴打したとされるDは、犯行を認めた上で、同女が実行に及んだのは、甲野からC殺害への協力を持ちかけられたためであると供述しており、Dの右供述の信用性が最大の争点となっている。ところで、D自身は、本件の原審では、公判廷で直接証人として尋問されていない。当裁判所は、同人の捜査官に対する供述調書が証拠中で占める重要性を考慮し、弁護人側申請の証人として直接尋問した。しかし、その事実取調べの結果を含めて検討しても、結局のところ、Dが殴打事件に関与した経過、内容は、原判決が判示するとおりと認められる。以下においては、本件に必要な限度で、その点を検討する。

1 Dの供述には、後述するとおり、変遷が多い。供述が変遷した最大の理由は、甲野に好意を寄せていたことを認めたくなかった点にあったようであるが、Dは、捜査の最終段階では、関与した内容について次のとおり述べている(Dの検察官調書[乙八一ないし八七])。すなわち、乙野は、

(a) 昭和五六年五月初旬、赤坂東急ホテルの客室で開かれたパーティーに参加して甲野と知り合い、間もなく甲野と性的関係を持つまでになった。当時Dは、妻子ある別の男性との間で別れ話がでていたが、甲野が、その男性の妻と直接交渉をして、慰藉料三八万円を支払わせてくれたので、甲野に感謝し信頼するようになった、

(b) 甲野に仕事の紹介を依頼し、そのため七月一〇日ころ甲野と会ったところ、「興信所にワイフの素行を調べさせたら、代官山にあるライバル会社にうちの会社の情報を流したり、そこの社長と浮気をしていることが分かった。僕はワイフに愛情なんかない。もしDがやってくれるんだったら、保険金の半分をDにあげる。オーケーしてくれたら、僕は一生Dのことだったらなんでもしてあげるつもりだ。Dさえ良ければ、ワイフがいなくなった後、一緒に住んで僕の子供の面倒をみてくれないか。」と言って、保険金殺人への加担を打診された。私の心は大きく動いたが、殺人ということなので、発覚の心配を話すと、「ばれない。一〇〇パーセント成功する。」と自信のある態度を示し、過去に人を殺したことがあるが発覚しなかったなどとも話した、

(c) 甲野の最愛の女性になれること、まとまった保険金の入手を想像し、翌日、引き受ける旨の電話連絡をし、その日も甲野と会って、打ち合わせた。甲野は、「完全犯罪なんて簡単にできるんだよ。一番いいのは全然結び付きのない人間と一緒にやり、殺される者と無関係な者にやらせる方法なんだよ。」などと言い、掛けてある保険金は三〇〇〇万円であること、このうち一五〇〇万円を自分にくれること等を話してくれた。同夜も会い、甲野の自宅に向かう車中及び甲野の自宅のそばに停めた車の中で話をし、この時、日本の警察は優秀だから、ロスで実行することに話がまとまった。翌日、東急観光新宿営業所へ行き、ロスが旅行先日程に含まれている旅行パンフレットを集め、これを甲野に見せると、甲野はこれがよいといって八月一〇日に○印を付け、費用は甲野が用意するがロスでの宿泊ホテル名を念入りに聞いておくよう指示された。甲野は部屋は一人部屋を申し込むこと、旅行に行くことは友達にも親・兄弟にも話さない方がよいと言った、

(d) 七月一六日に、三万円を支払って正式申込みをした。甲野とモーテルに行き、殺人計画を話し合ったが、このとき、犯行態様について、ピストルを使ってCを殺害するとか、ナイフを使ってCを殺害するとかいう話が出たが、結局何かでCの頭を殴って殺すということになり、甲野は、「今度ロスに行くからそこで殴り殺すのに都合のいい道具を探してくる。」などと言っていた、

(e) 甲野の誕生日である七月二七日に喫茶店で会い、旅行費用として六〇万円を受け取り、七月三一日、旅行費用の残金四七万円を旅行社に支払った。八月六日の一、二日前に、ロスでの宿泊ホテルがニューオータニに決まったことを甲野に連絡し、八月六日に日程表を受け取り、甲野と赤坂東急ホテルで最終の打ち合わせをした。甲野は、日程表を見ながら、「八月一三日は一日中オプショナルツアーになっているから、Dが自由行動をとってもおかしくない。この日にやろう。その日の何時にするかは一三日に僕がDに電話して教える。この日は一日中部屋で待っていてよ。僕もCもニューオータニに泊まることにしてあるから、Cをやる場所はニューオータニの部屋にしよう。」、「アメリカに行ってトンカチの様な形の鉄のかたまりを見つけた。片手で持てるものだ。」、「それでCの頭を完全に倒れるまで、最低五発くらいは殴れ。道具はロスに行ってから渡す。アメリカにはごろごろしているけど日本ではあまり見かけないものだから警察が動いてもまさか日本人がやったとは思わない。」、「Cをやる時間に、乙野と商談をセットしておき、部屋にはCを一人にしておく、Cにはドレスの仮縫いの女性が部屋を訪ねてくると話しておくから、Dは仮縫いの採寸にきたふりをして部屋に入ればいい。」、「部屋に入ってすぐやれないときは、その後、仮縫いの採寸の格好をしているときにスキを見てやればいい。」、「Cが死んだことを確認した後、ハンドバッグやカバンから現金や貴重品を取って、バッグの中身を部屋の中にばらまいてCが強盗に襲われたように見せかけろ。」、「僕は完璧なアリバイを作る。Cと僕と乙野の三人で食事でもして、そのままCを部屋に戻し、僕と乙野で商談に入り、途中にDからうまくやったという合図があったら、僕が商談をしているところからCの部屋に電話を入れ、Cの返事がないということで乙野に部屋に行ってもらうことにしよう。乙野はホテルのボーイを呼ぶことになり、ボーイと乙野が中に入ると、Cが死んでいて貴重品がなくなっているということが分かるわけで、乙野が僕の完璧なアリバイ証人になってくれる。」、「これを二人でやることで僕とDは親や兄弟以上の関係になれるんだから、とにかく気を楽にしろよ、保険金の使い途やアメリカ旅行のことを考えなよ。」などと言った、

(f) 八月八日ころに、甲野から指示されたずた袋、メジャーなどの用意をした。甲野から、仮縫いの採寸をするふりをして隙をねらって殴れといわれていたので、自分の考えでメジャーを持って行くことにした。犯行時に着用する服と靴、手袋なども順次用意した、

(g) 出発前日の八月九日は友人の清水礼子宅に泊まったが、失敗すれば日本に帰れなくなるかも知れないとの不安を感じ、「危ない仕事で日本に帰ってこれなくなるかも知れない。そのときは警察にこれを届けて。」と頼んで、甲野の会社の電話番号を書いた紙を清水に渡した、

(h) 八月一〇日に成田を出発し、一二日午後二時過ぎころニューオータニにチェックインした。翌一三日はオプショナルツアーを断って部屋で待機していたところ、午前一〇時ころ甲野がやってきて、犯行決行の時刻、Cの部屋番号、部屋への道順などを教えてくれた。バッグの中から英字新聞に包まれたトンカチの様なT字型の鉄のかたまりを取り出して、「D、これならやれるだろう。」と言って手渡された。犯行手順について指示された後、「日本に帰ってからもしばらくは会わない方がいいかも知れない。保険会社がしばらく調査するだろうからね。保険金はすぐに出ないと思うけれど、Dには僕から生活費を渡すから。ただしビジネスはビジネスだから、生活費や旅行費用の六〇万円は保険金のDの取り分から差し引かせてもらうからね。」、「夕方乙野と商談をセットしてあるから、商談が始まる前、Cが部屋に一人になったときまた電話を入れる。」などと言い、私を抱きしめながら、「頑張れよD。これが終わって日本へ帰ったら結婚しよう。」と言ったので、Cを殺害する意思を固めた、

(i) 夕方六時ころ甲野から電話があり、これから行くように指示され、成功した場合にはコーヒーショップの周りを歩くようにと言われた。そこで、ずた袋に凶器、メジャー、手袋を入れてCの部屋に行った。何か聞かれて「イエス」というと簡単にドアが開き、室内に招き入れられた。Cがドアを閉めて部屋の窓側(奥)の方に歩いていったので、凶器の柄を握って後を追い、凶器を取り出して、Cの後頭部をねらって殴りかかった。手応えはあったが、髪の毛の表面を滑ったような感じもした、

(j) Cが突進して来て、凶器を取り上げられてしまったので、「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返し言い、Cが室外へ助けを求めに行かないようにと考えて、「甲野さんを呼んでください。」と言ったところ、「あなた誰なの、甲野の知り合い?」と聞いてきた。Cは「甲野を呼んでくるから。」と言って一旦部屋を出ていったが、すぐ戻ってきて、「甲野は下のコーヒーショップにいるからあなた電話で呼んでちょうだい。」と言われたので、甲野に電話をかけるとすぐ部屋にやってきた。Cは事態の成り行きを話し、凶器を甲野に手渡した。Cが甲野に「この人知ってるんじゃないの。」と聞くと、甲野は「知らない。」と答え、Cは、警察を呼ぶように言ったが、甲野は、「ポリスを呼ぶと二日も三日もここに足止めされる。それに僕もヤバイことをしているから、ポリスを呼ぶとまずいことになる。」などと言ってCを説得し、結局警察を呼ばないことにCも納得した。その後、Cに言われて、甲野は私の身元の分かるものを探すふりをしていたが、やがて「出て行け。」と大声で言い、私は部屋を出た。この間二〇分から三〇分くらいであった、と述べ、

その後の経過について、

(k) 同夜、ホテル一階の土産物店閉店後、店員のPに誘われて食事に行った先で、同人に、甲野に頼まれてCを殺そうとしたことを告白した。その後、Pと一緒に部屋へ戻るとき、エレベーターで甲野と鉢合わせすることになり、部屋へ戻ると甲野から電話があって、「しゃべったのではないだろうね、さっきの男を待っているけれどまだ出てこないよ。」等と言われた。その後ドアをノックされたり、再度電話がかかったりしたが、出なかった、

(1) 翌日、自分の写真や住所、電話番号を記載したものをPに渡してロスを出発し、帰国した。おおよそ以上のとおり供述している。

2 これに対して、甲野は、殴打事件の公判廷では、次のとおり供述している。

(1) Dと交際中、二人はマリファナを吸引して高揚感を味わっていたので、Dは、マリファナを安く仕入れれば友人に売って儲けることができるから、渡米した際にマリファナを持ってきてくれないかと頼んできた。そこで、Dが自分で渡米し持って帰るのなら、アメリカでマリファナを購入して同女に渡してやってもよいと提案したところ、同女も同意した、

(2) 八月一二日から一九日までCとロスに旅行する計画であったので、Dと打ち合わせ、その日程に合わせて、Dは同月一二日からロスに滞在する予定のツアーに参加することになり、一三日にロスでマリファナをDに渡すことを計画した。Dの旅行費用五〇万円、マリファナ購入費用一〇〇〇ドル(当時の為替相場で約二五万円)等は甲野が立て替えて後日返済してもらう予定であった。Dから、右の一三日にはどこかへ遊びに連れていってくれと言われてしぶしぶ了承したが、当日は乙野を介して船会社の関係者との打ち合わせの予定となっていることや、Cのチャイナドレスを作る予定が入っていることを話しておいた、

(3) 同月一二日、ホテルにチェックインし、マリファナの入手先であったリチャード・モーリンに電話をしたところ、今はストックがないと言われた。その夜、Dにその旨電話したが、他から入手する手だてはないかとか、翌日どこかへ連れていってくれと言われ、一時しのぎに明日電話すると伝えた。その電話の際に、自分とCが泊まっている客室番号を教えた、

(4) 同日の夜、チャイナドレスのサンプル品をCのため無料で作ってくれるという話になっていた中国人女性から電話があり、やはり有料だと言われたので、Cに相談して、その話を断った、

(5) 翌日は、Cと買い物に出たため、Dに付き合うことはできず、電話もしないまま、夕方ホテルに戻った。間もなく、甲野は、ホテル一階のコーヒーショップに降りて、そこで乙野や船会社の担当者と商談中、Cから電話があり、部屋に上がったところ、部屋の奥のベッドの端にCが腰掛け、Dが壁に寄りかかって立っていたので、驚いてCにどうしたのかと尋ねると、Cは、「キャンセルした筈の中国人の仮縫いの女性が来たのかと思ってドアを開けたら、この人が入ってきて、突然、「私が結婚するんだから、甲野さんと別れなさい。」というのよ。一体何なの。」と言ってきた。Dとの関係が露見するのをおそれて知らないと言い張った。Cは、「それで、びっくりして、甲野さんに来てもらおうと思って電話をかけようと、奥に向かったときに、後ろから、思いっきり突き飛ばされたの。」と言い、Dの足元を指して、「あのハンマーみたいなものでぶったんじゃないのかしら。」と言い、その足元には、茶色の紙袋があって、その中に濃茶色で十字型のトーテムポールのようなものが入っていた。DがそれでCを殴ったとは思わなかった。Cに「そんなことするわけないじゃないか。」と言い、次いでDに対し、「おまえなんかと結婚するわけないだろう。馬鹿野郎。ふざけるのもいい加減にしろ。頭おかしいんじゃないのか。マリファナか覚せい剤のやり過ぎじゃないのか。」などと言って怒鳴りつけ、Dに、「おまえなんか出ていけ。」と言うと、同女は、「ごめんなさい。」とか「すみません。」とか言って、トーテムポール様のものが入っている足元の紙袋を持って出ていった。Cからの追求に対して、Dのことを、昔付き合っていた女で偶々会ってマリファナの入手を頼まれたということでごまかした。その後、Cが後頭部に怪我をして出血していることを知り、Cに対して、「乙野の手前、女性が押し掛けてきて怪我をさせられたということではみっともないので、浴室で転んだことにしてくれ。」と頼んだところ、Cもこれを承知してくれた。会社の関係では自分の知っている女のことでトラブルが生じたということではまずいと思ったからである。CがDから突き飛ばされたのは事実であると思う。突き飛ばされたときに頭に怪我をしたと思う。傷は首のちょっと上のところと思っている。

Cの被害直後の状況について甲野が供述するところは、大体以上のとおりである。また、帰国後に甲野がDに電話したところ、同女から、甲野が一三日に約束の電話をしなかったことや、甲野とCがたくさんの荷物を抱えて買い物から帰ってきた姿をロビーで見かけて、かっとなってCの部屋に行き、事件をおこしたと聞かされた、と供述している。

3 こうしてみると、両者の言い分は、共謀した事実の有無、Dがロスまできた事情(甲野に頼まれてC殺害に協力するためか、それともマリファナを入手したいためか)、DがCの部屋に行った事情(甲野に指示されたためか、それともD自身に固有の動機があったためか)、室内でDはCに対してどのように行動し、Cの怪我はどのようにして生じたか等の点で、全く対立している。両供述の信用性について、殴打事件の一、二審判決は、Dの供述を基本的に信用すべきものと判断しているが、本件記録及び当審での事実取調べ結果によっても同様と考えられる。その理由を補足説明すると、

まず第一に、甲野の供述には疑問点、信用し難い点が多過ぎる。すなわち、甲野は、当日Cの部屋へ行った女性がDであったことを公判段階になって初めて認めた。それまでは、中国人の仮縫いにきた女性であるなどと弁解して、Dであったことをことさら秘匿していたのである。そして、Dであることを認めた後でも、中国服を作る中国人女性は実在し、八月一二日に甲野に電話をかけてきて、服を作るのは有料だというので断ったとか、Cはその中国服を作る女性がやってきたと誤解してDを部屋に入れたなどと主張している。しかし、この中国服を作る女性云々の話は、甲野が、当初、Dのことを隠そうとして行った弁解の中で出てきたもので、もともと信用性に乏しい話である上、甲野からは連絡していないというのに、この女性がどうして甲野の渡米やその宿泊先を知って電話をしてきたというのか、納得できる説明がない。Cは、甲野から、中国服を作る女性が仮縫いに来ると聞かされていたのでドアを開けた、と帰国後その家族等に話していたことが認められるが、Cが家族に話した経緯(後記)やこの点についてCが虚偽の話をしなければならない理由は全く考えられないことからみて、Cの供述は十分信用できると思われる。そうすると、甲野が、Cには中国服を作る女性が来ると言っておき、そのころ自分はロビーで打ち合わせをしていて不在となっている丁度その時間を見計らって、DがCの部屋へ行き、これをCが中国服を作る女性と間違えて部屋に入れたのは、偶然というよりは、仕組まれたものと判断せざるを得ない。むしろ、この一連の事実は、甲野が、Cに対して、Dを部屋に入れさせるためにそのような話を創作したことを推測させる。Dが、日本を出発する前に、あらかじめメジャーの用意をしていたというのは、甲野から中国服を作る女性云々と聞かされた際、自分がその者に成り代わる趣旨と理解したからであると考えられるのであり、そのことは、甲野が中国服を作る女性云々のことをCとDの双方に話しておき、Dが部屋へ行った際に、これをCがすぐ室内に入れるようにと考えて、あらかじめ取りもっていたことを示していると理解される。また、Dが、渡米費用をかけてでも利益を得られる程大量のマリファナをアメリカから日本へ容易に持ち込むことができると考えていたというのはあまりにも現実的でないし、またマリファナのせいぜい末端使用者に過ぎなかった同女が、そのように大量のマリファナの販売ルートを見つけられると考えたというのも、理解できない。更には、旅行費用とマリファナ購入代金をDに渡した点について、甲野は、後で返してもらうつもりであったと弁解するが、Dの経済状態からみて回収見込は不確かであり、不自然過ぎる。やはり、甲野の計画に沿って、Dに犯行を行わせる予定であったために、甲野がその費用を渡したものと理解すべきところである。

第二に、Dのこの時点での右供述は、非常に詳細かつ具体的で、全体としては迫真性に満ちている。もとより、ここに至るまでの同女の供述には、かなり変遷の跡が目立つが、犯行の核心部分に関する供述はほぼ一貫しているし、また、供述変遷の理由も、後述のとおり、十分理解でき、核心部分の供述の信用性に大きな疑問を生じさせるものではないと判断される(Dは、当審での期日外証人尋問においても、前述した内容の供述を維持している。)。ところで、Cは、帰国後、事件当時の模様を、実家のK、L夫妻、妹のMらに話した際、最初は、ルームサービスで部屋に来たボーイがいきなり凶器で同女に殴りかかってきたと話し、そのすぐ後で、妹のMに対して、実は殴りかかってきた相手は女性であったと告白したとされている。父親が甲野との結婚に賛成でなかった経過があったために、甲野の知り合いの女性から殴られて被害を受けたなどとは言い出しにくかったというのである。しかし、その後両親、Mらにも真相を話したが、その中で、凶器はT字形をしたハンマー様のものと話している(Mの原審証言[159-4166]、Jの原審証言[160-4432])。右のCの供述経過からみて、両親に話した内容は真実と窺われるが、犯行態様についての右供述は、凶器で殴りかかったというDの供述を完全に裏付けている。そして、凶器を携えて行き、これで殴りつけたという態様は、偶々嫉妬に狂って暴行を加えたというよりは、計画的殺意の方を強く推測させるというべきである。

第三に、Dの供述には別の点でも裏付けがある。すなわち、Dは、前に述べたとおり、出発前に友人の清水に甲野の会社の電話番号を書いたメモを渡し、自分に何かあったらこれを警察に渡して欲しいと伝えている。もし、渡米目的がマリファナの仕入れであって、甲野に資金面まで世話になっていたというのであれば、Dがこのような奇妙な行動に出る理由はおよそ考えられない。更に、Dは、犯行直後に、甲野に頼まれて犯行に及んだという事件の核心部分を、ホテル一階のホキ徳田の店のアルバイト店員であった前記Pに告白している。これが極めて真摯な気持ちによるものであったことは、帰国直後のDからPに宛てたエアメール(Dの六〇年一〇月二日付け検察官調書[甲八七]添付資料)の内容からも明らかである。また、甲野は、事件当時、ホテルのラウンジで乙野や船会社の関係者と商談中であったが、この商談をその日に設定した経過には、乙野らを利用したアリバイづくりとの印象を持たせる点がある。すなわち、乙野の供述によれば、甲野はこの八月の訪米時までは、船会社の関係者から度々話があっても面会に乗り気でなかったのに、関係証拠によると、八月一〇日ころになってから急に、面談の設定を積極的に指示しただけでなく、乙野に国際電話をかけてきて、相手方にもう一度念押しをしておくようにと依頼してきたというのである。そして、その時期は、丁度八月六日に乙野からツアーの確定的な日程を聞いたすぐ後に当たっている。しかもその商談を、甲野のロス到着翌日、ツアーの日程でせわしいDの宿泊予定日にわざわざ設定していることもまことに不自然とみられる。甲野の滞在予定は一九日まであったのであるから、Dがロスを離れた後の日時に設定することも十分可能であった筈とみられるからである。乙野らが甲野のアリバイ証人になってくれると甲野から聞かされたとDは述べているが、そうすると、この点でもDの供述は裏付けを持っていると考えられる。

以上によれば、Dの供述は、少なくとも犯行の核心部分に関する限り、信用できると判断される。

二  D供述を信用できないとする弁護人の主張について

甲野の弁護人は、Dの供述を信用できないと強く主張するので、その主張の主な根拠について検討しておくこととする。

1 ハンマー様凶器による殴打について

弁護人は、ハンマー様凶器の存在やその形状自体疑わしいとか、Dが供述する打撃方法と傷の位置や形状との間に整合性が欠けていて、ハンマー様凶器で殴打したとは認定できない、と主張する。

まず、凶器として、T字形のハンマー様の物が使用されたことは明らかである。Dの供述は、凶器の具体的な形状、大きさ等については必ずしも一定せず、供述に変遷があるが、右のような凶器を甲野から手渡されて犯行に使用したこと自体は、一貫している。乙野は、事件直後にCを治療のため連れて行った先の病院で治療が終わるのを待っていたときに、甲野から凶器を見せられたと述べており、その妻Eも、その話をその直後に乙野から聞いたと述べていて、乙野の供述を裏付けている。また、被害者であるCが帰国後、実家の両親らに説明した内容も、Dの供述を裏付けているようにみえる。

次に、Cが負った傷の位置・形状等については、いくつかの証拠がある。すなわち、負傷当日、Cを直接診察し、縫合等の処置を行ったタッド・フジワラ医師の各供述調書(甲二九六、七六、二九七、二九八、五一七、五一八、五一九、五二〇、五二一、五二二、弁甲野甲二、三)及び診療録に残された図面(53-4747, 4780)、Cの帰国後に抜糸をした医師小山栄三郎の供述(昭和六〇年九月二六日付け検察官調書[甲七七]、別件殴打事件の証言調書[甲八七八])、同女から話を聞きながら自宅で見分したM(原審証言)、K(昭和六〇年九月一六日付け検察官調書[甲一二〇])、L(原審証言)、それにJ(原審証言)らの各供述がある。これらを総合すると、傷の位置、形状等は、後頭部ほぼ中央に、縦に、ほぼ直線状に生じた挫裂創であって、その長さは約1.5センチメートルから五センチメートルの範囲内、傷は頭蓋骨まで深く裂け込んでいたが、骨には異常はなかったと認められる。もっとも、後頭部のうちのどの位置であったかについては各供述間に若干の差異があり、それ以上詳しい位置を特定することはできない。長さについても同様で、右の1.5センチメートルないし五センチメートル程度という以上に限定した認定はできない。弁護人は、Cの傷について、長さが1.5センチメートル、その位置は、フジワラ供述(甲五一七、五一八、弁A甲二、三)に基づいて後頭部結節(後頭部隆起)の下であったと主張し、これを根拠として整合性を疑問視している。同人の供述は、Cが負傷した当日に診察した担当医師の供述であるから無視すべきではないが、しかし同時にかなりの期間が経過した後の供述でもあるから、前記の各証拠と対照するときは、詳細を同医師の供述だけで判断するのが適当とも思えない。

しかし、仮にCの負った傷害が弁護人の主張に近い位置、大きさ(長さ)であったとしても、Dが供述する態様の行為によって生じたと認定することに格別の矛盾はないというべきである。すなわち、Dは、Cの背後から、ハンマー様凶器を左斜め上から右斜め下に振り下ろして殴打したというが、それが後頭部結節(ぐりぐり)の下の部分に当たったとしても、Cの動き、頭の傾き、Dの姿勢等によっては、必ずしも不自然とはいい難い。船尾忠孝の鑑定(弁甲野甲四ないし六)は、Dのいう殴打の態様を前提にすると、被害者の後頭部に骨に達するほどの深い傷ができるためには、1.5センチメートル程度の傷では短か過ぎる、三センチメートル以上の長さが必要になるとするが、同鑑定は粘土による実験を基礎にしたものであるところ、殴打事件における石山昱夫証言(甲八七九)は、頭部を鈍体で殴打したような場合には、皮膚組織及び皮下組織は、当該外力作用に対応し、それぞれの持つ弾性によって瞬間的に変形し、その後凶器の作用面が皮膚面から離れれば元に戻る性質があるから、弾性がなくかつ可塑性が極めて大きい粘土を用いては、瞬間的に発生する外力の作用メカニズムを解明することは不可能であるとするし、更に、本件の傷害は、皮膚面が外力によって加圧されるとともに、この部分に生じた皮膚面への伸展作用によって皮膚面が裂ける裂挫傷に該当するところ、頭蓋骨における皮膚の裂傷の場合、皮膚の全層が断裂していることが多いとして、頭部の皮膚構造等を基に船尾鑑定を批判し、上下径が1.5センチメートル程度であっても本件のような深い傷ができた可能性のあること、つまりDのいう攻撃態様とCにできた傷害との間に矛盾はないとするから、船尾鑑定を疑いのない前提とするのは相当でない。諸事情を総合すると、Dの供述する犯行態様とCの傷害との間に矛盾があるとはいえないと判断される。

2 Dの供述の変遷について

弁護人は、D証言はめまぐるしく変遷し、かつ不自然不合理な箇所が多くて信用できない、また同女は、証言を求められそうなときに外国に出国し、ことさら証言を回避した経過があるので、その点からも信用できない、という。

Dが本件のことを周辺に述べた経過をみると、(a)犯行直後に前記井上に漏らしたのを別とすれば、(b)同じ年の秋、本件発生前に、友人の山崎玲子に、甲野に殺人を依頼され、奥さんの頭を殴ったが殺すことはできなかった、と供述し、(c)次いで本件によるCの死亡を知った後の昭和五八年二ないし三月ころ、フルハムロードを退職した知人の三浦次郎(以下、単に次郎という。)から、フルハムロードの中で殴打事件について犯人甲野説との噂があることを聞かされてショックを受け、次郎に事件の全容をほとんどありのまま話した、そして、五九年一月にいわゆる文春報道が始まったため、次郎と相談した結果、警察官から事情を聴取されたら、「アメリカには事情を知らないで行ったことにして甲野との共謀を否定し、メジャー、手袋、袋はアメリカで甲野から渡されたことにして計画性を否定し、アメリカで甲野から脅されてCの部屋に行った。殴ったのではなく、部屋の入口で、もみ合ったときに誤って頭にぶつかってしまった。」と言った方がよいなどと助言された、そして当時交際していた男友達や同人に紹介された原山弁護士に対して、ほぼこの助言に従った話を前提として相談していたが、(d)その後、次郎がサンケイ宍倉記者のインタビューをセットしたため、これに応じて、しばらくは記事にしないとの約束でアメリカでのことまでを話し、続きは別の機会に先送りしていたところ、約束に反してすぐ記事が掲載された。そのことを前記の男友達や原山弁護士に叱られ、そのために、(e)昭和五九年七月一三日付け警視総監宛上申書を作成することになったというのである。この上申書は、その男友達が尋ね、Dが答えるという形で原稿を作り、これを原山弁護士が点検して完成したものであるが、これが、殴打事件への関与をはっきりした形で初めて認めた供述である。ところで、この時点でのD供述の骨子は、前記のとおり、甲野からロスで脅されて犯行に及んだという筋書きである。甲野の指示に従うポーズだけでも見せようとしてCの部屋に行き、部屋に入って採寸のふりをし、凶器を出そうとして途中まで出して躊躇していたところ、Cが叫びそうになったので思わず殴ってしまったというのである。(f)翌昭和六〇年に入って任意の取調べが始まり、順次供述調書が作成されていったが、それによると、昭和六〇年六月二日付け及び三日付けの警察官調書中では、最終的にはロスで脅されて犯行に及んだが、東京でアメリカ旅行を持ち出されたときにすでにCを殺すようにいわれていた、と供述しているが、同月二四日の調書中では、ロスのホテルで甲野から脅されたことはなかったと供述を変遷させている。このころは、殴った状況について、多少のニュアンスの違いはあるが、採寸のふりをして殴ったと供述している。(g)その後、昭和六〇年九月一二日に逮捕され、以後多数の調書が作成されたが、ここでは、その動機に関して、甲野に対する愛情及び金銭欲から犯行に及んだことを供述するようになり、また、犯行態様についても、しばらくの間は当初に述べた採寸のふりをしてという供述を維持したものの、九月二一日になると、最初に摘記した供述路線になり、以後検察官による取調べ時にも同様の供述が維持された。ところが、甲野の殴打事件の一審では、証人として、「甲野から言われたことをやらなくてはという気持ちと、できれば逃げたいという気持ちで揺れていた、日本で甲野から脅されていた、そのときはそれを脅しと感じてはいなかったが、ロスで甲野から電話を受けた後、そのときの甲野の言葉が思い出された、Cの部屋に行ってからは、体中の血の気が引いて何がなんだか分からなくなり、殺意はなくなっていた。」などと供述している。また、凶器の形状に関する供述にも変遷があり、供述が進むにつれて、凶器の大きさが総じてだんだん小さくなるような供述をしていると読み取ることができる。

Dの供述変遷の大筋は、以上のとおりである。これによれば、Dの供述は変遷しているが、しかし、甲野からCを殺害するように言われたためにCを殴打したこと、頭部を殴打したこと、ハンマー様の凶器は甲野が準備した物であること、鉄製の円柱を組合わせたようなT字形をしたものであったことなど、犯行の中核的部分についての供述は一貫しているといえる。そのことは、当審における期日外証人尋問においても同様であった。D自身は、自己の立場を少しでも有利に見せたいとの気が働いてこのように供述が変遷したと説明しているところ、捜査の進展にともなって徐々に真実を吐露していった経過とも合致しており、十分納得できるところと思われる。殴打事件の公判におけるD証言は、捜査段階の供述とは多少異なっているが、自分の被告事件の公判と並行して行われていたから、自分の置かれている立場を配慮したと理解できなくはない。また、凶器についての供述に変遷があることも前述のとおりであるが、円柱型の金属をT字形に組合わせたようなものという主要な部分は一貫して供述しているし、その大きさについては、当初は大体の感じで述べていたが、試作品を作って検討するうちに訂正せざるを得なくなったものと窺われるのであって、その点の供述変遷を特段不自然とはいえない。Dの供述は、Cの供述や、犯行直後にDから犯行状況、その経過を聞いたという井上の供述内容とも合致し、その供述の信用性を高めているのに反して、この間の事情に関する甲野の説明と対照するときは、Dの供述に以上述べたとおりの変遷があっても、その供述の信用性を否定するのは相当でないというべきである。

3 小括

D供述の骨格部分を信用できるものとすると、本件の三ないし四か月前に、甲野がDに、保険金取得のことや一緒に生活しようなどと話してC殺害を持ちかけ、それを信じたDが殴打事件を実行した事実は、それ自体が有罪と認められるかどうかとは全く無関係に、その数か月後におこった本件の前触れという意味で、本件の真相を理解する上でもやはり無視できない重要性を持っていると考えなければならない。殴打事件と本件の被害者は、いずれもCであったから、もし殴打事件当時の甲野がC殺害の意図を抱いていたとすると、その意図がその後簡単に消失するわけはなく、三か月後の本件発生時点においても、おそらくは同様の意図を持ち続けていたであろうと推認されるのは当然である。もとより、甲野が、殴打事件後もそのような意図を失わず、この先適当な機会をとらえて実行しようとの意思を持ち続けていたとしても、それはあくまでも甲野の内面的な意思の範囲にとどまるから、本件の客観的な実行行為を行ったのは誰かの問題は、甲野の内心とは別に立証されなければならない。そして、殴打事件が失敗に終わった後の甲野の対応としては、犯行が露見していないうちに犯行手段を殴打から銃撃に高めて間をおかずに繰り返すという発想もあり得ないではないかも知れないが、反対に、ほとぼりが冷めるまでしばらく静観するということも多分にあり得ることであり、この方がむしろ一般的といえるかも知れない。前者の発想によるときは、甲野は、殴打事件後、共犯者の選定から実行に至る犯行準備の一切合切を、日本にいる状態のままで、極めて迅速に完了しなければならないことになるが、ことが外国での犯行であるだけに、短期間内に、遠隔地にいてそれだけのことをすることが可能かが問題とならざるをえない。また、後者の発想によるときは、そのような気持ちを持ったままでCをロスへ連れ出しても、それだけで殺害の実行行為と評価することはできない。ともあれ、殴打事件当時、甲野の内心に、C殺害による保険金取得という意図があったとしても、だからその後にCの身の上に起こった不幸は、証拠の有無に関わりなく、すべて甲野の仕業であるとするような大雑把な推論はできるものではなく、やはり本件を引き起こしたのは誰か、銃撃実行者が判明していない状態の下で、何故甲野が共謀に関与したといえるのかという客観的行為についての、確かで、証明力の高い立証が必要とされることはいうまでもない。ただ、その際、両事件とも、海外の同じロスで起こっていること、甲野が被害者を同行して渡米した機会に、やや特殊な状況の下で起こっていること等の点に強い共通性があることは明らかであって、それが甲野の犯人性を疑わせる一つの情況事実になっていることは否定できない。それらのことを前提としつつ、情況証拠を積み重ねて、実行行為あるいは共謀への関与をどこまで立証できるかが問われている。その点について、十分な立証なしに、単に、甲野は殴打事件を起こしたから銃撃事件も同じである筈だと推断するのは、世間的に受けやすい論法であり、時に当たっていることもあるが、刑事責任の基礎となる事実を確定する手法としては大雑把に過ぎ、あるいはかえって危険な一面をも持っている。その意味では、殴打事件の持つ推定力にも、一定の限界があることを自覚しなければならない。

第七  甲野が本件と酷似する殺人方法を殴打事件当時に提案していたとされる事実について(検察官が主張する情況事実 四)

殴打事件に関連するD供述の中には、甲野がDに犯行への協力を説得するために、考えられる犯行手段をいろいろ提案した中に、本件と酷似する犯行方法が含まれていたとする部分がある。もし、殴打事件当時の甲野の提案内容が本件と酷似し、極端に言えば、本件の犯行予告と受け取ることができるのであれば、甲野と本件とのつながりを示す情況証拠として無視できない。その意味で、本件にとってかなり重要で、検討を要する点である。

一  D供述がされた時期

乙野は、警視総監宛上申書(昭和五九年七月一三日付け[甲四八八])以降、同六三年四月七日付け検察官調書までの間の、捜査官に対する多くの調書及び証人尋問調書等の中で、甲野から凶器使用の提案をされたことについて述べている。それらのD供述がされた時期とその時点での同人に対する手続の進展状況をまず対比してみると、殴打事件によるD逮捕の日は昭和六〇年九月一二日(甲野の逮捕はその前日である九月一一日)、起訴の日は同年一〇月三日(甲野についても同じ)、同六一年一月八日一審で有罪判決(懲役二年六月)、同年七月一四日控訴棄却の判決、そのころ確定という経過であったから、Dの前記供述には、逮捕前の調書から、逮捕後取調べ中の調書、起訴後事件係属中の証人尋問調書、そして有罪判決後仮釈放中の調書等、各段階での供述が含まれていることになる。しかし、同時に、それらの調書はすべて、Dが殴打事件に関与した後、間もなく銃撃事件が起こり、翌年被害者のCが死亡し、そしてしばらく経ってからそれらの事件のことがマスコミで大きく取り上げられ、犯人は誰かが大問題になって、事件全体の内容をマスコミ報道を通じてDも知り、相当の予備知識を持った後でなされたものばかりである。そのため、同女の供述は、そのすべてが同女の経験に基づくとは限らず、ひょっとすると報道を通じて、直接あるいは間接に同女の耳に達していたことを、あたかも自己の経験であるかのように混ぜ合わせて供述しているかもしれず、そのことを識別しにくい供述環境にある点に注意しなければならない。加えて、同女の供述を聴取する捜査機関も、独自に事件内容を把握し、その知識と判断を前提としてDの供述聴取に当たっているから、それらが重なり合ったばあいの誘導的影響も考慮しておかねばならない。

二  D供述の特徴

これらの調書中、甲野がDに持ちかけた凶器使用に関する部分を通覧して気がつくことの第一は、甲野がDに殴打事件への協力を持ちかける中で、ピルトルによる殺人の方法を提案していたことを、Dは供述の早い段階から述べており(例えば、前記警視総監宛上申書[甲四八八])、その点の供述はその後も一貫しているということであり、その第二は、Dの供述内容には、けん銃とライフル銃との違いはあるけれども、これを使ってCを銃撃するだけでなく、発覚防止のため同時に甲野の大腿部をも銃撃し、その上で銃器を持ち去って現場に銃撃の跡を残さなくすると言っていたことがある等の点で、本件銃撃の態様と酷似する内容が含まれていることであり(同上申書、昭和六〇年三月三一日付け警察官調書[甲四八九]ほか)、第三に、しかし、このD供述は、全体として観察すると、取調べの進行につれて細部に至るまで本件犯行に沿う内容になっている傾向が顕著に感じられ、そのため、同女の供述は、本当にDが殴打事件当時に甲野から持ちかけられたときの記憶だけに基づいているのかどうか、銃撃事件後のマスコミ報道等による記憶との置き換えや捜査官による誘導等の影響を受けていないのかどうか検討が必要だという点である。

1 Dは、甲野からピストル使用の話があったことを供述当初から述べている。「ピストルが使えるか。」、「使ったことがない。」、「じゃ、ナイフでどうだ。」、「返り血を浴びるからいやだ。」といった程度の話があったとする供述は、その限りでは、信用してよいと思える。単に、その点の供述がその後も一貫しているからというだけでなく、Dがハンマーで殴打したことを認める以上、捜査官が、ハンマーを凶器として使用することに決まった経過を尋ねるのはごく自然であり、むしろ当然尋問すべき事項の範囲内にあるといえる。一方、尋ねられる側のDとしても、Cがその後死亡するという大事に発展した事態を前にして、何故自分が甲野に協力したか、またどの限度で協力したかについて弁明する必要を強く感じていたであろう。だからこそ、最初のころは、甲野に脅されて、いわばやむなく関与したかのごときストーリーをこしらえて供述したものと理解される。そして、その時点の同女には、自分の場合にはハンマーによる殴打の程度にとどまったので、幸いCの死亡という大事に直接は至らないで済み、その点で銃撃事件の場合とは大変事情が違っているという安堵の思いがあったであろうし、そうなると、ハンマーを凶器とすることに決まる過程で、甲野から実際にピストルでの銃撃とかナイフでの刺殺とかの、より強力な手段を持ちかけられていたのであれば、同女としては、大事に至らないで済んだハンマー使用の事実を素直に認めるとともに、そのように決まった過程ではピルトル使用等の話も持ちかけられていたけれど、同女が断ったから大事に至らないで済んだ次第を強調したくなるのは極めて自然だと考えられ、予断、誘導なしにDが供述しておかしくない範囲内の事柄だとみられるのである。

2 ところで、甲野がDに殴打事件の凶器について、ピストル、ナイフ、ハンマー等の話を持ち出した際、特にピストルの使用方法について、甲野はそれ以上にどの程度具体的な説明をしていたか。この点は実は大問題で、もし、殴打事件の実行を相談している時点で、それより後で起こる銃撃事件の骨格を彷彿とさせるような犯行計画、例えばCを銃撃した後、甲野の大腿部も銃撃し、これによって被害者を装って犯行が発覚しないように工作する等のことが、本当に甲野の口からDに伝えられていたとすれば、その内容が詳細であればあるほど、甲野と銃撃事件との関わりを強く推測させることは明らかである。甲野が話していた計画どおりのことがその後実際におこれば、誰でも甲野が行ったと疑うのは自然だからである。しかし、本件では、その点の判断に関して極めて微妙な問題があり、慎重な検討が必要である。そのことを考慮しつつ考えるのに、殴打事件で逮捕されたDの立場からすると、ハンマーを使用することに決まるまでの間に、甲野から、凶器としてピストルとかナイフを使用する方法もあると言われたことを述べれば足りた筈である。だから、甲野のこの提案に対して、Dがナイフでは返り血を浴びるから嫌だと答えてそれで終わったとすれば、ピストルについても使えないから駄目だといえば、同様にそれで終わる性質の話であった筈であろう。この段階で、甲野がDに対して、両者を特に区別して、ナイフの使用については提案をすぐ引っ込め、ピストルの使用についてはしつこく持ちかける理由があったとは思えない。かえって、Dが、日本女性の普通の水準からみて、ピストルを扱えるわけがないことは甲野にとって自明のことであっただろうし、また同女に車の運転能力がないことも当然知っていた筈とみられるから、ピストルで銃撃するという方法は、Dを実行犯に想定する限り不可能な方法であることは初めから分かり切っていた筈だといえる。それにもかかわらず、甲野がDに対して、そのような実行方法を子細にあれこれ話して持ちかけたり、その方法を前提にして、ロスの地図を渡すからあらかじめ約束の場所で待ち伏せする等の提案をしてみせたりしたということは(昭和六〇年九月一七日付け警察官調書[甲五〇一]、同月二九日付け検察官調書[甲八三号証])、どうみても不必要、不自然過ぎるといわねばならない。それなのに、Dの調書記載をみると、ナイフについては、Dが返り血を浴びるから嫌だと言ったらそれ以上あれこれ細かい話に発展しなかったとされているのに、ピストルについては、大いに異なって、甲野がいろいろな場合を想定して持ちかけたとの供述が詳しく記載されている。ナイフとピストルについてこの違いが生じた理由は、おそらく銃撃事件では、現場状況からみて、甲野とC以外の第三者が銃器を使用してCと甲野を撃ったことは明らかであるから、同事件での銃器使用の内容を、殴打事件の犯行手段決定の過程で話に出たピストル、ナイフ、ハンマー等のうちのピストル使用の話に関連させて供述しているためではないかと疑われるのである。

3 そのような観点から更にD供述をみてみると、同女の供述は、捜査が進むにつれて、次第に銃撃事件の犯行内容と同調する方向に動いているとみえる。例えば、最初は単にCを撃つという供述であったものが、逮捕後の調書では、初めてCの「頭部」をねらって撃つという供述になっている(昭和六〇年九月一二日付け警察官調書[甲四九九])。また、銃撃の順序についても、当初は甲野以外の第三者がCを撃ち、甲野が自分の足を撃つという内容であったものが、その後どちらも第三者が撃つという内容に変わっている、また内容的にも、あらかじめ甲野が共犯者に地図を渡しておいて、その者が犯行現場に先着し、その後に甲野がCを連れて行って、隠れていた共犯者が甲野の合図に従ってCの頭を撃ち、更に甲野の足も撃つというように詳細化されている。そして、Dがピストルではできないというと、甲野についてだけはDが撃てるだろうという話になったり、Dはピストルを棄てるだけではどうかという話になったりしたが、結局硝煙反応が出るから自分で撃つのはだめだと甲野が言ったということになり、こうしてハンマーに決まったというのである。ハンマーを使用した殴打事件の打ち合わせの中で、ナイフとピストルとの両方の話があったとされるうち、ナイフの使用にはあまり触れないで、使う見込みのないピストル使用の場合についてだけ甲野がこれほど執着し、詳しくDに持ちかけたとは普通ならば考えにくい。また、昭和六三年三月三一日付けの検察官調書(甲八九号証)には、ピストルを使った場合の銃撃の合図に関連して、甲野がどちらかの手を上に上げる動作をしたなどという供述が記載されているが、ピストルの使用はこの時点では到底現実味のなかった犯行方法であったから、甲野がこの時点で本当にそこまで詳しく話したとは自然には納得し難い。手を上に上げる云々の話は、銃撃事件の際に、駐車場で写真を撮りながら甲野が手を上げたことがあるという銃撃事件後に分かった事実に関連している。こうしてみると、要するに、銃撃事件後に分かった事実が、あたかも殴打事件前から分かっていたかのように記憶され、思いこまれている点があるのではないかと疑われるのである。もとより、Dは、昭和六〇年一〇月二日付け検察官調書(甲八七号証)中で、銃撃事件の発生を聞いて犯人は絶対甲野だと思ったと供述し、この思いを前提にして前述のとおり詳しく供述している。こうした直感は、水上、渡辺等について先に述べた場合と同様に、時に真相をついていることがあるから、それなりに大事にしなければならないが、しかし、銃撃事件が起こるより三ないし四か月前の時点で、甲野がDにピストルでの銃撃を本気で打診したり、甲野の足を撃つよう依頼したりしたことがあるという供述を、そっくり全面的に信用することは躊躇される。

三  小括

殴打事件の相談をしている時点で、後でおこる銃撃事件の骨格を彷彿とさせるような犯行計画が甲野の口から語られたことが真実あったとすれば、それは甲野の犯人性を検討する上で、極めて重要な事実といえる。その内容が特殊であればあるほど、偶然が紛れ込む要素は少なくなり、その可能性を増大させる。しかし、以上検討したところによれば、殴打事件の打ち合わせをする過程で、甲野がDに対して、ピストルは使えるか、ナイフはどうかという持ちかけ方をした事実は認められるが、それ以上に、Dが実際に実行する役割としてピストルによる銃撃とか、引き続き偽装のため甲野を銃撃することまで話したとする点には、疑問が残る。もっとも、殴打事件を計画するなかで、甲野の口から、銃を使用した殺害方法が持ち出され、その数か月後に、Cが殺害されたのも銃撃によってであった事実は間違いないから、この手口の類似性が甲野の犯人性に疑いを生じさせる側面があることは否定できない。しかし、渡米中の強盗被害は、一般に銃器使用によるものが少なくないであろうから、銃器による被害というだけでは、まだ決め手とすることはできない。これを一つの重大な疑いとしつつ、他にこれと矛盾する証拠がないかどうかを検討するべきである。

第八  謀議の成立に疑問を持たせる事情

一  犯行態様と謀議の不可欠性

八月に発生した殴打事件以降に、もし甲野が引き続いて銃撃事件を画策し、本件を仕組んでいたとすると、その間に本件の犯行態様等からみて、甲野と銃撃犯との間で綿密・周到な事前謀議がされている筈であり、その謀議の内容は、相当に検討事項の多い、実質的なものであった筈と考えられるから、そのことを窺わせる痕跡が認められてよさそうである。ところが、本件では、その痕跡が全く認められない。このことは、謀議の成立を疑問視させずにはおかないのであり、犯行の成否にとっては軽視できない点である。

謀議を要する事項と謀議の必要性、謀議の機会と方法が限られていること等の問題点については、乙野を銃撃実行者とする訴因に関連して、既に述べた。足のつかないライフル銃の調達、甲野本人に取り返しのつかないダメージを与えないよう、甲野において銃と弾の威力、銃撃者の腕前の吟味、保険会社に疑われず、また目撃されにくい犯行場所と犯行態様の選定、犯行場所となる駐車場の下見、目隠し用バンの調達、現場での配置確認、報酬の金額、支払方法、支払時期等の決定等々、最低限でも、これらの諸点について実質的な謀議が必要で、それを犯行場所から遠く離れた日本に甲野が一方当事者となって完了しなければならないとすると、かなりの時間と機会を必要とした筈である。そして、殴打事件以後、銃撃事件までの間にこれだけの準備を完了することは容易ではないが、甲野が計画するに当たっては、まず共犯者を探し出し、甲野の提案を応諾してもらうことが必要であるから、それに時間がかかることを考慮すると、ますます容易なことではない。殴打事件の時、甲野がDを説得したことについては前述したが、このときの説得や犯行態様の協議にやはり相当の期間を必要としているのである。甲野がいわゆるプロの殺し屋を依頼したとしても、適当な者を探し、その者と協議し、条件等がまとまるまでには、それ相当の時間が必要であると思われる。ところが、重ねて言えば、八月の殴打事件以降、本件までの間に、甲野が共犯者の誰かとの間でこのような打ち合わせをした形跡は、証拠上、全く窺えないのである。

二  甲野にとっての謀議の機会

甲野が乙野との間で謀議をする機会がほとんど見当たらないことについては先に述べた。以下においては、甲野が乙野以外の誰かと謀議する機会がこの時期にどの程度あったかについてだけ、主として甲野の行動にそって検討する。

(一) 昭和五六年八月一三日に殴打事件が起こり、甲野は翌一四日以降はニューオータニを引き払ってCCMに移り、Cと共に同月一九日に帰国している。本件に関する警察側捜査の取りまとめに当たった寺尾証人は、当審公判廷で、殴打事件では殺害目的が未遂に終わったが、事態が表面化することなしに終わったから甲野にとっては必ずしも失敗ではなかったとみられ、Cに行わせるアンティークドレスの展示即売会の会場予約を帰国後すぐにしたのは、殴打事件直後、すでにロスにいるときから銃撃事件を計画していたことを示しているという。しかし、殴打事件直後には、事件がこの先表面化しないで済むかどうか、全く見通しが立たず、表面化しそうにないから必ずしも失敗ではなかったと安心できる状態ではなかったというべきであろう。捜査官が、選択肢の一つとして、そのような見方をも視野に入れて捜査する態度は首肯できるが、証拠に基づいた議論ではない。検察官も、原審での冒頭陳述中で、「甲野は殴打事件後CCMに滞在していたが、Cの殺害を断念して、同月一九日帰国した。」と主張しており、右の帰国前から銃撃事件の謀議に取りかかったと主張してはいない。

(二) 甲野は、その後、自分で担当してパルコの中のフルハムロードの店舗を三階から五階に移動させ(九月一〇日)、それを終えて単身で渡米し(同月一三日)、一〇月初めに東京で開催を予定していたギフトショーに向けての準備に当たり、参加会社との交渉、関連する各種取決めの取りまとめとメモランダムの締結等に奔走し、二〇社位の参加を得ている。また、最新の情報を入手するため、乙野を同道して、商品買い付け時に通常回っているLAマート、ブラックショップのほか、サンタモニカ、ビバリーヒルズ、ウエストサイドなどの小売店を見て回り、同月二〇日までの滞在予定を切り上げて九月一八日に帰国している。

(三) 帰国後、Cのアンティークドレスの展示即売会を手伝い(九月二八日、二九日)、売れ残った商品は、甲野の知人である女性経営者がまとめて安く引き取ってくれて、Cとしてはまずまずの結果に終わり、次いで、かねての予定どおり、フルハムロードのギフトショーを日本青年館で開催し(一〇月一日、二日の両日)、そのショーで注文を受けた商品のオーダーのため、従業員を渡米させて、甲野は、その間にタイペイに出張している(一〇月七日から一〇月一一日まで)。そして、フルハムロードの事務所を第二御子柴ビルからもっと広い鹿鳴館ハイツに移動した(一〇月一六日)。

こうした甲野の日程をみると、もし甲野が、アメリカにいる共犯者と共謀するとすれば、その可能性が最も高いのは九月渡米時ということになるが、この渡米時にそのような行動をした痕跡の立証は全くされていない。また、もし甲野が本件犯行を画策していたのであれば、一〇月に甲野本人がタイペイに出張するよりは渡米して、その機会に謀議を遂げようと考えるのが自然ではないかと思われる。電話で謀議したとみられる跡が全くないことについては、先に述べた。

更に、今回の渡米時の行動日程をみても、甲野が誰かと謀議できる時間帯としては、一一月一七日にCCMで乙野と会った後しかあり得ない。甲野は、同夜、Cとチャイナタウンに食事に出かけたといい、正確には分からないが、これを確かめる方法も、特段疑う根拠もない。

また、国際電話の架電状況をみても、この間、甲野がアメリカにいる乙野以外の誰かに電話をかけたような状況は全く認められない。

このようにみてくると、甲野が、アメリカにおける共犯者と謀議をしたことを窺わせる状況は全く浮かび上がってこない。本件は、共犯者抜きには考られない態様の犯行であるだけに、その共犯者と甲野との接点が、このように雲を掴むように不確かな状態であることは、やはり甲野の犯人性に大きな疑問を投げかける一事情だといわざるを得ない。

第九  渡米経過と出発前後の事情について

検察官は、甲野はCをロスに誘い出す下心で、まずCにアンティークドレスの販売の仕事を勧め、昭和五六年九月二八日、二九日の二日間、展示即売会を開かせ、売れ残りの品物を知り合いの西屋京子に買い取らせるなどの工作をして、今回のCの渡米に持ち込んだと主張している。しかし、出発までの経過は次のとおりであり、そこには甲野がCの殺害を目論んでいたと疑わせるような、わざとらしさや不自然な出発事情は一切認められない。すなわち、

(a)  Cは、アンティークドレスの展示即売会を開き、売れ残ったドレスを「ブティック・フリー」という店舗を構えている西屋京子に買い取ってもらった際、同女から、「本人の目で仕入れてきたものならいいものでしょうから、よろしくお願いします。」などと言われた(Jの原審証言[160-4446])。この即売会は、Cが甲野の援助で開いたものであったが、C自身も乗り気になっており、女性の目で品物を選別して仕入れるねらい、渡米する気になったものと窺われる、

(b)  一〇月初めころ、Cは、次の甲野の渡米に同行することを決意し、西屋から注文を聞いたり(西屋京子の検察官調書[甲二二七])、いとこのJに通訳としての同行を持ちかけたりし(Jの原審証言)、その意向を実家の両親らに告げたりしていた(Lの原審証言)、

(c)  Jは、Cから友人を同行してもよいと言われたため、当時つきあっていた男性と一緒に行くことを検討したが、その男性の都合がつかなかったので、Cには、間もなく同行を断った(Jの原審証言[160-4452])、

(d)  甲野は、一一月二日に、東急観光渋谷営業所の高沢明人に電話して、「ロスへ女房と一緒に行くことになったので頼む。」などと言って、一一月一五日出発のロス行き日本航空便の申込みをし、それを受けて高沢は発券手続をとった。しかし、同日のうちに、甲野から便名はそのままで出発日を一一月一七日にして欲しいとの変更の申し出があった。帰国は同月二一日ころの予定であるがはっきりしないので必要ないということであった。航空券は一一月四日に発行され、その日のうちに甲野に渡された(高沢明人の検察官調書[甲六])、

(e)  出発前にCが風邪をひき、一一月一三日(金)、一四日(土)の二日間、Cは実家で静養した。順調に回復し、一一月一四日夜にやって来た甲野と共に一五日の午後自宅に帰り、旅行準備をした(Lの原審証言165-5689,5697)、

(f) 甲野は、アメリカン・ホームの日下と一〇月下旬に路上で顔を合わせた際、一一月半ばにまた渡米すること、今回はCも一緒であることを告げた。一一月になって日下が連絡した際には、結婚式の関係で出発を延ばしたという話があり、更に日下が同月一三日に連絡した際には、Cが熱を出していて予定が立たないという話のため、その日に契約することはできなかった。出発予定前日の一六日にもう一度連絡を入れて、この日に最高額七五〇〇万円の海外旅行者傷害保険への加入契約が締結された(日下祐二の原審証言163-5069, 5143, 5168)、以上の経過であったと認められる。

右の経過を前提として検討すると、まず、甲野が、東急観光渋谷営業所の高沢に対して、当初一一月一五日出発の航空券を依頼しておきながらその日のうちに日程を変更している点は、社員の結婚式出席を失念していたためであったと認められる。すなわち、甲野は、そのころフルハムロードの従業員後藤厚子から、同従業員土肥俊雄の結婚披露宴への出席予定が入っていることを指摘されたと供述しているところ、供述どおり、その席へ出席した事実が認められるから、後藤から右の指摘を受けて直ちに変更を依頼した点に虚偽はないと認めてよい。

次に、アンティークドレスの仕事は、Cが自分で行うことを希望し、展示即売会の結果を基にして、自分の目で品物を選び買い付けをしようとしたものと考えて無理はない。検察官は、甲野が懇意な西屋に働きかけて、Cが自ら買付けに行くように工作したかのように主張するが、証拠上は根拠がない。西屋が、展示会で売れ残った商品をまとめて安く買い取った事実は認められるが、同女の商業上の判断によるものではないという証拠はない。そもそも西屋が展示即売会に参加したのは甲野からの誘いによるのではなく、友人に誘われたからだというのであり、またCのロス行きは西屋の勧めによるという事実も認められない。それ以上の内情は、不明とするほかない。

また、右の経過からすると、甲野は、出発予定日にこだわってはいなかったと認められる。当初出発予定日を一一月一五日としていたのを、社員の結婚式予定を知らされるとすぐに日程変更しているし、Cが風邪を引き、実家で静養したときの対応についても同様である。もし、甲野が、本件銃撃事件を目論んで密かにアメリカにいる筈の共犯者と打ち合わせを遂げていたのであれば、その計画変更の影響は重大であった筈であり、出発直前の慌ただしい中で、銃撃計画の変更をするなり、逆に病気を押してでも強引に出発する態度に出るなり、いずれにしても不自然な行動が見られたのではないかと推察されるのに、そのような行動を窺わせる証拠は見当たらない。これは、検察官が主張する本件犯行の計画性とはかなり相容れない態度ではないか思われる。更に、Cは、前記のとおり、当初いとこのJに対して、Cの関係で通訳として同行しないかと誘っていたことが認められるが、Cが甲野の了承なしにJを誘ったとは考えられず、甲野がその了承をしていたとすると、一〇月初めのこの時点で、甲野は、Jとその友人を連れて同行すること、したがって事件を仕組むことが非常に困難になることを受け入れていたことになるが、これも犯行を目論んでいた者の態度としてはそぐわない。

このようにみてくると、今回の甲野とCの渡米経過に、その裏側でひそかに本件の計画が進められていたことを示す不自然な動きは窺われず、かえって、これとは矛盾する事情が多いようにみえる。

第一〇  銃撃現場の状況について(検察官が主張する情況事実 五)

一検察官が甲野の犯人性を示すと主張する点

検察官が甲野の犯人性を示す状況として特に注目している第一点は、犯行現場の状況である。すなわち、甲野と犯人以外には現場におらず、また銃撃の状況と犯行態様の中に、甲野が仕組んだ殺人事件であることを窺わせる状況があるといい、具体的には、銃撃が、白いバンを現場付近に停車させこれで目撃されないように死角を作り出し、このバンで臨場した人物がその陰に隠れて行ったと認められること、犯人は犯行偽装のためCに対する銃撃に続いて甲野の大腿部をも銃撃し、またCのポシェットの在中物を付近に散乱させて強盗を装ったこと、もとより甲野が説明するグリーンの車や同車から降りてきて強奪をした人物は客観的には存在しないことを挙げる。第二点は、銃撃時の状況について、甲野は、白いバンが停車していたことに気づかなかったとか、実在しないグリーンの車に乗った強盗による被害などという虚偽をことさら述べていること、この二点である。

二 目撃証言と甲野の供述

1  目撃証言の内容と証言評価に当たっての留意点

(一) 留意点

本件発生時前後の状況を目撃した四名のうち三名は、目撃した内容について、原審公判廷でそれぞれ次項のとおり証言している。反対尋問にさらされた供述である点では重視されてよいが、その証言にいたる経過には留意を要する点がある。すなわち、これらの目撃者らは、目撃後証言までの長い時間経過の中で、捜査官、保険関係者、マスコミ等から尋ねられ、宣誓供述書を作成する等した機会に、その時々に応じて様々な供述を重ねている。とびとびにされたこれらの供述は、供述時の違いによっておよそ四つの時期に分けて考察するのが便宜である。第一は、事件直後から翌年二月ころまでのいわば事件後間もない時期の供述、第二はその後本件のことが日本のマスコミで大きく取り上げられた昭和五九年(一九八四年)からしばらくの間にされた供述、第三に日本で捜査が開始された後の昭和六一年(一九八六年)初め以降の供述、第四に平成元年(一九八九年)以降の原審公判証言とその後の供述である。このように分類して全体の供述経過をみると、三人それぞれに程度差はあるが、全体として事件直後の供述は比較的短く、簡単であったものが、日時が経過するにつれて供述内容が詳細、具体的になる傾向が顕著で、供述内容にかなりの変遷があることが目立つのに、その供述変更の理由がはっきりしない部分が多いことである(この点は、公判証言を得られなかったニエトについても共通している。)。もとより、日本での騒ぎが大きくなり、事情聴取をする側の発問が詳細になれば、それに合わせて供述が詳細になってゆくことは避けられない。しかし、これだけ年月が経っているのに、後の供述の方が格段に詳しくなっているのが、単にそれだけの理由によるといえるかは、供述変更の部分や変更の経過をみると、疑問である。むしろ、時間が経ち、供述回数を積み重ねるにつれて、供述者が相互に影響を受けあい、例えば記憶がはっきりしない点をはっきりしているかのように思い込み、目撃したのはとびとびで、したがって記憶は断片的なのに、他の者の供述によって前後のつながりがつくように埋め合わせ、更に事件後知った事件のストーリーに合わせて目撃状況に意味付けをするなどして供述しているのではないかと感じさせられる点が目につくのである。各人固有の記憶内容を慎重に見極めなければならない。

次に、目撃環境に留意しなければならない。その一は、目撃地点と事件現場とは水平距離にして約二四三メートル、直線距離にして約二五〇メートル離れていた点である(甲四五九)。これだけ離れると、例えば動く人の方が止まったままの人より認識しやすい傾向があるし、細かな動作、容貌、手に持っている物等の識別はかなり困難で、性別の識別も着衣がくすんだ色であったり、ズボンでもはいていたりすると容易でないのが一般である。その二は、甲野が事件現場にいたのは、せいぜい一〇時五〇分ころからの約二〇分間程度のことであるが(甲野写真に現場の北方、フリーモント通り上に停車して時間調整をしていた路線バスが写っており、そのバスの発着時刻と、ボズギアンやソルターの通報時刻から把握できる。)、目撃者らは、仕事中、駐車場に目をやった理由について、当時本件駐車場で違法駐車の取締りがよく行われたので見ていた(アルガイヤーの一九八一年一二月一七日の再事情聴取書[甲三五二、同三五三]、ニエトの同日の再事情聴取書[甲三六二、同三六三])とか、泥棒がいないか見ていた(イエシドの一九八四年三月二七日の電話による再事情聴取書[甲三七二、同三七三])とか、更には友人が車両の盗難被害にあったことがあるから見ていた(ニーリーの一九八八年六月九日の宣誓供述書[甲三八二、同三八三])等と述べており、要するに、これらの者達は、多少は注意して見ていたが、そこで銃撃という重大事件が起こっているとか、そのときのことについて後日目撃者として証言することになるかも知れないなどとはおよそ想像もしないで見ていたのである。仕事の合間に、席を立って見たり、仕事に戻ったりしていたもので、注意力を集中させ、正確さを心がけて目撃していたわけではなかったといえる。

(二) 原審公判証言の内容

(1) アルガイヤー

①フリーモント通りの方を見たとき、窓のない白いバンが駐車しているのに気がついた。そのとき栗色の車(甲野車)が南に向かって走ってきて駐車場に入り、バンの西側に停まった。②停車した後、二人の人物が甲野車の後ろの方に現われた。③再び現場を見たときに、フリーモント通りの東側に立っている男性に注目した。この男性は、西側に向かって片方の腕を頭の上に上げて手を振るようにした。④また、少し目を離してから現場を見たとき、同じ男性が駐車場の北側で、駐車していた一台の車のそばにいて、南側に向かって手を振り、その後その場所から歩き始めた。⑤それからしばらく目を離していたが、次に見たときにはその男性は駐車していた一台の車の前にいた。それから駐車していた車のうちの二台の間(南から三台目と四台目の間)に移動した。駐車している車の前のところまできて、この男性は立ち止まって東側を向いていた。それから、車の前の部分に両方の手を置いて少し前屈みになった。そして、この姿勢でいるのを見ているうちに突然前方に倒れて、二台の車の間に見えなくなった(下の方に沈んでいって、それから前の方に倒れて見えなくなったともいう。)。⑥しばらく動きはなかったが、(二台の車のうちの)北側の方に駐車している車の運転席の横に一本の手が上がってくるのが見え、次に視界から消え、このような動作が三、四回繰り返された。車にいたずらをしているのかと思った。⑦このとき、同僚の一人と何が起きているのだろうと話し合い、別の同僚女性(ボズギアン)が警察を呼んだらいいんじゃないかと言った。そのとき窓際を離れた。⑧しばらくしてから、窓のところに近づいて再び現場を見たときは、フリーモント通りを北から南に歩いている女性を見た。この時点ではバンはいなかったが、どの時点でバンが現場を離れたのか覚えていない。バンに誰かが乗り込むというところは見ていない。グリーンの車は見ていない。事件のことを聞いてから、バンと栗色の車は関係があったのではないかと感じた。倒れた男性に誰かが近づいたことはなかった。

(2) イエシド

①アルガイヤーがニーリーに下の人を見ろ云々と言ったのを聞いて、西の方を見下ろした。②栗色の車が南の方を向いて停車していた。そのとき、まだバンはいなかった。③男性と女性と思われる人物が右駐車場の南側と甲野車との間で互いに写真を撮っていた。④そのうちの一人が道路を横切って東側のやしの木のところに来た。もう一人が多分フリーモント通りで、やしの木のところに立った人物の写真を撮っていた。⑤それから、二人は元の車の方に戻った。⑥再び見たときには白色のバンが甲野車の隣り、東側に平行に停まっていた。どこからあのバンが来たのかなと独り言のように言ったところ、ウイリー・タムがどのバンかと聞いたので、自分の眼鏡を彼に貸して説明した。⑦その次に見たときには、男性が駐車車両の西方に立っていて、甲野車の方に向かって手を振っていたが、誰かがその男性の写真を撮っているような印象を持った。それから、その男性は、駐車場西側の駐車車両の前を北や南に向かって歩き、それから車と車の間に止まったりした。それから、東の方に向かってこようとしたが、また止まって手を振った。その次に車に寄りかかってしゃがみ込んだ。うずくまっているようであった。⑧その男性が座り込んだのと同じくらいの時に、RTDバスが一台北に向けて通過した。ほんの少ししてから、甲野車のそば、もしくはバンのところ、もしくはその辺りから、別の男性が非常に急いで車のそばでしゃがみ込んだ男性の方に走り寄った。そこでのぞき込んだ。走り寄った男性は甲野車の方に走って帰った。車の中をのぞき込んでいるように見えた。その男性はバンの後ろを回ってバンの運転手席に飛び乗り、非常な勢いで走り去った。⑨それから、車と車の間にうずくまっていた男性は、甲野車の方に向けて今度は何か助けを呼んでいるふうに手を振った。それから一、二分の間、そのうずくまっていた男性は、甲野車の方に向けて近寄ろうという努力をしているように見えたが、あまり近寄らなかった。⑩数分後女性が南に向かって通り過ぎ、倒れた男の方を見下ろしていたが、立ち止まらずに歩いていった。グリーンの車が南から北へ非常にゆっくり、しかし止まらずに走り、どこかでUターンして現場へ帰ってきて、歩くぐらいに速度を落として通り、加速して去った。男はなお誰かに助けを呼ぶような仕草を続けていた。⑪数分が過ぎたところで、フリーモント通りの東側のカーペットの倉庫の建物から二人の男性が現れ、倒れている男性、甲野車の方に向かっていった。

(3) ニーリー

①事件現場の駐車場を見ていたところ、淡い色のバンが北の方角から乗り入れてくるのが見えたが、誰も降りてこなかった。②一台の車がこのバンのすぐ後ろの右側に停まった。それを見て、アルガイヤーに麻薬の取引が行われるようだと話した。アルガイヤーも一緒に見た。③後で来た車から男性と女性が現れた。二人とも車の後部に回って、女性がカメラを手にしている様子で何かを話していた。④男性は車の後部から南東に向かって歩き、やしの木の方に向かっていった。そして、女性の方に向かって立ち、両手を頭の上で広げたり交差させたりして手を振った。女性はカメラを顔のところに当てていた。シャッターを切ったと思う。⑤男性は元の車の後部付近に戻ってきた。それから、トランクを開けて、何か会話をしてカメラに何かをした。フィルムを入れたのかも知れない。それから、二人とも、バンの後ろに隠れる形で視界から消えた。⑥数分後男性が現れてバンの位置から西側へ向かっていった。駐車場の南西角で女性の方に向きを変え、次に駐車車両の前を通って北の方に向かった。男性の方が写真を撮られる側であると思っていた。それから立ち止まって二台の車の間に立った。立ち止まったときに、前にある車のフェンダーの部分に両手を置いた。男性は東側を向いていた。そこでその男性は倒れた。倒れ方は、ちょうど下にもぐり込むとか、車の横に入るような形をとった。頭が下がった状態、屈んだような状態で下がったが、自分でコントロールしているような普通の早さであった。そのときにその男性が車から何かを盗むのか、あるいは車自体を盗むのではないかと疑った。⑦キャロルが警察に電話をかけ、その間数秒間目を離しているが、それがその男性が倒れた前か後か分からない。そのすぐ後で、その男性の手が数秒の間隔で上がるのを見た。⑧男性が下に倒れた後でバンは走り去った。⑨それから、女性が通っていくのを見た。⑩少し経って二人の男性がその駐車場の通りの向かいの建物の中から現れた。

2  甲野の原審公判供述の概要

これに対して、甲野の供述内容は、概略次のとおりである。

一一月一八日の事件当日、朝九時ころCと共にレンタカーのフェアモントに乗ってCCMを出た。CBH商品のロゴマーク作成の参考にしたいという社員の希望を容れて、ロスあるいはカリフォルニアをイメージした写真を撮るためであった。モーテルを出た後、主としてCが多数の写真を撮った。形のよいパームツリーを見つけたので、テンプル通りから入って、本件現場であるフリーモント通りに面したオフセット駐車場のそばに車を停めた。そのとき、白いバンが駐車していることには気がつかなかった。甲野車と通りの間に車は無かった。Cと二人でパームツリーの方に行ったり、また戻ってきたりしながら、お互いに写真を撮った。その間何台かの車両やバスが通りかかり、そのうちの何台かは写真を撮っているのを見て止まってくれた。その中に白っぽいバンもあった。途中でフィルムを交換した。ロスの高層ビル群とパームツリーとその下にたたずんでいる女性のイメージで撮ろうとして、Cを駐車場の道路付近に立たせ、自分は駐車場の金網ぎりぎりのところまで下がり、カメラを持って構え、ファインダーをのぞきながら、立つ位置を指示したりしていた。そのとき、Cが、ばたんと鉛筆が倒れるように倒れた。何の声も聞こえなかったし、銃声も聞こえなかった。その場面はファインダーを通して見たと記憶している。滑ったかと思って、どうしたのと声をかけた。Cの方へ行こうと思って、一、二歩動き出すか出さないうちに、今度は自分自身の足に衝撃があった。バンという銃声が聞こえた。ガードレールを越えた位のところであった。カメラを落とし、尻もちをつくような恰好で後ろに倒れた。そのとき、道路の方を見ると、グリーンの車が北向きに停まっており、その運転席側にいた男が、車の中に何か一メートル前後の細長いものを投げ入れて自分の方に向かってくるのが見えた。その男は自分のところまで来て、私の胸ぐらをつかみ、右の腰のところを蹴飛ばし、身体を横向きにされた。男は、ジーンズの後ろのポケットから現金を奪いとった。男はサングラスをし、鼻の下に口髭をし、頭を後ろで縛った白人であった。もう一人は助手席にいた男であるが、Cの近くでポシェットを引っ繰り返して何か探していた。白人であったと思う。それから二人はグリーンの車に乗って北に向かって走り去った。その後、車を伝いながらCの方に行って、持っていたカメラを無意識に置いた。通行人はだれも助けてくれなかった。一人の女性が通りかかったので助けてくれるように叫んだが、私たちの方に近寄ってのぞき込んだだけで、立ち去った。甲野車の所に行ってクラクションを鳴らした。一人の男が来た。そのとき、私は、フェアモントの横に立ち、腕を後方に指してCが倒れていることを示すような動作をした。その男はテンプル通りのほうに走っていった。その後、救急車やパトカーが来た。当審での供述も大体同じである。

三 白いバンの停車とその移動等

検察官は、犯行当時、オフセット駐車場のすぐ東側、フリーモント通り沿いに白いバンが停車しており、これが道路東側方向に対して死角を作る役割を果たし、その死角となった付近から本件銃撃がされたと主張している。そこで、まず、白いバンが、本件当時その位置に停車していた事実があるかどうか、またその白いバンは、犯行前に現場に到着し、犯行後に立ち去ったと認められるかを検討しなければならない。

1  白いバンの存在

前記目撃者らのうち、原審公判で証言した三名は、そろって、銃撃があったと考えられるころ、犯行現場のすぐ東側のフリーモント通り上に、白いバンが停車していたと述べている。公判での証言を得られなかったニエトも、公判外で同様の供述をしている。アルガイヤーやニエトは、事件直後に事情聴取にきた警察官バーンズにそのことをはっきり述べているから、その供述を疑う根拠はない。また、Cが銃撃を受ける直前に本件現場で撮影した甲野写真ナンバー13の左下部分に、車両のウィンドウピラーやドアフレームの一部と思われるものが写っているが、車両の位置関係からみて、これが目撃者らが見たという白いバンの一部ではないかと考えられる。弁護人の意見中には、道路を走行中であった車両の一部が偶々このように写ったのではないかと述べる部分があるが、写真にぶれがないこと等からみて、そのようには考えられない。これらの点からみて、本件発生当時、現場に、目撃者がいう白いバンが停車していたことは事実と認められる。

2  白いバンは先着していたか

前記のとおり、甲野写真ナンバー13に写っているのが、バンと思われる車両の一部であるとすると、白いバンと甲野車が揃った後で、本件が起こったことは間違いないことになる。

白いバンと甲野車のいずれが先着していたかについて、目撃者らの公判証言は、必ずしも一致していない。すなわち、アルガイヤーとニーリーは、バンが先に停まっていた、そこへ甲野車が後からやって来て、オフセット駐車場に駐車中であった車両とバンとの間にいわば割り込むようなかたちで停車したと述べ、イエシドは、反対に、最初甲野車に気づいたときにはバンはいなかったと述べている。

そこで、各目撃者らの、目撃直後からの供述経過をもう少し子細に点検してみる。まずアルガイヤーの右供述は、目撃直後に捜査官に対して右のとおり述べたのを初めとして(FIカード[甲三二二号証]、交信チケット[物五五七]、バーンズの原審証言)、その後の供述も一貫している(一九八一年一一月二五日の事情聴取書[甲三五〇、三五一]、一九八二年二月一日のラジュネ社の事情聴取結果報告書[物三三六、甲五三四]、一九八六年一月一〇日のロス郡検捜査官報告書[甲三五四、三五五]、一九八八年六月九日の宣誓供述書[甲三五六、三五七])。ニーリーの供述は、かなり日時が経過した一九八六年以降になされているが、「横に窓のないバンがテンプル通りの方から南にゆっくり進み、……駐車場南端の車の後方に停まった。……一ないし二分後に濃い栗色の車がバンの助手席に沿って入ってきて駐車した」と供述し(一九八六年一月八日のロス郡検捜査官報告書[甲三八〇、三八一])、同趣旨の供述をその後も維持している(一九八八年六月九日の宣誓供述書[甲三八二、三八三]、一九八九年七月一一日の供述書[弁A甲一九、二〇])。ところが、イエシドの供述は、この点について大きく変遷している。すなわち、目撃直後の供述ではその点に触れていなかったが、目撃翌年には、「まず白いバンが駐車しているのに気づき、後で小さい赤い車が走ってきて、バンのそばに通りの左側を向いて停まるのを見た。」と述べて、小さい赤い車というのが甲野車のことと思える供述をしていたが(一九八二年二月一日のラジュネ社の事情聴取結果報告書[前出])、一九八四年三月、日本のマスコミからの取材を受けた時期以降には供述を変更して、甲野車が先に来て、そこへ白いバンが来たと述べている(一九八四年三月二七日の電話による再事情聴取書[甲三七二、三七三]、一九八六年一月八日のロス郡検捜査官報告書[甲三七四、三七五])。ところが、その後また供述を変更し、「その車が両方ともすでにそこに駐車していたのか、又はそのうちの一台がもう片方の車より前に到着していたのかは思い出せません。」と述べたのに(一九八八年六月八日の宣誓供述書[甲三七六、三七七])、その後にはまたまた供述を変更して、「白いバンがやってきてマルーン色の車の左側でやや前の方に停車したのを覚えています。」と述べているのである(一九八九年七月一一日の供述書[弁A甲二三、二四])。もう一名の目撃者であるニエトは、当初の捜査官に対する供述等では、最初に見たときにはすでに両方とも駐車していたか、あるいはどちらが先にきたのか思い出せないと述べていたが、その後一九八九年七月一一日の供述書(弁A甲二一、二二)で初めて、先に甲野車が停車していて、その後五分ほどして白いフォードのバンがやってきたと供述するようになり、更に一九九六年四月二五日の陳述書(控弁A八、九)においても、五分ないし一〇分後に白いバンが来て、甲野車の左側に停車したのを見た旨供述している。このように、白いバンと甲野車のどちらが先着していたかについて、目撃者の供述は割れている。

検察官は、アルガイヤーやニーリーの供述が具体的であるからこの供述を信用すべきであると主張する。もし同人らの供述どおり、白いバンが先着していたとすると、甲野車が現場へ到着する直前に、フリーモント通りの北方の、丁度路線バスが停車して時間調整をしていた辺りで、甲野が、路線バスの写真を撮影したり、Uターンを繰り返したりして、やや無駄とみえる行動をしていたのは、そこからすぐ近いオフセット駐車場へ到着する時間調整をしていたためではなかったかと考えることができ、そうなれば一応納得できる筋書きになるところである。原判決は、アルガイヤーの供述を信用すべきものとし、その理由として、同人の供述は目撃直後から一貫していること、現場に最初に注目したのはアルガイヤーで、他の目撃者らは同人から言われて現場に注目するようになった経緯であったこと、同人は現場に注目した理由を具体的に述べていること等の点を挙げている。アルガイヤーの供述が、これらの目撃者らの供述の中ではもっとも一貫しているほか、同人は記憶にあることとそうでないことをかなり正確に区別して供述しようとしていることが、質問に対する応答から読み取れるので、誠実な証言態度とみえ、各証言の中では最も信用できると判断される。ただ、同人の証言中には、二台の車が揃ったのを見て、その間で麻薬取引でも行うのではないかと感じ、注目するようになったとする点がある。この供述どおりであったとすると、同人は二台揃ったのを見てから、他の目撃者に見るように言った順序になるから、二台の車が揃うところを見たのは同人だけということになりそうにもみえる。ニーリーも、麻薬取引云々の話をしたことを原審証言の中で認めていて、その点はアルガイヤーの供述と符合してもいる。ただ、二台揃うところを見たのはアルガイヤーだけであったとまでいえるかには多少問題がないではない。例えば、イエシドは、アルガイヤーがニーリーに言ったのは、「下を見ろ」「何をやっているんだ」「観光客のようだ、写真を撮っている」などということであったように述べているし、また、車を盗んでいるようだというボズギアンの通報内容が、その時点での目撃者らに共通の受け止め方であったことを加味して考えると、アルガイヤーがいう麻薬取引ではないかとの不信感を抱かせる目撃状況であったとまでは直ちにいえそうにないからである。また、イエシドのこの点に関する前記公判供述もかなり具体的であるから、直ちに否定してしまうことは躊躇される。結局、白いバンの先着関係に関して目撃者の供述全体を総合判断すると、目撃者の供述中では、やはりアルガイヤーの供述が他の供述よりは最も信用性が高いと考えるのが相当であるが、白いバンが先着していたと断定することまではできない。

3  バンは本件銃撃後に立ち去ったか

現場に白いバンが停車していたとしても、もしそのバンが現場を離れた後で、Cが銃撃被害を受ける事態が持ち上がったとすると、バンが本件に関係があったとは考え難くなる。そこで、銃撃が起こったと思われる時期とこのバンが現場から走り去った時期の前後関係を検討しておかねばならない。

まず、ソルターは、叫び声を聞いて絨毯工場から道路へ出て甲野やCを発見しているが、このとき、付近に白いバンがいたとは供述していない。同僚のロイ・ジョーンズについても同様である。バンがいたのならば目についたであろうと考えられるから、ソルターが警察に通報した一一時〇八分の直前ごろには、バンはすでに走り去って現場にはいなかったと考えられる。次に、事件直後に、警察官バーンズが水道電力局でアルガイヤーとニエトから事情聴取をし、同人らの供述を書き込んだFIカード(前出)には、「被害者が下に沈み、バンはダイヤモンド通りの方に走り去った。」と記載されている(このFIカードは、アルガイヤーの分とニエトの分の二通が作成され、右の供述内容はアルガイヤーの分に記載されているが、実際は両名から同じ機会に聴取し、両名の供述内容が同じであったために、アルガイヤーの分にまとめて記載されたものと認められる。バーンズの原審証言[148-873, 149-956, 997, 1006])。このとき、バーンズは、そのバンが犯行に使用されたのではないかと考えてその旨を通信司令室に通報したことが認められるから、これによると、アルガイヤーやニエトは、被害者が下に沈むのとバンが走り去るのとを一連のつながった出来事として理解・記憶し、その旨供述したものと思われる。そして、目撃者らは、全員、駐車場にいた甲野と思われる男性が倒れるような動作をした後、白いバンが現場から走り去ったと述べている。

ただ、右の点について、アルガイヤーは、原審証言中で、バンが走り去ったところは見ていないと述べ、また証言後の一九九六年四月二四日の陳述書(控弁A六、七)でも同様に述べている。しかし、同人は、それまでの供述では、他の者達と同様に、男が倒れたその後でバンが走り去ったと供述していたのであるから(一九八一年一一月二五日の事情聴取書[前出]、同年一二月一七日の再事情聴取書[前出]、一九八六年一月一〇日のロス郡検捜査報告書[前出]、一九八八年六月九日の宣誓供述書[前出])、原審証言時までの日時の経過によってこの部分の記憶に欠落を生じただけと窺われるから、これを実質的な供述変更とみる必要はない。また、イエシドの供述中には、「バンが立ち去り、そして男が倒れ、地面をはうのを見た。」と述べているものがある(一九八四年三月二七日の電話による再事情聴取書[前出])。しかし、これは、同人の他の供述と対比すると、バンと男の様子を各別に記載しただけで、それぞれの前後関係を表したものとは読めないから、異なった供述とは理解されない。

以上述べたとおり、これらの目撃者の供述等を総合すると、バンは、甲野が二台の駐車車両の間に倒れた後でその場を走り去ったと認定してまず問題はないと考えられる。そうなると、本件では、Cが銃撃された直後に甲野が銃撃されたことに争いはなく、これは明らかな事実といってよいから、銃撃行為が持ち上がった時点で、現場付近に白いバンが駐車していたことは、証拠上明らかだとみてよい。

四 白いバンで走り去った人物の現場での動静について

白いバンに乗って現場を立ち去った人物は、現場でどのような行動をしていたか。検察官は、このバンで現場に臨場した人物がCを銃撃し、引き続いて強盗事件を仮装するために甲野の足を銃撃したり、Cのポシェットの中身を付近にまき散らしたりしたと主張している。

1  原審証言中でその点についてもっとも詳しく供述しているのはイエシドである。前記のように、同人は、この人物の行動に関して、甲野と思われる男性がしゃがみ込み、ほんの少し後で、甲野車のそばか、バンのところか、あるいはその周辺から、別の男性が現われて、非常に急いで車のそばでしゃがみ込んだ男性の方に走り寄り、そこでのぞき込んだ、そして、走り寄った男性は甲野車の方に走って帰り、車の中をのぞき込んでいるように見えた、その男性はバンの後ろを回ってバンの運転手席に飛び乗り、非常な勢いで走り去った、と供述している(原審証言[155-2920])。もし、この男の現場での行動がこの供述どおりであったとすれば、バンに乗って走り去った男は、倒れていた甲野に近寄って一体何をしたのかが大きな問題にならざるを得ない。そこで、この点に関する同人の供述経過を点検すると、同人は、目撃直後に供述したときには、「車の間で倒れている男に誰かが近づくのは見なかった。」と供述して、例えば強盗犯人が倒れた男に近づいたような場面は見ていないと否定していたところ(一九八一年一一月二五日の事情聴取書[甲三七〇、三七一])、約四年経過後に、初めてバンに乗り込んだ人物の存在について言及し、その時には「一人の男がバンから降り、バンの前を通って栗色の車の前の方に歩くのを見た。……しばらくして二台の車の間で男が倒れるのを見た。……一人の男がバンの後方から現われて運転席に入るところを見た。……バンが南へ急いで走っていった。」と供述したのである(一九八六年一月八日のロス郡検の捜査官報告書[前出])。そして、その後も同様に、「男が突然うずくまった。二台の車のフェンダーに両手をつき、両足を前に出して、地面に沈むように見えた。……怪我をしたようなものではなく、車の下をのぞき込んでいるように見えた。車泥棒だと思った。……どこから現れたのか分かりませんが、違う男性に気がついた。この男は、先ほどの男の人と栗色の車の助手席側に近づきました。どちらに先に近づいたかは思い出せません。それからこの男は走って白いバンの運転席に飛び乗り、急いで車を走らせた。」と述べ(一九八八年六月八日の宣誓供述書[前出])、バンの前部を回っていったのか、後部を回っていったのか思い出せないとしながら、やはり、バンに乗り込んで走り去った人物が倒れた男に近づいたことを述べ、こうして原審公判でも、同様に供述しているのである。

2  ニエトは、目撃後まだ記憶の新しい時期にした供述の中で、少し目を離して「再度この場所を見たとき、一人の男(人相不明)が白いバンの陰から白いバンの運転席のドアまで素早く歩いて乗り込み、被害者のいるところからフリーモント通りを南の方へ運転していくのを見た。このとき、駐車している二台の車の間で倒れている一人の男が手を振っているのを見た。」と供述し(一九八一年一一月二五日の事情聴取書[甲三六〇、三六一])、次いで「一人の男がその白いバンから降りるのを見た。……そして(一時目を離し)三度目に外を見たとき、一人の男が青い車のそばで倒れ、別なもう一人の男がバンに乗り込んで走り去るのを見た。」と供述し(同年一二月一七日の再事情聴取書[甲三六二、三六三])、その後も同様に、「一人の男がバンを降りるのに気づいた。……この人がバンの周りを回ってバンの西側へ歩くのを見たことを急に思い出す。……バンの近くにいた人がバンに乗り込むのを見たかどうか思い出せないが、もう一方の人が倒れた後にそのバンが去ったのは覚えている。」(一九八六年一月八日のロス郡検捜査官報告書[甲三六四、三六五])と述べ、全体としてみれば、ほぼ一貫して、現場でバンに乗り込む動きをした人物がいたことを供述しているのである。

3  検察官は、イエシドやニエトが、バンから降りたりこれに乗り込んだりした人物について供述していることからみて、供述どおり白いバンに乗り込んだ人物がいたこと、及びイエシドの供述にあるとおり、その男は現場で甲野に近づく等の行動をしたことは間違いがない、というのである。

ところで、白いバンが南に向かって走り去った以上、そのバンを運転した者がいた筈で、その者が運転席を出入りするような行動をし、それを一部の者が目撃したということは、一般的にはあり得ることと思われる。しかし、アルガイヤーとニーリーが、両名とも、甲野と思われる男性が倒れるような動作をした場面を目撃したといいながら、その倒れた男性に近づいたり、のぞき込んだりする行動をした者には気づかなかったと述べるのは一体どういうことなのか。アルガイヤーがその点にも注目していたことは、同人の供述を見ればよく分かる。例えば、同人は、「突然、そして瞬時に、この男は青色の車の運転席ドアのそば辺りで倒れた。約一分後、白いバンが走り去った。」(一九八一年一一月二五日の事情聴取書[前出])、「二台の車の間にいる男が手を振っており、それから別の二台の駐車車両の間に移動し、そして前方に倒れるのを見た。その動きを一分間続けてみていたが、その間にバンは走り去った。」(一九八一年一二月一七日の再事情聴取書[前出])、「二台の車の間に移動し、前部フェンダーに両手をついて……突然前方に倒れてひざまずき、車の間に見えなくなった。次に手が現れては消え、また現れるのに気づいた。しばらくの間見ていると、突然白いバンが走り去った。」(一九八六年一月一〇日のロス郡検捜査報告書[前出])云々とのべ、その後も同様の供述をし(一九八八年六月九日の宣誓供述書[前出])、「男が二台の車の間に沈み込んだとき、その近くには誰も見えませんでした」と述べてもいる(一九九六年四月二四日の陳述書[前出])。原審証言も同様である。ニーリーも、その点についてほとんど同様の供述をしている。これによれば、両名とも、男が倒れたことやその後の動きによく注目していたというのに、バンが走り去るまでの間に倒れた男に近寄った別の男がいた様子は全く目撃していないというのである。丁度そのころキャロルが警察に電話をかけていたようであるから、同人らが、それにつられて一時目を離したことも考えられないことではない。しかし、ニーリーは、原審証言中で、目を離したのはごく短時間だから、その間にそのような事態が生じたとは考えられないと述べている。

そのような疑問を持ってイエシドやニエトの供述を再検討すると、両名の供述にはかなり疑問を感じさせる点が目につくといえる。まず、イエシドの場合、右のように供述し始めたのは、先に述べたとおり、事件後四年以上経過した一九八六年のロス郡検捜査官報告書においてであった。それ以前には、そのような人物がいたと供述した形跡は全くない、むしろ目撃直後には、前記のとおり、「車の間で倒れている男に誰かが近づくのは見なかった。」と述べていたのである。目撃直後の記憶が時間の経過によって失われることは理解できるとしても、目撃直後には否定していたことを、四年経過後になって詳しく思い出すということは容易に考えられることではないから、この点に関するイエシドの供述変更には疑問が持たれて当然である。更に、一九八四年三月二七日に電話で事情聴取されたときの供述でも、「甲野車の人物(男)が下車して何らかの行動を行っているのを見た後で、白いバンがやってきてそこに約三〇秒くらいいて、それから南に走って行き、男が地面に倒れ、何かから隠れようとするようにはうのを見た。」と述べておりながら、その中では、白いバンの人物が倒れている男性に近寄ったというような供述は一切していない。加えて、この一九八六年のロス郡検捜査官に対する供述中では、白いバンがその場に停車してから、一人の男性がバンから降り、バンの前端から甲野車の前の方に歩いて行くのを見たと言って、バンから降りて行くときのことから目撃したように供述していたのに、一九八八年の宣誓供述書においては、降車時の状況は目撃していないと文脈上読みとれる趣旨の供述をしている点も目につく。これによれば、詳しく述べ始めた当時の供述には、供述の信用性を高めようとして、誇張した点があるのではないかと感じられる。これによれば、白いバンの男が倒れた男に近づいたり、のぞき込んだりしたというイエシドの供述を、直ちに信用することは躊躇される。

次に、ニエトの供述についてみると、同人は、目撃直後に水道電力局八階で、アルガイヤーと一緒に警察官バーンズの事情聴取に応じ、その結果FIカードが作成されている。したがって、もし同人がそのようなバンに乗り込んだ人物を目撃していたのであれば、あるいはこのときにそのことを目撃状況として述べ、これがFIカードに記入されていてもよさそうであるが、同カードには白いバンが走り去ったことの記載はあるのに、右の人物についての記載は見当たらない。FIカードの記載は簡単であり、また、供述のすべてが記載されるとは限らないかも知れない。そこで、ニエトのその後の供述をみると、事件後約一週間経過した一九八一年一一月二五日の事情聴取書以降、一九八九年七月一一日までの間の七通の供述書等の中で、大体は、男がバンから降りるところも、その後バンに乗り込んで走り去るところも見たと供述している。ニエトの供述も、イエシドの供述と同様に、日時経過後に詳しくなる傾向が見られるので、信用性について全く疑問がないわけではないが、しかし前記の限度では供述の揺れが少ない点からみて、一応そのとおりと考えられる。しかし、同人は、バンから降りた男の現場での動きについて、車両の間で倒れ込んだ男の近くには行かなかったと供述しているのである(一九八九年七月一一日の供述書[弁甲A二一、二二])。

以上によれば、これらの供述によって、男がバンから降りたり、またバンに乗り込んで走り去ったとの事実までは認めることができるが、バンから降りた男が、倒れるような動作をした甲野と思われる男のそばに近寄ったり、甲野車をのぞき込んだりする行動をしたかどうかは、結局証拠上判然とせず、認定できるほどのはっきりした証拠関係にはないとみるべきである。

五 銃撃の態様、銃撃位置等の関係

Cや甲野を銃撃した者が現場にいたことは、客観的には動かし難い事実である。銃撃の場面を目撃した者がいてもいなくても、この事実自体には何の変わりもない。そこで、犯行前後の状況については目撃者があるのに、その者達の誰もが銃撃犯人の存在や銃撃行為のそれと分かる場面を目撃していないのは、おそらく現場付近に停車していたバン等に視野を妨げられて、銃撃がその陰に隠れて行われたからであろうとした原判決の判断には、一応合理的な理由があるといえる(Cの姿の一部は見えた筈であると当事者双方が主張している点については後述する。)。それでは、銃撃行為を、他人に目撃されないように物陰に隠れて行った者は、そこへ来る前には、どこからどのようにしてやってきて、銃撃後どのようにして立ち去ったのか。その銃撃犯人は白いバンでやって来た人物であると見るのが自然なのか、甲野がいうグリーンの車でやって来た人物であるとみる余地があるのかを検討するため、銃撃の態様や銃撃位置について検討してみなければならない。

1  白いバンの人物にとって銃撃位置となりうる地点について、検察官は、停車したバンとの関係で、水道電力局ビルから死角となる位置である、より具体的には、検察官らが、一九九一年一月一〇日から一二日までの間に、本件現場で実施した射撃可能エリア等に関する大がかりな実況見分とその検討結果に基づいて、Cに対しては、バンの車内やバンの西側から銃撃が可能であり、甲野に対しては、バンの西側、甲野車の車内及び甲野車の西側から銃撃が可能であるが、甲野が主張するグリーンの車又はそれを下車してすぐの地点から銃撃することは困難であると主張している。ところで、銃撃の位置と態様を考えるに当たっては、本件の犯行態様に沿ったいくつかの前提が必要である。すなわち、本件銃撃は、Cと甲野の双方に対して行われ、しかもいずれの銃撃行為とも、それと分かる形で目撃されていないから、想定される銃撃位置は、水道電力局ビルに対して結果的に死角となる範囲内であることが必要である。少なくとも、目撃の容易な位置というのでは、目撃状況と合致しない。また、C(身長一六四センチ、靴のかかと二センチ)の顔面に射入した弾丸の飛来角度(正中面に対して三〇ないし三三度内外の左外側から射撃されたもので、平面仰角は約一六度、プラスマイナス二ないし五度。ただし、顔の向きによって一定ではないことがある。)に合致するかどうか、甲野の大腿部に射入した弾丸の飛来角度(左前方約三〇度)や地上高(裸足時の地上高約七〇センチ)にも合致するかどうか、銃撃位置とCや甲野のいた位置の間に駐車車両の車体が介在するときは、その車体の高さ等によって視野や銃撃角度が妨げられていないかどうか、妨げられていない場合にも、銃撃の困難さの程度はどうか等々の点を考慮しなければならない。

2  まず、Cに対する銃撃可能地点として、検察官は、バンの中(特に荷台)とバンのすぐ西側を指摘している。この場合は共に、銃撃位置と被害者の位置との間はせいぜい数メートルの至近距離ということになるが、前記実況見分の結果によると、Cが別紙図面1のV点ないしV点とW点との中間点あたりの位置にいたとすれば、バンの荷台からCの頭部をねらって銃撃することは十分可能とみられる(写真撮影報告書第三分冊[甲五五三]写真四三[99-13370]参照)。その場合、バンの荷台のドアを大きく開放しない状態でも銃撃は可能であるが、CがW点にいたとすると、バンの荷台からねらうには、バンの運転席、助手席の背もたれが邪魔になるため、ドアをある程度開放しないと不自然な姿勢を強いられる(同写真撮影報告書第三分冊写真四五[99-13372]参照)。なお、Cが受傷した際の弾丸の射入方向及び射入角度は、前記のとおりであるが、Cが銃撃を受ける直前に、甲野の供述するとおり、ロスの高層ビル街の方向、すなわち南東の方向を眺めていて、そこを銃撃されたとすれば、地上からある程度の高さがあるバンの荷台の床部分(地上約七〇センチ、甲三〇六参照)から銃撃しても、Cの受傷角度と矛盾することはないとみられる。ただ、バンの荷台から銃撃する場合には、銃撃前にバンのドアを少し開けてあらかじめ構えておくか、そうでなければ銃撃前にバンのドアを開放しなければならないから、至近距離ということもあって、どうしてもCに気づかれやすいことを考慮しなければならない。これを避けるためには、最初から助手席の窓を通してねらうことも考えられるが、その場合にも、車体の直前にいるCに気づかれる可能性が高い点は同じであろう。次に、バンの外(西側)に出て銃撃する場合には、Cが前記したどの地点にいても、銃撃そのものは可能であり、またCの受傷角度と矛盾するところはないが、バンの中から銃撃する場合以上にCに気づかれやすく、犯人がそのような危険をあえて冒すとはいささか考えにくい。至近距離からの銃撃であるだけに、ねらいを外すことは少ない代りに、どうみてもCに気づかれ、顔を見られやすい点に難点がある。

検察官もそれらの事情を認め、甲野の控訴趣意に対する答弁書中(一二六頁以下)で、右の銃撃方法をとる場合には当然Cに気づかれるとした上で、それでもなお隙を見て撃つことができるためには、Cが銃撃犯人に対して警戒心を持つ必要がない状況があればよい、例えば銃撃犯人がCと旧知であったり、甲野が犯人をCに紹介していたりすれば可能であるとか、もしそうでないのならば、例えばライフルを荷台の陰に隠しておいて、隙を見て素早く銃撃等することも可能であり、その場合にはCが銃撃者の方に顔を向けることもあり得るから、射入角との間に矛盾も生じないであろうという。しかし、このような条件設定は、机上の想定としては不可能ではないとしても、現実の問題としてどの程度実際的かとなると疑問が多い。特に、銃撃犯との関係をCに知られた上、未遂に終わるようなことがあっては取り返しがつかない。このような点も考慮に入れると、難点が多過ぎるとの感を免れない。

要するに、検察官が説明するような銃撃の態様、位置関係は想定可能であるが、現実問題としては、机上で想定するほど容易ではなさそうに思える。そして、以上の判断は、甲野車が、検察官主張の位置より多少ずれていた場合でも、基本的には変わりがない。

3  次に、検察官は、甲野に対する銃撃可能地点としては、バンの西側付近、甲野車の車内及び甲野車の西側等を指摘している。この点の検討に当たっては、甲野がオフセット駐車場に駐車していた六台の車両中、南から三台目(スバル)と四台目(フィアット)の車両間の、どの程度フリーウェイ寄りの位置にいたかによって、銃撃方向の面で制約を受けるほか、負傷した大腿部は車両のボンネット、トランクよりも低い位置になるために、車体高による制約を受けることになる。

そのことを前提として、まずバンの中から銃撃できるかどうかを見ると、この場合、検察官がいうように(答弁書一三六頁以下)、前記一九九一年一月の実況見分の結果からすれば、甲野が別紙図面1のA点やB点にいたとき、抽象的には、バンから銃撃できる可能性がなくはないが、実際にそこから撃つとすると荷台の相当高い位置から撃つことになって、かなり不自然であることは否めない(写真撮影報告書[甲五五一]写真一〇[99-13333]、一一[99-13334]参照)。もし、甲野が、C点、D点にいたときには、甲野車に近づくことになるため、同車の車高が妨げになって、バンの中から銃撃することはほとんど不可能とみられる。そこで、車外の、バンの西側付近からの銃撃について検討すると、この場合にも銃撃する者の姿が、バンによる死角の範囲内にある点では問題はないが、甲野車のフロントガラスやボンネット(ボンネット中央部の地上高約八二センチ)越しに銃撃することになるし、不可能ではないにしても、銃撃地点と甲野との距離が甲野車の西側に回り込んだ場合と比較すると長くなり(B点まで約三ないし四メートル)、また、立った姿勢での銃撃を余儀なくされるために、銃撃目標を正確に撃ち抜くことが難しくなる点に難点がある。結局、甲野車の西側から銃撃するのが最も間違いが少なく、可能性が高い銃撃方法だと考えられ、そのような銃撃方法ならば甲野の受傷状況と矛盾するところがない。しかし、このような態様で甲野を銃撃しようとすれば、Cを銃撃した後で、甲野銃撃のため甲野車の西側に移動することが必要となり、移動する動きを目撃されるおそれが生じるのに、イエシド以外にはオフセット駐車場内で男の動いた姿を目撃した者がいない点に疑問が残ることになる。二五〇メートル程度離れた地点からは、動かない物よりも動く物ははるかに気づきやすいとみられるからである。この場合、甲野が銃撃されたときにいた位置は、同人の供述によっても必ずしも明らかではない。しかし、それにしても、甲野に対する銃撃の地点として検察官が主張する範囲内では、甲野車の西側からの銃撃が可能性が高く、最も考えやすいといえるであろう。

甲野の弁護人は、甲野車の西側で銃撃したとは認定しにくい理由として、その付近に空薬きょうがなかったことを挙げている。確かに、ライフル銃で発砲した場合、通常ならば発砲場所付近で空薬きょうが見つかる筈なのに、本件でそれが一つも見つからなかったということは、いかにも不自然である。車内から発砲して、空薬きょうを車内に積んだまま走り去ったか、それとも一旦は付近に飛び散った空薬きょうを、銃撃後意識的に拾い集めて持ち去ったかのいずれかとしか考えられない。しかし、発射された弾丸から銃器が特定されることが考えられるのに、空薬きょうだけを拾い集める意図ははっきりしないし、またCのポシェットに入っていた現金をまき散らしておきながら、空薬きょうだけは拾い集めて持ち去ったとすると、それは、かえって単純な強盗事犯ではないと見るべきかも知れない。ただ、このことは、発砲場所がどこであっても、車内でない限り、生じる疑問であり、甲野車の西側と考える場合だけについての疑問ではない。

C及び甲野が現実に銃撃を受けている以上、現場付近に銃撃可能な地点があったことはあれこれ詳述するまでもなく明らかであるが、場所による銃撃可能性の大小を加味していえば、その具体的地点は、Cに対しては白いバンの中あるいはその西側、甲野に対しては甲野車の西側がもっとも可能性が高いとみられる。しかし、その関係では、この銃撃が、白いバンで臨場した人物によって敢行されたかどうか、またその人物は犯行を偽装するために甲野の足も銃撃したかどうかといった点について、これを確定させるまでの情況証拠があるとはいえない。

六 強盗犯の存否

甲野は、グリーンの車でやってきた二人組の人物に銃撃、強奪されたと主張するが、検察官は、甲野が供述するグリーンの車の強盗犯が存在しなかったといい、むしろ甲野のこの主張は、甲野が白いバンで走り去った人物が犯行に関与したことを知っていて、その上でことさら白いバンのことを隠そうとしたものであり、甲野の犯人性を示す情況事実の一つと理解すべきであると主張している。そこで、甲野のいうグリーンの車の強盗犯による銃撃の可能性が現実にはなく、あるいは強盗犯は実際には現場にいなかったといえるかを検討する。

1  強盗犯による銃撃の客観的可能性(銃撃の位置関係)

甲野は、グリーンの車は甲野車の後部付近の、フリーモント通り上に北向きに停車し、これに乗ってきた二人組の強盗が、その車内あるいは車外に出てすぐの付近から、Cと甲野を銃撃して襲ってきたと供述する。その供述によると、銃撃犯人はCと甲野を相次いで撃ち、銃撃後その車中に一メートル位の長い物を投げ込んでから近づいてきたというのであるから、この場合の銃撃位置は、Cを撃った後、間をおかずに甲野を撃つことが可能な地点ということになる。そこで、甲野のこの供述を一応の前提として、銃撃可能な地点がどの程度あるかを前記実況見分の結果に基づいて検討すると、まず、Cの頭部を銃撃すること自体については比較的問題が少ない(W点に近いほど銃撃がしやすく、V点近くになると、甲野車の屋根がCに対する視界を遮る形になるが、その顔面を銃撃すること自体は不可能ではない。)。次に、甲野をねらう場合、同人がC点、D点にいたとすれば大腿部を銃撃することは可能だが、A点、B点にいたとすると、全く不可能ではないにしても、極めて狭い範囲に限られる。更にCの顔面と甲野の大腿部とをほぼ同じ地点から引き続いて銃撃する場合を想定すると、Cに対する銃撃可能範囲の問題があるために、甲野がA点にいたときには更に限定されて銃撃は殆ど不可能と認められる。検察官は、甲野の左大腿部に打ち込まれた弾丸の飛来方向が、甲野の左前方約三〇度とされていることから、もし甲野がCの倒れた方向に近づこうとしてCの方を向いていたとすると、実際の受傷角度よりもっと左方向から弾丸が飛来し、受傷していなければならないことになって、受傷状況と甲野の供述とが矛盾するという。しかし、足の向きが少し変われば矛盾しないとみられ、そのような微妙な角度を確定できる程の明確な証拠は本件には提出されていないから、これを矛盾と断定するのは相当でない。

問題は、銃撃を受けたとき甲野がどの位置にいたかの点である。検察官は、甲野が駐車車両のフリーモント通り側からフリーウェイ側のどの地点にいたか、具体的にはA点からD点までのどの付近にいたかを絞り込まず、すべての場合に対応できるよう広く検討している。甲野が倒れるような動作をしたと目撃者らが供述する位置(四台目の車両のフロントガラスの付け根付近から最前部までの間)のほか、甲野が供述する地点をもすべて含んで、どれにも対応しようとするもののようである。右の目撃者らの供述や甲野自身の原審公判廷における供述(198-10424,190-10881)等からみて、A点、B点の可能性が高いといえるが、甲野は、例えば、事件後あまり日時の経過していない時期にロス警察に対して行った事情説明の中では、被弾場所について、原審公判廷で述べるのよりはもっと東側、すなわち道路寄りの地点を指示した経過があるようであり、更に例えばC点付近からはサングラスやシャツからとれて落ちたボタンが発見されたりしていて、この付近で銃撃された可能性も否定できない状況にある。

2  強盗の動きは目撃されているか

検察官が、甲野の主張するグリーンの車に乗った強盗による被害を否定する根拠として重視しているのは、前記目撃者中に、現場付近でグリーンの車が停車したところやこれから誰かが降りたことを目撃した者がいないという事実である。正確に言えば、前記四名の目撃者のうち、二名はグリーンの車そのものを目撃していない。他の二名は、そのような場面を目撃していないというよりは、グリーンの車を目撃したが、その車は、現場付近で徐行はしたが停止はせず、また誰も下車しなかった、と述べている事実である。もし、甲野の前記主張が事実であれば、前記目撃者中、グリーンの車に気づいていた者達は、当然同車の停車、下車した人物の有無を見落とすことはあり得なかった筈と考えられる。それとも何らかの理由で、目撃者らのすべてが目撃していないエアポケットのような時間帯が、丁度その場面で起こったといえるかどうか。更に、検察官が重視するのは、目撃者らは甲野が被弾したところを目撃していながら、甲野が供述するグリーンの車や二人組の男を目撃していないことである。目撃者らがこれを見落とす筈はなく、このことは甲野の供述するようなグリーンの車や二人組の強盗犯人が存在しなかったことを示しているというのである(原判決も、この点を甲野の供述を排斥する最大の根拠としている。)。

この点につき、甲野の弁護人は、目撃者らが目撃したのは、実は甲野が銃撃された場面ではなかった、すなわち甲野が銃撃されて一度転倒し、その姿勢からようやく立ち上がろうとしてまた倒れた場面だったのではないか、銃撃の場面ではなかったとすると、これらの目撃者が、グリーンの車やそこから現われた強盗犯人を目撃していなくても不自然ではなく、グリーンの車が来て停車し、その車から下車した人物がいたことを否定できないと主張する。はたしてそのように認めることができるか。

(一) グリーンの車に関する目撃状況について

前記水道電力局の目撃者らのうち、アルガイヤー及びニーリーの両名は、現場付近でグリーンの車を目撃したことはないと一貫して供述している(アルガイヤーの一九八八年六月九日の宣誓供述書[前出]、原審証言[149-1171]、一九九六年四月二四日の供述書[前出]、ニーリーの一九八八年六月九日の宣誓供述書[前出]、原審証言[149-1282])。

しかし、イエシドは、原審公判廷で、甲野と思われる男性が倒れたり、通りがかりの女性の通行人が去ったりした後で、古いグリーンの車が現場手前のフリーモント通りを南から北に向けて進行し、その先でおそらくUターンして、次に北から南に走って行った、一回目に来たときにはすでに男性は倒れていた、往復ともこの車は現場付近では歩くようなスピードになったが停まらなかったし、車から降りた人もいなかったと述べている(原審証言[155-2921, 2938])。同人は、この公判供述と同趣旨の供述を目撃後間もない一九八一年一一月二五日の事情聴取書(前出)の中でもしているだけでなく、その後も繰り返し述べているので(一九八八年六月八日の宣誓供述書[前出]。もっとも、一九八九年七月一一日の供述書[前出]中では、甲野が倒れる前のころ、グリーンの車が最初北から南へ行き、少し経ったころ南から北に向かって行ったと走行順序が反対であったかのように供述している。)、この部分に関する同人の供述はほぼ一貫しているとみてよい。次に、ニエトは、目撃直後から、事情聴取書や宣誓供述書の中で、繰り返して、グリーンの車は現場付近をゆっくりした速度で通ったが、停車しなかったし、人が下車したこともなかったと、これまた一貫して供述している(一九八一年一一月二五日の事情聴取書[前出]、一九八一年一二月一七日の再事情聴取書[前出]、一九八六年一月八日のロス郡検捜査官報告書[前出]、一九八八年六月一四日の宣誓供述書[甲三六六、三六七]、一九九六年四月二五日の陳述書[前出])。

このように、イエシドとニエトの供述は、グリーンの車が来た時期については甲野と思われる男性が倒れるような動作をした後のことであると述べ、しかも同車は、現場付近を最初は南から北に、次にその先でUターンしたらしく、北から南に向けて、いずれもゆっくりした速度で通り過ぎたこと、しかし停車することはなく、また同車から人が降りたこともなかったこと等の特徴的な行動を中心として、相互に符合する供述を一貫してしているから、これらの供述を疑う根拠はほとんどないというべきである。そして、両名のこの供述を前提とする限り、グリーンの車の動きは、甲野の供述とは大きく異なっており、同車と本件銃撃との関連性はない可能性が非常に高いとみられる。なお、イエシドの供述中に、甲野と思われる男性が倒れた直後ころに、甲野車の西側あたりから一人の男性が突然現れたという供述部分があることについては先に説明したとおりである。しかし、同人は、その人物のことについて、甲野車の西側あたりから突然現われ、その後白いバンに乗り込んだと供述しているのであるから、この人物が甲野の供述するグリーンの車の強盗犯人と関係があるとは思えない。

(二) 甲野が倒れたときの状況について

水道電力局八階から目撃された男の倒れる場面は、銃撃場面あるいはその一部ではなく、その後の転倒場面であったと認められるか。

(1) 銃撃犯人は、前述したとおり、白いバンの中、その西側又は甲野車の西側付近の死角から銃撃した可能性が高い。だから、前記目撃者らが銃撃場面と分かる形で目撃していなくても、それが銃撃場面であったことを否定できない。また、銃撃をした犯人が、銃撃の前後に、甲野車の西側に移動したり、銃撃を終えて車両の方へ移動したりするところが目撃されていなくても、目撃者らが相当離れた位置にいて、しかも一部始終を見続けていた訳ではなかったから、あり得ないことではない。したがって、目撃者らが、甲野が三台目と四台目の車両の間で倒れる体勢をとったのを見たときに、同時に銃撃犯人とおぼしき者の動きを目撃していなくても、そのことは甲野の転倒が銃撃によるものであったかどうかを判断する決め手になるものではない。

(2) ところで、前記目撃者らの供述は、甲野とおぼしき男が倒れた状況を見て銃撃されて転倒したとは思わなかったとする点では一致している。すなわち、アルガイヤーは、「この男性は二台の車の前の方に手を置いて少し前屈みになり、突然下の方に沈んでいって前に倒れて見えなくなった、北側の車の運転席の横から一本の手が出て、数回上下に動いた、何か車にいたずらをするのではないかと思った。」(原審証言[149-1158])と、イエシドは、「その男は東の方に来ようとしてまた止まり、手を振った、車に寄りかかって突然しゃがみ込んだような格好で身体を落とした、うずくまっているようであった、車に何か仕掛けているのではないか、車の中に無理に入ろうとしているのではないかと疑った」(原審証言[155-2920, 2929])と、ニーリーは、「その男性は二台の車の間に立ち、車のフェンダーの上に両手を置き屈んでいるか寄りかかっているような態勢で、車に乗り込むような早さで倒れるというよりも、屈んだような状態で下がったという状態で車の横に入り込むような態勢を取り、車に侵入するのか車を盗むのではないかと思った」(原審証言[149-1262, 1274])と、それぞれ供述している。また、ニエトは、目撃後間のない時点での事情聴取書中では、男性が倒れるところを見たとは述べておらず、単に「二台の車の間で倒れている男が手を振っているのを見た」と述べるだけであったが(一九八一年一一月二五日の事情聴取書[前出])、その後の供述中では、男が倒れた時点のことにも触れるようになり、「一人の男が青い車のそばで倒れ、もう一人の男がバンに乗り込んで走り去るのを見た。」(一九八一年一二月一七日の再事情聴取書[前出])、「この人は水道電力局の方を向き、そして突然、後方へ倒れて背中から地面に落ちた。」(一九八六年一月八日のロス郡検捜査官報告書[前出])、「男は、三台目と四台目の車の間をフリーウェイ側へ歩いていき、こちら側に振り返り、両腕を斜め下方に広げ、そしてその手を二台の車のフェンダーに置いた。間もなく、その場所でまるで沈むかのように倒れました。……フェンダーに両手をついたまま故意に倒れたように見えました。銃で撃たれたようには見えませんでした。」(一九八八年六月一四日の宣誓供述書[前出])等と述べている。要するに、目撃者らはすべて、この男性が、車かあるいは車の中からの盗みをしようとしていると感じただけで、誰もこの転倒を銃撃された場面とは思っておらず、そのことはボズギアンの電話通報の内容と同じと思われる。ただ、これらの目撃者が、どのような基準で銃撃されたための転倒であるかないかを判断していたかは明らかではない。甲野は大腿部を銃撃されたのであって、身体の枢要部を銃撃されたのではなかったから、なおさらはっきりしない。

ところで、このときのことについて、甲野は、当審公判廷において、強盗犯人が銃撃、強奪をして立ち去った後、車に寄りかかって立ち上がり、歩こうとしたが痛くてまた倒れたと述べている。銃撃された時に倒れ、立ち上がろうとしてまた倒れたというのである。検察官は、甲野は当審に至るまでこのように再び立ち上がったが倒れたと供述したことはないとし、倒れたのはやはり銃撃されたためであったろうと主張する。甲野が、再度立ち上がろうとして倒れた旨明確に述べていないことはそのとおりであるが、同人は、事件後間のない一九八一年一二月四日にロス警察でした事情説明の中で、銃撃された後一生懸命立とうとしてブルーの車に手をかけた旨供述しており、その点は再度の立ち上がりと通じる供述とみられるから、実質的には原審、当審供述を含めて、大体似通った供述と理解できる。また、その供述内容自体は、このような負傷をした場合の自然な行動とみて不自然でなく、この点に関する甲野の説明をことさらな虚偽とするのは疑問である。銃撃を受けて負傷した者が、立ち上がろうとしてまた倒れるということは普通に予想されることであるから、銃撃後に再度立ち上がろうとした場面があったとしてもおかしくはない。

これを要するに、目撃された甲野の転倒場面は、銃撃場面であったのかそうでなかったのか、右の証拠だけからはいずれとも判然としない。

(3) 銃撃による転倒の場面が全く目撃されていなかった可能性について

そこで、次に転倒直前の模様を目撃者らがどの程度目を離さないで目撃していたか、目撃したのは銃撃による転倒の場面であったとはっきりいえるのか等の目撃状況を検討する。

(1) その点に関してまず注目されるのは、本件目撃者らの中には、Cが銃撃された事実に気づいた者が全くいないという点である。前記の実況見分の結果(白瀬敏雄の原審証言[167-6272]、実況見分立会結果報告書[甲五四九]添付資料一二の写真[98-13278])等によると、水道電力局八階の目撃者らの位置からCが銃撃された方向を見通した場合、オフセット駐車場手前に停車していた白いバンに視界を妨げられたことは明らかである。しかし、Cの全身が終始バンの陰に入って見えなかったかは疑問である。原判決は、目撃者がいないのであるから、Cの被弾状況は、バンに遮られて目撃できなかったのであろうと認定している。しかし、この点については、検察官も弁護人も、共に疑問ではないかと主張し、その根拠を具体的に述べている。まず、検察官の意見によると、銃撃されたときにCが立っていたと想定される別紙図面1のV地点ないしW地点付近は、論告添付資料一二のCの写真(前掲実況見分立会結果報告書[甲五四九]添付資料一二の写真に該当する。)で立て札二本で表示された地点に相当し、いずれであってもCの身体の一部が目撃可能であった筈であるといい(答弁書五八頁)、また、甲野の弁護人は、いわゆるガルシア報告書(甲四五八の写真撮影報告書)添付写真によって、駐車場の車両のバンパー付近まで視認できる状態にあるから、通常の注意を持ってすれば、目撃可能であった蓋然性が高いという。検察官指摘の論告添付資料一二のCの写真に写っている甲野車の位置は、バンと重なり過ぎている印象を拭えないし(Cが立っていたり、銃撃されて転倒したというにしてはあまりに車両間のスペースが狭過ぎると感じられるし、また目撃者らの記憶では、白いバンの右側に甲野車のトランク部分がもう少しはみ出して見えていたと述べる者がいて、その供述の方が現場の状況に合致すると感じられるからである。)、弁護人主張の場合にも、Cがバンにどの程度接近して立っていたかがはっきりしないため、断定できる状態にあるとは思えないが、しかし、どちらかといえば、Cの身体の一部は目撃可能であったとみる方が自然だといえそうである。そして、目撃者らの中には、甲野車や白いバンが到着した状況、甲野が下車してフリーモント通りを東側に横切り、やしの木の方向に移動した時点からすでに目撃しはじめ、それに引き続く移動状況についても供述している者がいるのであるから、これと連動したCの動きも目撃できた筈と考えられ、またその後にCがバンの陰に入ったのであれば、その方向に移動する同女の動きを誰かが目撃していてよさそうに思われるのに、全く目撃されていない。また、Cが銃撃された時には、その受傷状況からみてかなり大きな動きがあったのではないかと思われるのに、そのときの行動についても、気づいていないのである。これは、一体どのような理由によるものと考えられるか。まず考えられるのは、甲野は動きまわっていたのに対して、Cの方はあまり動きまわらなかったために、動きまわる者が目に付きやすかった点を指摘できるであろう。更に、初めは勤務時間中に何となく、駐車場を見下ろす程度であったところ、その後に甲野がしゃがみ込み、これを車へのいたずらと感じて疑った経過から、その後は主として甲野の動きに注目するようになったためではないかとも考えられる。これによれば、Cの動きにはあまり関心が向けられていなかった状況のときにCが銃撃されたために、気づかれなかったと考えられる。Cの銃撃から間をおかないで甲野の銃撃が持ち上がっている点からみて、甲野が銃撃された場面、つまり男が倒れる直前の時点では、目を離していたのではないかとの疑いがないではない。そのことに留意しつつ、目撃者の供述を検討する。

(2) アルガイヤー

右の点をアルガイヤーの原審証言についてみると、同人は、「あるとき駐車場に目をやると、男が、駐車場に駐車していた何台かの車両のうち一台の車の前部と金網フェンスとの間にいて、それから駐車していた車両のうちの二台の間(南から三台目と四台目の間)に移動し、その車の前部付近で立ち止まった(東を向いている状態)、それから両方の車の前の部分に両方の手を置いて少し前屈みになり、この姿勢でいるのを見ているうちに、突然前方に倒れて、二台の車の間に見えなくなった(下の方に沈んでいって、それから前の方に倒れて見えなくなったともいう。)」というのである(原審証言[149-1158, 1221])。この供述によると、アルガイヤーは、その男性が駐車車両の西側フェンス沿いから駐車中であった車両と車両の間に入り、そこで左右の車両のフェンダー部分に手を置き、倒れるまで継続して目撃していたことになる。しかしながら、同人は公判供述に先立つ供述中では、その点を、右のように明確に供述してはいない。すなわち、目撃一週間後の一九八一年一一月二五日の事情聴取書(前出)では、「男は、今度は、駐車場西側で金網フェンスの隣にいた。バンに向かって東の方向を向いていた。再び手を振り、青色の車と黄色の車の間の位置へ歩いていった。車の間のその男は向きを変え、再び東の方を向いた。アルガイヤーは、その男が何か体を動かしているのに気づいた。突然そして瞬時に、この男は、青色の車の運転席ドアのそばあたりで倒れた。」と供述している。検察官は、この供述のうち、「再び東の方を向いた。」とある点は、この男が金網フェンスの位置から車両間を東に向いて進み、最終的に止まった地点を通り過ぎて更に東方向に歩き、その後振り向いて西に戻り、そこでまた振り向いて東を向いた趣旨の供述であると主張する(このことが持つ意味については後述する。)。しかし、この供述は、その後の供述と対比してみると、そのような趣旨とは受け取れない。同人は、それから約三週間後の同年一二月一七日の再事情聴取書(前出)では、「数秒して再び外を見ると、駐車している車のうちの二台の車の間にいる男が手を振っており、それから別の二台の駐車車両の間に移動し、そして前方に倒れるのを見た。」と供述していて、倒れる前に東を向き、ついで西を向き、更に東を向いたというような点についての供述は全く記載されていないのである。続いて、一九八六年一月一〇日のロス郡検捜査官報告書(前出)では、「その男が駐車場の北側にいたのを見たが、次に見たときには、二台の車両の間に移動し両方の車の前部フェンダーに両手をついて体を前方に曲げたのに気づいた。」と供述されていて、その間の動きを続けて目撃していた様子ではない。また、一九八八年六月九日になされた宣誓供述書(前出)でも、この男性が、「駐車場の北側の車のそばで白いバンの方を向き、手を振っているのをみた、次には、二台の駐車車両の間に立っているのを見たことを覚えている。」と供述していて、この供述でも、二台の駐車車両の間に立つまでの間は目を離していた趣旨と読みとれる。そして、原審公判供述後の一九九六年四月二四日の陳述書(前出)になると、その男性が二台の車両の間に沈み込む直前の状況については見ていなかった旨を明言している。以上のような同人の供述経過と、同人がその供述中で、目撃中しばしば仕事のため席に戻ったと述べていることからすると、アルガイヤーは、この男性つまり甲野が倒れる直前の状況を注目し続けていたわけではなかったと判断される。

(3) イエシド

イエシドの原審証言は、前記のとおりである。このときの供述によると、同人は、この男が駐車車両の西側を南北に歩き、二台の駐車車両の間辺りに立ち止まり、そして倒れるまでの間、ずっと続けて目撃していたかのようにみえる。しかし、右証言前の同人の一連の供述内容を点検してみると、そのようには理解できない。例えば、供述が最も詳細な一九八八年六月八日の宣誓供述書(前出)によると、「その男は、駐車場に駐車している車の向こう側を、南東と北西の方向に行ったり来たりしました。その男は、栗色の車の方を向きながら、約二分間くらい片手を上げたり下げたりする動作を繰り返していました。(中略)その後、この男は栗色の車の方向を見ているときに、南から四台目の車の前部付近で突然うずくまりました。」と供述しているのみであって、フェンス側から二台の車の間にくるところは目撃していたようであるが、「その後」も継続して見ていたのかどうかは明らかでなく、他の供述も大体同様なのである。そして、アルガイヤーと同様に、Cが銃撃された状況に気づいていないことをも考えると、イエシドは、その男、つまり甲野が「その後」の部分の行動をしたころ、目を離していたのではないかと疑う余地がある。

(4) ニーリー

ニーリーの原審証言の概要は前記のとおりである。同人の供述は、右証言前の供述を含めてみても、男が駐車車両の西側を南から北に歩き、北側二台の駐車車両の間に立ち、そして、そこで倒れるまで続けて目撃していたかのようにみえる。しかし、同人の供述は、その男が北側の二台の駐車車両の間に立ったと述べている点では間違いであると考えられるし、何といっても同人が供述し始めたのは、目撃後四年以上を経過してからのことであったから、信用性判断に注意が必要であること、同人も他の者と同様に、Cが銃撃された状況に気づいていなかったことなどを考慮すると、ニーリーもまた、甲野が二台の車両の間で倒れるのを目撃するまでの間、ずっと続けて目撃していたわけではないのではないかと判断される。

(5) ニエト

同人からは公判証言を得られなかったが、同人が最も詳細に供述しているのは、一九八八年六月一四日の宣誓供述書(前出)である。これによると、同人は、次のように述べている。

「二度目に、駐車場の方を見たとき、一人の男が駐車場に駐車している六台の車の向こう側(南から四台目の車両の前方西側金網フェンス付近)に立ち、片手を振っているのが見えた。少しの間そこから目を離し、次にそこを見たとき、この男が南から三台目と四台目の間にいた。そして、この男は三台目と四台目の車の間を向こう側(フリーウェイ側)へ歩いて行った。そして、こちら側を振り返り、両腕を斜め下方に広げ、そしてその手を二台の車のフェンダーに置いた。それからまもなく、その男がその場所でまるで沈むかのように倒れた。その男がフェンダーに手を置いて故意に倒れたように見えた。銃で撃たれて倒れたようには見えなかった。その男が車の下に潜り込むのだと思い、車を盗むのではないかと思った。アルガイヤーも同じように感じたと思う。その時誰かが「警察に連絡をしたか」と言った。」。

ニエトのこの供述の特徴は、前記の三人の目撃供述と異なり、二台の車の間にいた男が、フリーウェイ側(西側)に歩いて行き、その後振り返って、東側を向いて佇立したと供述している点である。ニエトは、この宣誓供述書に先立つ一九八六年一月八日のロス郡検捜査官報告書(前出)、その後の供述書等においてもほぼ同様の供述をしているが、どういうわけか事件後、初期の段階の供述においては、その点に触れていない。

検察官は、ニエトのこの供述部分に注目して、甲野が銃撃を受け、一度倒れたとすると、その後でこのように車の間を西に向かって歩く理由は考えられない、それにもかかわらず、もしニエトの供述どおりに西に向かって歩いたとすると、それはその時点ではまだ銃撃されていなかったからであり、目撃された転倒は、紛れもなく甲野が銃撃を受けた場面であったことになり、その範囲でニエトの供述は真実と認められると主張する(答弁書七九頁)。ニエトのこの点に関する供述はかなり目をひくし、検察官の主張にも理由がないではない。しかし、公判証言ではないため反対尋問にさらされておらず、また、目撃後記憶の新鮮なうちになされた供述でもない点に問題を抱えている。

(6) 検察官は、目撃者らの前記供述からすると、男(甲野)は、フェンス側から二台の車両の間を東を向いて進み、最終的に佇立することになった地点を通り過ぎて更に東に進み、その後振り向いて西に戻り、そこでまた振り向いて東を向いて佇立した、そして倒れたと考えられるという。しかし、アルガイヤーの供述も、ニエトの供述も、共に極めて簡単な供述であって、このように微妙な事実を認定できるほど詳細、正確なものとは到底思えない。

目撃者らは誰も銃撃というような重大な事態に発展するとは予測していなかったし、また仕事を放り出して、一〇分、一五分と見続けるような事態でもなかったから、Cが銃撃された場面も含めて現場から目を離していた時間帯があったことは弁護人ら主張のとおりと思われる。そうだとすると、目撃者らが現実に目撃したのが銃撃場面そのものであるとすることについては疑問が残るというべきである。この意味で、目撃者らが目撃したのは銃撃場面そのものであったと断定して、それを最大の根拠にして、甲野の弁解を排斥した原判決の判断は相当とはいい難い。しかし、そうであっても、甲野と思われる男が転倒した場面を目撃しておりながら、それとさほどに時間がずれているとは思えない別の男達の動きに誰も気づいていないという事実は、やはりグリーンの車で来た男達がいたとか、それらの者が銃撃したとする主張に対して疑問を持たせざるを得ない。

(四) 目撃状況からの結論

以上によれば、目撃者らは、グリーンの車は駐車場付近で停車しなかったし、その車から人が降りたことはないと揃って供述している。この点に関する目撃者の記憶はかなりはっきりしており、かつこれに反する目撃は見当たらないから、この供述は重視されてよい。また、これとは別に、甲野が転倒した前後の駐車場付近での人の動きに関する目撃内容にも注目して検討したが、甲野が転倒した時を含めてその前後に、付近に甲野のいう強盗犯人がいたことを窺わせる様子は全く判然としない。これら双方の事情を総合すると、グリーンの車から降りてきた強盗犯人という甲野の主張は、本件証拠上、容易に受け入れ難い。この点は、検察官主張のとおり、甲野について強い嫌疑を生じさせる情況事実とみてよいと考えられる。

3  その他関連する情況事実の検討

(一) 空薬きょう、紙幣の散乱等

事件直後に本件駐車場に到着した捜査官らは、現場の交通を遮断して、銃撃に使用された筈のライフル銃の空薬きょうの捜索もしたが、発見されなかった。現場に空薬きょうが残されていないというこの事実は、本件にとって何を意味するか。前述したとおり、車内から発砲して、空薬きょうを車内に積んだまま走り去ったか、一旦付近に飛び散った空薬きょうを意識的に拾い集めて持ち去ったか、疑問の持たれる点である。現場は路線バス通り沿いで、広い駐車場に面しており、かなり車の通行も予想される状況下で、Cと甲野を銃撃し、続いてCの持ち物をまき散らした上で、更に落ち着いて空薬きょうを拾い集める等の行動ができるものか。車内からの銃撃か、単純な強盗事犯ではないと考えられやすいが、判然としない。

次に、Cが倒れていた付近一帯に、Cのポシェットに入っていたと思われる紙幣(二〇ドルが四枚、一〇ドルが一枚、五ドルが一枚、一ドルが五枚、合計一〇〇ドル)が散乱していた。検察官は、決して少額とはいえないこれら金員を、金銭目的の強盗がわざわざまき散らして逃走したとみるのは不自然であるという。もっともな指摘であるといえる。犯行現場に被害者の所持品をまき散らして強盗を仮装することは広く見られる手口であるが、それにしても、強盗が、強奪目的とした一〇〇ドルもの現金をまき散らすというのはいかにもことさららしいと感じさせる。まいたのではなく、ポシェット内から紙幣を取りだした際に取り落としたのだとすると、現場での犯人の行動はそのように慌てたものであったかがあらたに疑問とされる。また、Cが前日に買い物をした残りの金員や財布などがポシェットの中にあったと思われる(甲野は、前日三〇〇ドルか五〇〇ドル渡しているように言う。原審公判供述[187-10303])のに、これらが発見されず、二〇ドル札等がまかれているのも納得しにくい。もっとも、一〇〇ドルの放置状況・散乱状況に不自然さがあったかという点については(一九八八年五月二〇日実施の実況見分におけるライル・ニーリーの説明によると、Cが片方の手にいくらかの紙幣を握っていたという(甲一九[31-429]、二〇[31-465]。ガルシアの公判供述[149-1120]参照)。)、関係証拠上必ずしも明確でない点が多く、いずれとも判断しようがない。ただ、Cのポシェットの肩紐は救助の必要上切られたもので、犯人が切ったものではなかったから、ポシェットを持ち上げ、逆さまにしてその中身をまき散らすといっても、ポシェット自体の可動範囲は広くなかった筈であり、どのようにしたかについて疑問がある。

また、事件当時、甲野車の車内に置かれていた甲野の旅行用バッグの中には、現金五〇〇〇ドル以上、旅行小切手、パスポート等が入れられていた。事件発生当時には、同車のエンジンはかかったままで、ドアはロックされていなかったから、検察官は、もし本件が強盗によるものであるならば、この甲野のバッグを見逃すことはなかったのではないかと主張する。これに対して、甲野は、このカバンはいつも用心のために、助手席の後部の座席の床の上に置いていたと供述している(甲野の公判供述[187-10250])。それ以上には確かめようがなく、犯人がバッグの存在に気づかなかったことを全く否定はできないにしても、釈然としない疑問が残る。

(二) スペア供述

事件当時テンプル通りとフリーモント通りの交差点付近に存した保険局の駐車場に勤務していたスタンレー・スペアは、事件直後から、グリーンの車とこれに乗った男について何回か供述している。甲野の弁護人は、このスペアの供述は、本件銃撃が甲野の供述するようにグリーンの車で現場へ来た人物によって敢行されたことを裏付ける有力な証拠であるという。

そこで、同人の供述をみると、スペアは、事件の一か月後には、「銃撃事件のころ、後部両サイドに各三個の尾灯がついたダークグリーンの一九六七年型のシェビー・カプリスをみたことがある、フリーモント通りを非常にゆったりとした速度で走行し、物を盗もうとして駐車場の中を見ているように思えたので注意をひかれた、この車は通常一一時ころから一一時半ころスペアの勤務場所付近を通り、車の中には二人乗っていることも、三人乗っていることもあった、似顔絵の男が、その車に乗っていた男の一人であるように思う」(昭和五六年一二月一七日の事情聴取書[弁A甲一五、一六])と述べ、七年後には、銃撃自体を見たり聞いたりはしていないとことわった上で、「一九八一年(本件事件があった年)に数回、後部両サイドに各三個の尾灯がついた古い型のグリーンのシェビー・カプリスが走っていたのを覚えているが、事件当日に見たかどうかは思い出せない、非常にゆったりとした速度で走り、駐車場の車から物を盗むかも知れないと思っていた、顔を見たことがあるのは運転手だけである、本件犯人の似顔絵を見せられたが、その人のことを知らない。」と述べ(昭和六三年六月一六日の宣誓供述書[弁A甲一七、一八)、更に、その四年後には、「事件当日の一一月一八日午前九時から一一時までの間、特定の車が(テンプル通りから)南向きに通りかかるのを目撃した、車の色は白か緑であった、運転手は男性で白人か少しラテン系で、髪の色は黒で後頭部からポニーテールが突き出ており、フー・マンチューのような髭を生やしていた、最後にその車が通りかかるのを見たとき、ブースから出てみた、その後駐車場施設の出入口通路真ん中で技術屋と話していたところ、何分か後に、駐車場施設の中で二回大きな反響が聞こえた、通常の車のバックファイアより大きな音で、大きな銃器からの発射音だったかも知れない、技術屋が車のバックファイアにすぎないから気にするなといったので、そのままになった。」(平成四年三月二八日の供述書[弁A甲一二ないし一四])というのである。

平成四年の供述では、スペアは、本件事件当日にグリーンの車を見たと述べているが、事件に接着した昭和五六年一二月一七日の供述では、それが事件当日のことであったのかどうか判然としていないし、昭和六三年の供述ではむしろ当日にその車を見たかどうかは思い出せないとしている。したがって、それから更に四年近く経過した平成四年の段階で、事件当日の出来事を正確・詳細に供述できたとは思えない。

しかし、そうだとしても、同人の供述を全体としてみると、本件当時、スペアがいうような一九六七年型のダークグリーンのシェビー・カプリスが、本件の銃撃事件が持ちあがった時間帯に本件駐車場周辺を、スペアの注目をひく形で走行していたこと、事件後にはこの車を見かけることがなくなったことなどの同人の供述を、全く根も葉もないこととする根拠もない。しかし、反面、それだけでは、この供述に格別の意味を認めることもできない。この付近は、実況見分調書の写真等にあるとおり(甲一四、一五[二、四、六、八の写真]、甲五五一[一の写真)、道路両側に不法駐車車両が続いている場所であり、そのグリーンの車も無料駐車のできる場所を探して徘徊していたに過ぎない可能性が高いからである。しかし、興味をひく点が全くないというわけでもない。すなわち、同人がその車両の特徴について述べるところは、甲野が事件直後から説明しているグリーン車の車種、型式、特徴等と酷似しているし、加えて事件後間がない時期に甲野の供述を基にして捜査官が描いた犯人の似顔絵を見せられて、そのグリーンの車に乗車していた者の一人であると思うと供述しているからである(ただし、昭和六三年にはその記憶がなくなっているようであるが、六年以上経過していることを考えると、当然のことと思われる。)。甲野と全く利害関係のない第三者であるスペアが右のような供述をして、甲野の供述を一部裏付けているようにも見える点には一応留意してよい。しかし、更に検討すると、甲野が述べる車両の特徴は、ある時代のアメリカ車によく見られた特徴であるし、また、甲野も、本件現場で、ニエトやイエシドが目撃したというグリーンの車を目撃していて、その特徴を基に連想をふくらませて、本件銃撃に関係した車両に置き換えて供述することも可能、容易とみられる上、両者が述べる人物像は、一群の人に共通の、今一つ個別性に欠ける特徴のように思われるから、スペアの供述を甲野弁明の裏付けとまで評価するのは相当でない。これを要するに、スペアの供述に、甲野がいう強盗犯人の裏付けという意味での、高い証明力を認めるのは困難と考えられる。

4  小括

以上、銃撃時の状況を検討してきたが、これらの証拠の内容を通覧し、全体的に判断すると、犯行現場に白いバンが到着、停車し、事件発生直後に立ち去った事実は目撃証言によって十分認定可能であるのに対して、甲野の主張するグリーンの車が停車したり、現場付近で誰かが下車した事実は目撃されていないというより、どちらかというと積極的に否定されており、その可能性はかなり低いと判断される。また、銃撃可能性の観点からみても、白いバンの人物の場合には比較的容易であるのに対して、グリーンの車の人物の場合には相当困難と判断される。そして、白いバンの人物の場合には、目撃されないで犯行を行う可能性はかなりありそうであるが、グリーンの車の人物の場合には目撃者の全員が全く目撃しないままに終わる可能性はそれほど高いとは思えない。

また、これを事件の一般的性質に照らして考えても、甲野の供述のままでは、腑に落ちないことが多過ぎる。例えば、強盗犯人が、金品の要求を一切しないでいきなり銃撃行為に出たということ、抵抗の予想されない女性のCを先に銃撃し、後で男性の甲野を銃撃していること、当初から意図したかどうかの問題はあるが、結果的にCについては頭部を銃撃し、甲野については足を銃撃するにとどめていること、銃撃後その相手方である甲野から金品を強奪しようというのに、凶器をあえて自動車の中に放り込み、素手で甲野に近寄ったとされていること、強盗が紙幣をまき散らして立ち去っていること、甲野車の中にあって金品の入っていたバッグを盗まずそのままにして立ち去っていること等は、いずれも強盗らしくないのであって、甲野の主張は相当に疑わしく、このような銃撃現場の状況からすると、その場から走り去った白いバンに乗車していた人物がCと甲野を銃撃した可能性の方がはるかに高いと判断される。それでは、バンに乗っていた人物と甲野との関係はどのように判断されるか。その点は、まさに銃撃時の状況だけでなく、関連するすべての情況事実を照合して、総合判断すべき事柄である。

第一一  甲野の供述の虚偽性について(検察官の主張する情況事実 六)

検察官は、銃撃時の状況に関する甲野の供述には明らかに虚偽がある、すなわち甲野は銃撃犯人としてグリーンの車で来た人物を持ち出すことによって、その反面として、本件発生当時、現場に停車していたことが明らかな白いバンのことを記憶していないと述べて隠している、これは明らかに虚偽供述であり、そのことはとりもなおさず、甲野が白いバンで逃走した人物と共謀して同人に銃撃を敢行させた首謀者であることを示しており、この点は甲野の犯人性を推測する上で重要な情況事実と評価すべきである、という(検察官当審弁論要旨五五頁)。原判決が甲野の犯人性を認めるに当たって大きな根拠にしたのもこの点であった。

一 まず、事件当日の事情聴取の段階で、グレイ捜査官から甲野に対して、「白いバンはいなかったか。」との確認がされたと認められる。このことは、グレイが原審証言中で、同人が事件発生直後にその旨甲野に尋ねたのに対して、甲野は、そのようなバンはいなかったと言い、供述を避けて話題を変えた感じであったと、そのときのことを具体的に述べていることによって、明らかである(151-1882, 152-1949)。甲野は、事件直後にバンについて聞かれたことを否定するが、警察官バーンズが水道電力局八階に赴いて目撃者らからの事情聴取をし、白いバンの情報を得て、これを捜査情報として流していたことが認められるから、そのことは当然グレイ捜査官にも伝わり、同人の前記質問になったとみるのが自然だと思われる(なお、同捜査官は、一二月四日のロス警察での事情聴取時にもその点を甲野に質問したというが、当日は録音機の調子が悪く、録音終了後にこの点を尋ねたというのであり、確認できない[151-1910]。)。こうして、甲野は、白いバンについて記憶がない旨当初から供述していたと考えるべき状況にある。

そして、本件現場で、白いバンが甲野の目にはっきり認識できる状態で現場に停車していたことは明らかである。現場駐車場に白いバンと甲野車のどちらが先着していたかは別としても、両車が到着後、並んで停車していたことは間違いないし、甲野が銃撃された時点でも停車しており、その後で走り去ったと認められるからである。また、バンが走り去る前に、甲野は、駐車場周辺で写真を撮るため動きまわっていて、そのときに撮った甲野写真ナンバー13には、このバンと思われる車両の一部が写っているから、動きまわる過程では当然このバンが目に入っていた筈と思われる。目撃者のほとんどの者がこのバンに気づいていたのもそのことを裏付けている。

それでは、この白いバンが、客観的には視野の範囲内にあるのに、甲野の記憶に強く残らないことがどの程度ありうることと考えられるか。

記憶に残りにくい事情としてまず考えられるのは、フリーモント通りでも本件オフセット駐車場付近では、道路両側に路上駐車車両が多数連なっていたから、本件の白いバンがもしそうした路上駐車車両の一台であった場合には、目立って記憶に残らないことが考えられないかである。同所付近の道路に路上駐車車両が連なっている状態については、事件発生直後に撮影されたリース写真(二、四、六枚目の背景部分[甲一四、一五])やその後の平成三年一月に行われた実況見分時の写真(写真撮影報告書[五五一号証]。ただし、この時点では、道路沿いに建物等が新築されて、事件発生時と条件が同じではない。)によって明らかであるが、このように多数の路上駐車車両が連なっている中にそのうちの一台として含まれていただけであれば、記憶に残らない場合があり得るのではないかという点である。目立たない車まですべて記憶しているとは限らないからである。次に考えられるのは、そのバンに乗って現場へきた人物が本当は銃撃していた場合でも、その人物がこのバンから下車するところを甲野が目撃しておらず、銃撃と関連づけて印象に残らなかった事情はないかの点である。バンの荷台から銃撃したり、その荷台のドアを開けてバンの西側に降り立って銃撃した場合であれば、その様子を甲野の位置から目撃できた筈と考えられる。しかし、もしバンから下車した人物が、目撃者供述の一部にあるように(目撃供述の中には、銃撃後にバンの周りを回ってバンに乗込むところを目撃したのではないかと思わせるものがある。)、バンの後方等を回ってバンの西側に現われた場合には、甲野の目には、その人物がバンから下車してきたのかそうでないのかはっきりと意識されず、銃撃犯人がバンの周りから突然現われたとの印象だけが記憶に強く残り、バン自体の記憶が強く残らないことが考えられるかという点である。

しかし、いずれの場合も、現実の可能性が高いとは思えない。甲野は、Cと自分が銃撃された時点でその人物を明確に認識していた筈であるし、例えば銃撃後その人物がバンの東側に回り込んで姿が見えなくなったとしても、間をおかずにバンが発進し、その後で付近にその人物の姿が見えなくなれば、事態の流れからみて、その人物がバンに乗って立ち去ったと理解され、同車のことが印象に刻まれたであろうと思われる。銃撃をした男が車の向こうに消えて見えなくなったころに、グリーンの車が現場付近をことさらゆっくり通過したため、双方の印象が結びついて、記憶に誤解・混線を生じる余地が希にないとはいえないかも知れないが、本件の場合、甲野は、グリーンの車から男が二人下車し、細長い物を車内に投げ入れてから甲野に近づいたと述べ、犯人が下車したところから目撃していたように述べているし、また甲野車の後方にグリーンの車は停まっていて、そこから北に向けて逃走したと述べて、白いバンが南に向けて発進したのとは逆方向を指して述べているからである。ただ、この時点の甲野は、被弾した直後のためか、非常なパニック状態にあったものと窺える。そのことは次の点からも分かる。例えば、甲野は事件後ロス警察に赴いて供述しているが、その中で、本件駐車場西側の端に金網フェンスがあったことも記憶がないと述べている。現場で写真を撮ろうとして、駐車場西端にあった金網フェンスに沿って移動していたのであるから、フェンスのことを覚えていない筈はないと思えるのに、格別意味のあることとも思えないフェンスについて、覚えていないと述べているからである。この供述がもし甲野のこのときの記憶どおりであるとすると、記憶に混乱が生じているとしか考えられない。甲野は、銃撃後の状況については、立ち去って行くグリーンの車の尾灯の印象と、偶々現場を通りかかった年輩の女性に助けを求めたのに応じてもらえなかったときの模様を特に印象深く記憶し、強調して述べている。当時大腿部にライフル弾を受けて負傷し痛みをこらえていた甲野の身にとっては、犯人がともかく立ち去りほっとしたということと、何よりまず救助を求めたことが鮮明に記憶されていることは一応合理的といえる。しかし、フェンスについての記憶が右のとおりであったとしても、白いバンについての記憶がこれと同様に欠落したとは直ちには推測できない。

二  白いバンの人物が甲野の共犯者であったとの考えに対して生じる大きな疑問は、甲野写真ナンバー13に白いバンの一部が写し込まれていることの意味についてである。もし、このバンに甲野の共犯者が乗っていて、そのため事件後甲野としては共犯者の存在を捜査機関に悟られないようこのバンのことを覚えていないと言って隠しているのであれば、事件発生前にCと一緒に本件現場付近を動きまわって写真撮影をしたときにも、甲野としては、共犯者の乗っている白いバンが写真に写し込まれて、事件後警察の手に渡るおそれのあるような撮影行動は、用心して極力避けた筈ではないかと思われる。ところが、甲野は、Cにカメラを渡して、白いバンが当然写し込まれると考えられる方向や位置に自ら動いて行き、そこをCに撮影させ、それが甲野写真13となっているのである。この写真では、偶々、バンのウィンドーピラーやドアフレームの一部だけが写るだけに終わっているが、カメラを手にしていたのはCであるから、そのカメラアングルは専らCの判断に任されていたと見なければならない。ファインダーをのぞいていたCが撮影角度を多少でも左に振れば、白いバンが車体部分まできっちり写し込まれるのを避け難い状態にあり、逆に言えば、甲野写真ナンバー13にバンの一部しか写し込まれなかったのは、全くの偶然でしかなかったのである。そこで、もしバンに甲野の共犯者が乗っていたと仮定した場合、甲野のとったこの行動はあまりにも不要心、無警戒過ぎると考えねばならない。本件発生前の白いバンに対する甲野の意識がこのように無警戒であったのに、事件発生後には一転して、バンに気がつかなかったといって不自然な形で隠蔽に努めるというのでは、銃撃を境にしてその前後の甲野の態度があまりに不統一過ぎると考えざるを得ず、本件のような犯行を周到に準備して計画したのと同一の人物が示す行動としては、不自然過ぎて首肯できない点が多い。また、甲野の弁護人は、もしこの白いバンが銃撃現場に死角を作るために配置された遮蔽物であったとするならば、それが人の目に触れていることは、甲野の意識の中では、当然織り込み済みのこととなる筈であるから、そのバンのことについて、これを見たのに見ていないといって隠すことは、ことさら疑いを生じさせるだけであり、甲野の対応として考えられない、ともいう。必ずしも理由のない見方ではないが、反面、バンの関与が事実であれば、そのことをすべて積極的に認めるとばかりもいえないであろう。

三  次に、甲野は、一一月二三日、病院でのロス警察からの事情聴取時に、犯人の暴行によってシャツを引き裂かれたと説明し、犯行当時着用していたシャツを捜査官に手渡したが、そのシャツから取れたボタンが、一一月二五日にロス警察の実況見分の際、甲野が説明した付近から発見された事実が認められる。また、同じ場所付近に、甲野が着用していたサングラスのフレームや割れたレンズが落ちていたことも、事件直後に撮られたリース写真によって明らかである。サングラスを落とした理由は犯人とのもみ合い以外にもいろいろ想定できるし、また、そのレンズが割れていて、その材質からするとかなりの力が加えられたようにも推測され、一方事件発生後の本件現場ではCを救助するために多くの関係者が動きまわっていたから、その過程で割れた可能性を否定できない。そうすると、サングラスについては、犯人から暴行を受けたとする甲野の供述とすぐに結びつけて、その裏付けとするのは適当でない。しかし、シャツのボタン発見の経過には、甲野の供述を一部裏付ける点があるように思われる。すなわち、グレイの原審供述によれば、グレイらロス警察の捜査官が一一月二三日に病院で甲野の事情聴取を行った際、甲野から、事件当時犯人に胸ぐらを掴まれたという事実を新たに聞き出し、その過程で、その事実を証明するものとして事件当時甲野が着用していたというシャツの提出を受け(グレイの原審証言[151-1895]、時系列記録[甲三九七、三九八]、再事情聴取書[甲四〇七、五六一])、その後現場の捜査、見分をしたところ、そのシャツから取れて落ちたと認められるボタンを発見したというのである(グレイの原審証言[151-1895,152-1967,2030])。当審で取り調べた寺尾証人は、甲野がわざとボタンをちぎって現場に投棄しておいたのではないかとの見方を述べているが、甲野の供述経過、ボタンの発見過程には格別のわざとらしさは見当たらない。もし、甲野が、被弾直後の混乱した中で、偽装工作として、ことさらボタンをちぎり取って現場に投棄してきたのであれば、同人の性格からみて、二三日にシャツを提出するより以前に、数回にわたって事情聴取が繰り返された過程のどこかで、そのことを自分から持ち出し、強調して主張していてもよさそうに思われるし、マスコミからインタビューを受けたようなときに述べていてもよさそうなものと考えられるのに、そうした事情は見受けられないからである(シャツを提出した経緯については甲野の原審公判供述[187-10299])。

四  甲野供述の虚偽性と指摘されている白いバンに気づかなかったとの点について、甲野の立場に立って考えれば、以上のような弁解の筋道になるであろう。その中には、ある程度理由があると思われる点がないではなく、そのことについても述べたとおりである。

しかし、そうではあっても、事態を普通の感覚で見れば、甲野が自分の車のすぐ隣に停車している車体の大きな白いバンのことが全然記憶に残らなかったということは考えにくい。だから、バンのことを覚えていないという同人の供述は、総合的に考えれば、虚偽供述である可能性の方が高いとみるのが自然である。そのことを前提として、検察官は、もし甲野が銃撃犯人と無関係であれば、右の点について虚偽の供述をする必要はなく、逆にグリーンの車のことを強調するなどして虚偽の供述をするということは、白いバンの存在や白いバンで立ち去った人物と何らかのつながりがあり、その車や人物のことをことさら隠蔽する意図を有しているからだと理解すべきである、結局右の事実は、本件の場合、甲野の犯人性を示しているという。ことさらな虚偽供述であることに間違いなければ、そのような虚偽供述をするのは、甲野と白いバンで立ち去った人物との間につながり、すなわち共謀があったからであるというのが最も分かりやすい推測であり、甲野の犯人性を示す情況事実の一つと理解できる。しかし、白いバンの記憶がないと言ったり、否定したり、あるいは黙秘したりした場合に、そのことが信用できないというただそれだけの理由で、甲野が白いバンの人物と共謀していた事実を断定してよいとすることには問題がある。先に述べた疑問が解消できていないのであるから、最終的な結論を下すには、以上に述べたすべての情況事実と照合して検討しなければならない。

第一二  殺人の予備的訴因についての結論(情況事実を総合しての結論)

そこで、以上に述べた個々の情況事実を相互に照合し、総合的に検討する。

妻にかけた高額の保険金を取得する目的で、犯行の露見しにくい外国へ妻を連れ出し、そこで共犯者に銃撃させて保険金を独り占めにしたとされる本件銃撃事件は、もしそれが真実であるとすればいかにもおぞましい犯行であって、その責任が極めて重大であることはいうまでもない。ただ、本件の場合、真実はそのとおり間違いないのかどうか、また有罪認定を支えるに足りる確かな証拠があるのかどうか、その点をまず検討する。本件は、総じて明確な証拠に乏しく、専ら情況証拠を組み合わせて全体像を推認する以外には手がない微妙な証拠関係にあるから、事件の評価を云々する前に、まず証拠によって事実関係を確定しておかねばならないからである。

一 甲野の犯行関与を疑わせる情況事実

まず、甲野の犯行関与を疑わせる情況事実として、次の諸点を挙げることができる。

1  最も注目されるのは、本件動機の形成に関連して、本件の約三か月前におこった殴打事件を通して認められる甲野の犯意との関連性の点である。

殴打事件への甲野の関与の有無とその程度等を本件で取り調べた関係証拠に基づいて点検すると、右の殴打事件は、甲野が、保険金取得等の目的で、女友達のDにC殺害の計画を持ちかけて応諾させ、甲野が持ちかけた筋書きどおりに同女に実行させたものであって、その経過は、甲野の否認供述にも関わらず、覆い難いと認められる。そして、このときの甲野の行動には、C殺害の犯意が込められていたと理解するほかはない。当時の甲野は、Cと結婚してまだ約二年しか経っておらず、二人の間に長女Gをもうけてもいたから、そのような関係にある妻に対して、このような悪意に満ちた犯行計画を抱くとは通常ならば容易に考えにくい。それだけに、関係証拠を注意深く検討したが、その結果によっても、右の事実は明らかであり、ほとんど疑う余地がないと考えられる。

このように、殴打事件発生時の甲野にはC殺害の意図があったと認定するほかないことと関連して、二、三の点に触れておかねばならない。その一は、甲野が、殴打事件発生の数ヵ月前の時期に、前述したとおり、福原、Oら甲野周辺にいた複数の人物に接触を求めて、保険金殺人の共犯者探しではないかと疑われかねないような、普通ならば口にすることのない物騒な話を持ちかけて相手方の感触を探っていた経過がある事実である。打診されたこれらの者達が、打診された場面の情景や打診された内容について述べるところは、いずれも具体的、特徴的であるだけでなく、相互に類似性を持っていて、そのような内容の打診があったこと自体を疑う余地はないとみられるのに対して、これを否定する甲野の弁明は、全体を曖昧に否認するだけで、いかにも陳腐な言い訳としか受け取れない。ただ、これらの者達に打診された犯行計画の内容は、誰に対して、いつ頃、何を実行しようとするのかが明確にされておらず、まだ具体性に欠けているから、それが単なる話だけで終わっておれば、いずれもそれだけの話と受け取ることができなくはないとしても、その後これとあまり間を置かない時期に殴打事件と銃撃事件が共に甲野の周辺で相次いで起こってみれば、この話が持つ意味合いは自ずから別に考えざるを得なくなる。やはり、右の打診経過は、殴打事件発生時の甲野に前記の意図があったこと、それは周辺の者達に対して右のような打診を繰り返し、それが受け入れられなかったために、最終的には女性のDを抱き込んで実行された経過を自然に納得させ、犯意の形成過程を補強しているとみられることである。その二は、弁護人らが、甲野には本件のような犯行を犯す動機がなかったといい、その理由として、甲野は妻Cに対する愛情を失っていなかったこと、フルハムロードの経営は順調であって、妻を殺害したり、同時に自分の身体を銃撃させることまでして保険金取得をはからなければならないような逼迫した資金状態にはなかったことを指摘している点についてである。しかし、関係証拠上、殴打事件への甲野の関与及びそこにC殺害の犯意が込められていたと理解するほかないことが前述のとおりである以上、弁護人主張の右の点は、その実情がどうであれ、前記の判断に影響を及ぼすものではないとせざるを得ない。念のため付言すると、弁護人主張の二つの点を更に検討したところでは、フルハムロードの経営は比較的順調で、経営資金の調達に苦慮しているとか、まして自らの身体を銃撃被害にさらす危険を冒してまで保険金の取得を図るほかない逼迫した状態にあったわけではなかったことは、先に述べたとおりである。したがって、この点に通常ならば殺人の動機として納得できるほどの事情があったとはいえない。しかし、妻に対する愛情を失っていなかったとの点については、弁護人主張のようには認められない。関係証拠によれば、甲野の女性に接する態度はかなり独特で、例えば妻以外に何人もの女性と並行的に性的関係を持ち、ときには複数のカップルが一緒に性交渉を持つことも意に介さない感覚のようであって、一般的基準からすれば、極めて乱脈、人として無節操過ぎたことが明らかである。女性との性交渉を刹那的な遊び感覚で割り切り、相手にする女性を次々取り替えることに罪障感を持つことはなかったようであるが、甲野のこのような女性観は、普通人の基準とは大きく異なっていると思われる。甲野が仮にCに対して愛情を失っていなかったと自分では思っていたとしても、そこにあるのは通常人が持つ裏表のない誠実な愛情とは大きく異なった感情であって、心の底に潜む問題性を甲野が自分で感じ取っていなかっただけのことと思われる。当時の甲野の普通でない女性関係を直視すれば、妻や子供への愛情を失っていなかったとか、だから本件犯行の動機がないと判断することは到底できず、この点は前記の判断にかなうことはあっても、その妨げとなるものではない。

次ぎに、甲野の弁護人は、殴打事件の内容をそれとは別の本件裁判手続の中で評価するのは不当であると主張する。殴打事件についての審判が、それ自体どのように決着すべきかは、同事件の裁判手続に委ねられるべき事柄であって、その意味では、その事件の審理と必ずしも証拠関係が同じであるとは限らない本件の審理手続内で、殴打事件の事実を認定したり、その事件について判断したりするのは、適当でなく、またそうする積もりもない。ただ、本件と殴打事件とは発生時期が近接しているほか、関係者も同じという共通事情があるため、本件の犯意形成過程は殴打事件のそれとかなりの部分が実質的に重なり合い、密接に関連している。そうであればこそ、本件審理の一環として殴打事件関係の主な証拠が取り調べられたのであった。だから、殴打事件について認定・判断するためではなく、本件発生時の甲野のCに対する犯意を認定する必要上、そこへ至るまでの間の甲野のCに対する感情とその変遷を審理し、それに基づいて本件当時の犯意の有無を直接推認することはむしろ当然であって、何ら不当なことではない。

2  右のとおり、本件発生約三か月前の時点で、甲野に妻殺害の意図があったことを否定できないとすると、甲野のそのような意図は、殴打事件が未遂に終わったからといってすぐ消失するという性質のものとは思えない。だから、三か月後の本件銃撃事件発生時にも、甲野の心の奥底にはこのような犯意が消えずに潜んでいた筈で、周囲の状況如何によっては、いずれかの時点で再び浮上し、具体的な行動となって顕在化してもおかしくない状態にあったと考えられる。したがって、殴打事件の三か月後に本件が起こっているという両者の時期的な近接性、また両事件とも日本を遠く離れ、一般的には摘発されにくいと判断される外国のロスで、しかもいずれも甲野が被害者を伴って行った機会に、Cの身の上に起こっているという事実は、偶然というにしてはあまりに偶然過ぎるとの感を抱かせる。そのような観点から両事件を眺めてみると、右のほかにも、例えば殴打事件に関して甲野がDに指示したとされる事項の中で、殴打後はCの所持品を室内にばらまいて強盗を装うことが含まれていたとされる点等は、本件においてC銃撃後、ポシェットの在中品が付近にまき散らされていたのとどこか共通しているように感じられるし、また、強盗という外形を取りながら、ねらいはCへの重大な殺傷行為にあるとみられる点も共通しているのではないかと感じられる。こうしてみると、両事件を関連した出来事と考えた方が事件の流れとしては理解しやすい一面があることを否定できない。

3  犯行現場へ甲野がCを連れて行き、自動車から降りて付近で写真を撮りあったりしていた間に甲野が手を挙げたりしたことがあったことは、おおよそ検察官主張のとおりであったと認められる。しかし、これらの行動は、それだけではC殺害の意図を示す行為とは受け取れない。殺害意思などのない普通の夫婦が、市内観光をし、写真を撮りあう場合にも、普通にあり得る類の行動ばかりだからである。したがって、これらの行為を根拠として、甲野にC殺害の意思があったとするのは到底無理というべきである。

そこで、銃撃状況についてみると、銃撃犯人は、現場付近に停車していた白いバンやその周辺からCや甲野を銃撃することは客観的に可能であり、目撃状況にも合う点が多いと考えられるのに反して、グリーンの車に乗ってきた人物に銃撃されたという甲野の説明には疑問点が多い。この説明どおりに銃撃することは、銃撃位置の点からみて、白いバン付近からの銃撃に較べればはるかに困難と認められる上、グリーンの車は現場付近を低速で通り過ぎたが停車したことはなかったとか、同車から下車した人物もいなかったという目撃者らの供述とも符合しない。したがって、この点は、検察官主張のとおり、銃撃現場から白いバンに乗って走り去った人物によって銃撃が行われた可能性の方がはるかに高いと判断される。しかし、それ以上のことは具体的には全く不明であり、特に甲野の大腿部への銃撃がどのようにして行われたか、それは本当に偽装のためわざと銃撃犯人に撃たせて行われたといってよいかという点になると、証拠上はなんともいえない。

4  犯行時ころ、現場に白いバンが停車していたことは目撃者らの供述によって明らかであるところ、甲野は、そのバンのことをおぼえていないと述べ、代わりに前記グリーンの車から下車してきた人物に銃撃されたと述べている。しかし、普通の乗用車とは大きく異なったこの白いバンの外観、甲野車のすぐ左側に接するように停車していた位置関係、甲野が付近を歩きまわり、写真を撮るなどしていたときにその視野に入っていた筈と思われること等の諸点からみて、甲野がこの白いバンのことを覚えていないというのはいかにも納得できず、その点の供述には大きな疑問がある。甲野は甲野写真13に白いバンの一部が写っていることについては特に否定せず、したがって客観的には現場付近に白いバンが停まっていた状況は前提とした上で、しかもなおこのバンについては記憶にないと述べるのであるが、そうなると、甲野がグリーンの車から下車してきた強盗による被害を強調するのは、あるいはそのように述べることによって、白いバンについての供述をことさら避けているのではないかとの疑いを生じる。一般に、虚偽供述の趣旨は多義的であるから、覚えていないといって否定したからといって、それはことさら隠したのであるとすぐに判断できるものではないが、右の場合には、甲野が白いバンの男と事前に意思を通じていたから否定したのではないかというつながりが最も考えやすく、甲野の犯人性を疑わせる点がある。検察官が掲げる情況事実の中では最も重要なものの一つと考えられる。

しかし、その点の検討に当たっては、更に次の二つの点を考慮に入れておかねばならない。その一は、もし甲野が白いバンのことを覚えていないと述べたのはバンの人物と共謀していたからであり、何としてでもバンの存在を隠そうとしたためであるというのであれば、次の点はどのように理解すればよいか。すなわち、甲野写真ナンバー13には甲野と並んでこのバンの一部が写っているが、もし甲野が、本件発生後にこのバンのことをことさら隠そうとしたのであれば、同人としては、当然、事件前に現場付近でCと写真を撮りあっていたときにも、このバンが写真に写らないように注意していた筈であり、少なくとも、バンが写りそうな位置、方向に自分が立って、その自分とバンとを一緒にCの手で写真に撮らせるような不用意な行動は、甲野としては避けていた筈ではないかと考えられる。ところが、甲野は、実際にはそのような位置、方向に立ってCに写真を写させており、その際、カメラアングルをもう少し左に振ってバンの車体全景を写し出すかどうかは、専らCの選択に委ねていたことになるが、甲野の事件前後でのこのように不統一な態度は、検察官が主張する本件犯行の計画性、用意周到性に照らすと、不自然過ぎるのでないかと思われる点である。その二は、甲野がグリーンの車の強盗から暴行されたと述べている位置付近から、甲野の弁明を裏付けるかのように、シャツからとれたボタンが二個発見されている事実である。ボタン発見の経過には何ら疑問とする点は見当たらないが、そのことを前提として、何故シャツのボタンが取れ、この場所に落ちていたかについて、検察官は納得できる説明をしていない。警察捜査の取りまとめに当たった寺尾証人は、当審証人として、甲野がボタンをちぎって投棄してきた疑いを指摘している。一つの見方ではあるかも知れないが、証拠上全く根拠がないことも事実である。これらの疑問を考慮することなく、甲野が白いバンのことを覚えていないといって否定する等したのはバンのことを隠すためであったに違いないと断定してよいかには、なお疑問が残る。

5  検察官は、甲野が殴打事件への加担をDに働きかけた際、同女を説得する手段として、本件と類似性のある殺害方法を持ち出したことがあった旨指摘し、強調している。もし、甲野が乙野に対して、「Cを銃撃した後、甲野の大腿部も銃撃しておけば発覚しない。」というような、本件犯行と外形的な特徴が酷似する犯行方法を持ちかけていたことがDの供述どおりであったとすれば、本件がおこる数か月前に、すでに本件と同様の特徴を持つ事件の発生を予告していたとみられることになるから、甲野の本件への関与を強く推測させる情況事実になると考えられるのは当然である。しかし、その点に関する同女の供述内容と供述経過を点検してみると、犯行予告と受け取ってよいほどの言動があったとまでは認められない。すなわち、同女の供述によると、甲野がDに対して殴打事件への加担を持ちかけた際、考えられる殺害方法として、ナイフの使用等と並んでピストルの使用はどうかと持ちかけたことがあることまでは、同女が捜査官に対する供述の最初の段階から述べているとおりであり、その点は信用してよいと思われる。しかし、同女の捜査官に対する供述は、すべて、銃撃事件が起こり、殴打事件を含むロス疑惑事件全体の概要が世間に知れ渡って大騒ぎとなった後で、マスコミ報道を気にしつつなされたものであり、特に、Dは、供述を始める前、まず殴打事件に関与したことを思い悩んで周辺の者に相談し、その結果できるだけ自己の責任転嫁を意図して、事実関係を自己に都合がよいように修復して述べはじめた経過があったから、すべてを記憶どおり、正直に供述しているか疑問な点が多い。同女の供述内容は、右のような自己弁明の必要から、甲野の働きかけが強く、同女としては応諾せざるを得なかったとか、同女が関与した犯行手段はハンマーの使用までで、それ以上のナイフやピストル使用については、持ちかけられたが断った等の点を、どうしても実際以上に強調しがちな供述環境にある。殺害方法の例示として、ナイフ使用とかピストル使用の話題が出たこと自体は疑いがないとしても、乙野がその方法は自分にはできないと言って断った後、甲野がナイフの使用については話を切り上げておきながら、ピストルの使用についてだけことさらこだわり、これで自分の大腿部を撃つなどという方法についてまで詳しく話して聞かせたとは、ことの自然な成り行きからみて、考え難い。普通の日本人女性にとってピストルの使用が現実的でないことは初めから分かり切ったことであるのに、その点についてだけこだわったというのは不自然過ぎると感じられる。結局、殴打事件への加担を持ちかけられた当時、「Cを銃撃した後、甲野の大腿部も銃撃しておけば発覚しない。」と言って持ちかけられたとする乙野の前記供述は直ちに信用できず、そのような方法で依頼されたとの事実までは認定できない。

二 甲野の犯行関与に疑問を感じさせる事実

甲野の犯人性を判断するに当たっては、甲野の本件関与を疑問ではないかと感じさせる次のような事実がある点を考慮しなければならない。

1  まず、甲野は、殴打事件が未遂に終わった後、同事件のことが表面化するか否か全く見当もつかない時点で、再度前記の犯意を顕在化させて犯行を計画し、かつ共犯者の選定をはじめとする一連の犯行準備をするだけの時間的余裕があったと考えて本件証拠上無理がないかどうかの点である。

本件は、検察官の主張によれば、単に共犯者をしてCを銃撃させれば終わるという犯行ではない。引き続いて甲野の身体の一部をねらい、しかも予想外の重大なダメージを与えないように注意した上で銃撃させなければならない、という犯行である。したがって、そのような行為を手元の狂いなく行うことができる腕前の共犯者を見つけなければ成り立たない態様の犯行であるといえる。ところが、本件では、肝心の共犯者が解明されていないだけでなく、その見当もついていない。検察官は、氏名不詳の外一名が共犯者であるというが、本件は共犯者自体は具体的に把握されていて、単にその名前その他これを特定するのに必要な事項が不明だという事件ではない。共犯者自体が皆目見当がつかない状態にあるのである。そして、証拠関係を通覧すると、疑問の多くが共犯者の有無に関連して生じていることが注目されるのである。

まず、甲野の周辺に共犯者となりうべき人物が証拠上ほとんど見あたらない。検察官は、共犯者の嫌疑が最も濃厚な人物として乙野の名を挙げ、他には乙野に匹敵するような嫌疑のある人物は見当たらないから、乙野こそが共犯者に相違ないとの立証活動を原審以来行ってきた。しかし、その最も嫌疑が強いと主張された乙野について、原審は証拠不十分とし、当審においてもその点の判断に誤認はないと判断されることについては先に述べたとおりである。そこで、検察官は、予備的訴因を掲げ、氏名不詳の誰かと共謀したと主張するのであるが、それはまさに検察官がこれまでの立証中で、乙野に匹敵する嫌疑の強い人物は見当たらないとしてきた点なのである。本件の立証には、共犯者という肝心の点が不明で、全く欠落しているのである(検察官は控訴趣意中[九三頁]で、殴打事件が失敗した時点で、甲野が共犯者とするに脈があると思っていた人物が残っていたとするなら、その人物が共犯者となった可能性が高く、乙野はそのような人物の一人であり、しかも、右の時点で、そのような人物は乙野のほかにはほとんどいなかったものと推量される、と主張している。)。

2  乙野の関与が立証不十分とされても、なお甲野の犯行関与の事実だけは明白だというためには、少なくとも、共犯者は誰であれ、甲野が犯行に関与したことは間違いないことを示すよほど確かな証拠が必要だと考えられる(前記第一部第二の4参照)。もし、乙野の関与事実が認められるときには、共犯者の範囲もこれによって自ずから限定され、同人に実行を依頼した者がいるとすればそれは甲野ではないかと納得されやすいのに反して、乙野の関与事実が否定されるときには、乙野を基点にして対象者の範囲を事実上限定する効果は期待できなくなるから、氏名不詳の誰かに甲野が実行を依頼したとの事実を認定するためには、相手方が誰であれ甲野が依頼をした事実に間違いがないことをはっきり示す証拠が必要と考えられるのである。しかし、検察官が立証しようとした各情況事実についての検討結果は前記のとおりであり、その中には、甲野の本件への関与をかなり推測させる事実もあるが、なお、重大な疑問を抱えたままで十分解明されていない点もある。加えて、甲野には、次に述べるとおり、共犯者との間で共謀をする十分な機会が少なく、また現実に共謀をしたことを示す形跡がほとんど認められないのである。

3  もし、甲野が、殴打事件後に、再度本件のように手のこんだ態様の犯行を計画するのであれば、まず適切な共犯者を選定し、その共犯者との間で、犯行手順の相談、犯行場所の選定、自分を撃たせる銃器の威力、足のつかない調達方法、犯行に当たって目隠しに使うバンの借り出しとそれを現場に配置してする死角範囲の確認、報酬額と支払方法など多くの事項について、あらかじめ綿密に打ち合わせておかねばならなかった筈であろう。ところが、関係証拠によれば、殴打事件後の甲野は、本件前には、九月に一度渡米したことがあっただけであるから、その共犯者がアメリカにいたとすると、その者との間で謀議をする余裕はほとんどなかったようにみえ、もとより、現実に謀議をしたことを窺わせる痕跡は全く認められない(この点に関しては、検察官も、控訴趣意中、共犯者は甲野が共犯者物色過程で念頭に置いたことのある人物であると主張する文脈の中[六五頁]で、甲野がロスに居住していた共犯者に会えたのは、殴打事件失敗後帰国するまでの八月の一週間と九月の渡米時の約一週間しかなかったのであるから、それまで念頭になかった人物にこれほど短時日のうちに働き掛けて殺人に引きずり込めたとは、現実の問題として到底考えられない、といい、本件のような共謀がたやすくできるものではないことを認めているのである。)。かえって、甲野は一〇月にフルハムロードの社用で渡米の必要が生じたときにも、従業員を渡米させて、自らはタイペイに出張しているのである。日本に住む甲野が、アメリカで本件のような犯行の実行を計画するにしては、これではどうみても謀議の機会がなさ過ぎる。国際電話による謀議だけでことが運ぶとは考えられないが、念のため電話の架電記録をみても、通話相手、通話時間、架電時間帯、架電場所等は前述したとおりで、およそ共謀を疑わせるような通話状況は認められない。

検察官は、本件前日のロス到着後に最終謀議をしたかのようにいうが、これだけの込み入った事件の謀議を、事件前日になってから、短時間の間に行うことができるとは到底考えられないだけでなく、もし検察官が主張するように最終謀議が欠かせなかったとするならば、犯行日を翌日に設定しないで、もっと先の謀議のために時間的余裕がとれる時期に設定していそうなものと思われるのに、事件は翌日に起こっているのである。甲野は、殴打事件を計画したときには、Dとの間で、何度も謀議を重ねているのに、それよりはるかに犯行態様が込み入った本件について、謀議を重ねた形跡が全く認められないのは頷けない。また、渡米経過をみても、Cの通訳としていとこを帯同することを承諾したと思われる事実や、従業員の結婚式出席のために当初の出発予定日を簡単に変更したりした経過があって、共犯者との共謀によってあらかじめ犯行日程が決められ、これに沿って行動しているようには理解できないのである。このようにみてくると、本件当時、甲野の心の奥底に殴打事件以来のCに対する加害意思が消失しないで潜んでいたと仮定しても、それを本件当時に顕在化させて犯行を計画・準備したとすることには大きな疑問を持たざるを得ない。そして、犯行に使用されたライフル銃の調達、処分等も一切不明であるだけでなく、犯行への加担報酬と認められるような金額を支出した事実も認められない。

三 結論

検察官主張の情況証拠をくまなく、かつ、何度も繰り返して検討した結果は以上のとおりである。これによれば、甲野について本件犯行への関与を疑わせる情況事実をある程度認めることができ、またその嫌疑の程度は、乙野の場合より格段強いといえる。したがって、検察官がこれらの証拠に基づいて、甲野が本件銃撃事件に関与した事実は間違いないと主張し、原判決がこの主張を認めたことにも一応の理由が認められないではない。しかし、重要な点について今なお未解明の部分が多いことも上述してきたとおりであって、検察官が主張するような、銃撃犯人は不明でもその氏名不詳者と甲野との間に共謀が成立していたことや甲野がその者に銃撃を行わせたことは間違いがないと認めさせるに足りるだけの確かな証拠は見当たらず、結局殺人の予備的訴因についても、まだ合理的な疑いを残さない確かな立証がされたとはいえないと判断するほかない。

第五部  甲野に関する自判(その二。その他の事件について)

第一  銃撃事件に関連する詐欺の訴因について

甲野に対する昭和六三年一一月一九日付け追起訴状記載の各詐欺の事実及び同年一二月一六日付け追起訴状第一記載の詐欺の事実は、いずれも甲野が乙野と共謀して、保険金取得目的で、Cを殺害したことを前提として、そうであるのにその事実を秘して、強盗の被害に遭ったもののように装って偽罔したことによって成立する詐欺の事実であり、また当審において、右各事実について追加された予備的訴因は、殺人の共謀者を乙野から氏名不詳の「外一名」に予備的に変更したのに対応して、その趣旨の変更を部分的に加えたものであるところ、甲野が銃撃行為に関与したことについての立証が、結局前述のとおり十分でないことに帰する以上、この各詐欺の主位的訴因及び予備的訴因についても、偽罔行為の立証が十分でなく、犯罪の証明がないと判断するほかない。

第二  昭和六三年一二月一六日付け起訴状第二記載の詐欺の事実について

甲野の弁護人は、本件詐欺(動産保険金詐欺)に関して、(a)田中らに指示して商品を破損させて動産保険の保険金を請求したといっても、基本的にはすでに破損しているため問題なく保険金の請求ができる商品について、手続がスムーズに行くように破損を大きくしたにすぎない、破損させた商品の中に、破損していない商品、保険請求のできない商品をわざと壊して混入させたことはない、(b)仮に保険金請求の対象にならない商品を壊して保険金請求をした事実があったとしても、甲野はそのことを認識していなかった、と主張している。そして、甲野も、保険金の請求をする際に、破損の小さいものについて、破損の程度を故意に大きくして請求したことは認めているが、それ以外に、故意に破損させて保険金請求をしたことはないと主張する。しかし、関係証拠、特に田中潤、土肥俊雄の原審証言その他によれば、次の事実が認められ、右の主張は理由がない。

(a)  フルハムロードでは、輸入雑貨等を事務所、倉庫等に保管し、その商品管理は、田中潤、佐々木亮らが中心になって行っていたが、右商品に関しては、輸入、フルハムロードでの保管、小売店への輸送、小売店からの返品等の各段階で生じる破損事故のうち、アメリカン・ホームとの間で締結した保険によって担保されるのは、契約上、フルハムロードの事務所等に存在する商品を対象とし、同社への商品の搬入時点から販売先への引き渡し時点までに生じた事故に限られ、それ以外の運送中の破損等は担保外とされていた。

(b)  昭和五六年ころ、右田中らは、破損商品について、その破損が製造、輸入等のどの段階で生じたかを区別することなく、すべて倉庫内のダンボール箱に入れて保管しておき、ある程度分量が溜まるのを待って、甲野に指示を仰ぎ、虚偽の口実を設け、まとめてアメリカン・ホームに保険金請求をする運用を行っていた。

(c)  昭和五六年一〇月一六日、フルハムロードは、事務所を第二御子柴ビルから鹿鳴館ハイツに移したが、甲野は、その直後ころ、田中から破損品の処置について指示を求められたのに対して、事務所を移転する途中に生じた破損事故を装って保険金を請求するよう指示し、同時に不良品やデッドストックとなっている商品についても、この際壊して保険金の請求をするよう指示した。

(d)  田中は、甲野のこの指示を土肥に伝え、二人で移転先の鹿鳴館ハイツの庭で不良品であるパームツリー、ハットランプ等を落下させてことさら破損させ、その際デッドストックとなっている商品をも同様に破損させた。こうして破損させた商品のうち確認できるのは、不良品であったパームツリー四、五個、若干の破損があったパームツリー一個、同じく若干の破損があったパームテラコッタ一個、不良品であったハットランプ三個、デッドストックであったカメラ一個、シルクハット一個、ブルームーン一個である(パームツリーは、写真上は六個であるが、破損品を入れていたダンボールの中にも数点入っていたとされているので、田中の供述にしたがって、不良品については四、五個、若干の破損があったものについては一個と認める。シルクハットについても、写真上は二個であるが、同様の点を考慮して、一個と認定した。)。

(e)  その後、土肥が偶然破損した旨の内容虚偽の事実を記載した事故報告書を作成し、これをアメリカン・ホームに対して、同社の代理店を営む日下を介して提出し、保険金を請求して、同社から保険金の支払いを受けた。

(f)  このような方法を使って保険金を受け取ったのはこのときが始めてではなかった。すなわち、本件の少し前、昭和五六年四月ころ、甲野から同様の指示を田中やOが受けて、田中がリストアップしたデッドストック商品を破損させ、これを含めた形で保険金請求をして、その支払いを受けていたことがあったし、同じく本件後の同五七年五月ころにも、若干傷が付いている商品(プラスチックボックス)につき、わざと大きく壊して保険金請求をして、その支払いを受けたことがあった。そうした事情で、起訴事実については、関与者がすべて分かり合った上でのことであったと認められる。

以上の事実を認定することができる。なお、土肥と田中は、共に不良品等の商品を破損して保険金の虚偽請求をしたこと及びそれが甲野の指示によるものであることを認めている。両者の供述には、甲野から指示された経過内容、壊した商品の数量とその状態等の細目に関して必ずしも合致しない点があるが、本件事実の大筋の認定には影響はなく、右の点については田中が主体となって行っていて、同人の方がこれらの経過、特に壊した商品の数量と状態などを正確に把握していたと考えられるから、同人の証言を基本的に信用すべきものと思われる。甲野において、本来保険金支払いの対象にならない商品について保険金を請求する認識があったことは明らかというべきである。

前記弁護人の主張はいずれも理由がない。

なお、弁護人は、不良品については、買付け先にクレームを付けるなど正規の方法で処理することが可能であるのに、それをしないで故意に壊して保険金詐欺をするのは不自然であるなどという。正規の手続による手間を厭い、破損品に関する保険金の請求の中に、不良品を混入させて、金額的には多少不本意なところがあっても、面倒な手続なしにいくらかでも資金の回収を図ろうと考えることは十分あり得ることであって、弁護人がいうように、あり得ないこととは思えない。

以上のとおりであって、本件の動産詐欺の事実は優に認定できるというべきである。ただし、故意に破損させたのに偶然に破損したように装った商品数については、公訴事実がこれをパームツリー型ランプなど一一点(冒頭陳述によるとパームツリー型ランプ七点、パームテラコッタ一点、ハットランプ三点と特定されている。)としているので、証拠上、故意に壊したと認定できる商品のうち右に含まれる商品、すなわちパームツリー五ないし六個、パームテラコッタ一個、ハットランプ三個(うち、パームツリー、パームテラコッタ各一点については、田中らが壊す前から若干傷が付いていたようであるが、その傷の程度は軽微で、値引きすれば売れるような商品であったため、本来の破損品とは異なった形で保管されていたことが窺われるから、これらについては故意に破損させたものみて差し支えない。)の限度内で認定するのが相当である。

第六部  本件全体の結論及び甲野に関する自判

以上詳述したところにより、甲野については、刑訴法三九七条一項、三七九条によって、原判決中同被告人に関する部分を破棄し、先に述べた理由により、同法四〇〇条ただし書により、当裁判所において更に次のとおり判決することとし、また乙野については、検察官の控訴趣意については理由がなく、原判決が有罪と認定した銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反の点については控訴趣意として何らの主張がなくその理由がないことに帰するから、刑訴法三九六条によって検察官の本件控訴を棄却することとする。

(罪となるべき事実)

被告人甲野は、株式会社フルハムロードの代表取締役であったが、同社所有の商品であるパームツリー型ランプなど在庫品計九点(時価合計二六万五〇〇〇円相当)をその従業員土肥俊雄らをして故意に破損させたものであるにもかかわらず、これを秘し、あたかもこれが偶然破損したかのように装って保険金名下に金員を騙取しようと企て、昭和五六年一二月二一日ころ、東京都渋谷区神宮前<番地略>の同社の事務所において、アメリカン・ホーム・アシュアランス・カンパニーに対し、右在庫品九点を含む合計九五点のフルハムロード所有の商品(時価合計一四八万五五〇〇円相当)がすべて偶然破損した旨内容虚偽の事実を記載した事故報告書を右アメリカン・ホームの代理店を営む日下祐二を介して提出し、かねて株式会社フルハムロードがアメリカン・ホームとの間に締結していたこれらの商品に関する動産総合保険契約に基づく保険金の支払いを請求し、アメリカン・ホームの管理部長古瀬喜八郎をして、その旨誤信させ、よって、同五七年一月一一日ころ、フルハムロードの前記事務所において、同人から、右日下を介して、動産保険金名下に、アメリカン・ホーム振出名義の小切手一通(金三七万一三七五円)の交付を受けてこれを騙取したものである。

(証拠の標目)<省略>

(法令の適用)

被告人甲野の判示行為は平成七年法律第九一号による改正前の刑法二四六条一項に該当するので、所定刑期の範囲内で、被告人甲野を懲役一年に処し、同法二五条一項を適用して、この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予し、刑訴法一八一条一項本文を適用して、原審訴訟費用中、証人O(原審第六八回)、同田中潤(同第六九回)及び同土肥俊雄(同第七〇回)に支給した分は同被告人の負担とする。

(一部無罪の理由)

第一  起訴にかかる公訴事実の要旨

一 主位的訴因

被告人甲野は、

1 (昭和六三年一一月一〇日付け追起訴状記載の殺人の事実)

「乙野と共謀の上、甲野の妻Cを被保険者とする生命保険金を取得する目的で、同女を殺害しようと企て、昭和五六年一一月一八日午前一一時五分(アメリカ合衆国太平洋標準時)ころ、同国カリフォルニア州ロスアンジェルス市北フリーモント通り二〇〇ブロックの路上において、同女に対し、その頭部に二二口径のライフル銃で銃弾を発射して命中させ、よって、同五七年一一月三〇日午前一時五〇分(日本国標準時)ころ、神奈川県伊勢原市内所在の東海大学病院において、同女をして、右銃弾による脳挫傷により、死亡させて殺害した」

2 (昭和六三年一一月一九日付け追起訴状記載の各詐欺の事実)

「乙野をして妻Cの頭部を銃撃させ同女を廃疾状態に陥れたものであるのにかかわらず、これを秘し、あたかも同女が何者かによって銃撃されたかのごとく装って保険金名下に金員を騙取しようと企て、

第一  昭和五七年二月二三日ころ、東京都千代田区有楽町<番地略>の第一生命保険相互会社(代表取締役西尾信一)契約奉仕部奉仕課あてに、Cが同五六年一一月一八日に同国カリフォルニア州ロスアンジェルス市内で何者かに銃撃されて廃疾状態に陥った旨内容虚偽の事実を記載した事故証明書兼事故状況報告書等を郵送し、更に、同五七年三月一一日ころ、同課あてに、C名義の保険金支払請求書等を追加郵送した上、かねて甲野が同社との間に締結していた被保険者をCとする集団定期保険契約に基づく保険金の支払いを請求し、前記奉仕課長牛込一雄をして、その旨誤信させ、よって、同月一六日ころ、同人から、甲野管理にかかる東京都渋谷区神宮前<番地略>東海銀行原宿支店のC名義の普通預金口座に同女の廃疾保険金等名下に三〇〇二万四三七円の振込送金を受けてこれを騙取し

第二  同年三月二日ころ、同区神宮前<番地略>株式会社フルハムロードの事務所において、千代田生命保険相互会社(代表取締役中島正男)に対し、前同様内容虚偽の事実を記載した甲野名義の高度障害保険金支払請求書等を同社所属の外務員榊田れい子を介して提出した上、かねて甲野が同社との間に締結していた被保険者をCとする定期保険契約に基づく保険金の支払いを請求し、同社契約奉仕部保険金課長金森友男をして、その旨誤信させ、よって、同月二四日ころ、同人から、前記東海銀行原宿支店の甲野名義の普通預金口座に、Cの廃疾保険金等名下に五〇〇三万四円の振込送金を受けてこれを騙取した」

3 (昭和六三年一二月一六日付け追起訴状第一記載の詐欺の事実)

「第一 乙野をして妻Cの頭部を銃撃させて同女を廃疾状態に陥れ、かつ、右乙野をして甲野の大腿部を銃撃させて受傷したものであるのにかかわらず、これを秘し、あたかも同女及び甲野が何者かによって銃撃されたかのごとく装って保険金名下に金員を騙取しようと企て、昭和五六年一二月二三日ころ、前記フルハムロードの事務所において、アメリカン・ホーム・アシュアランス・カンパニー(日本における代表者猪谷千春)に対し、Cが同年一一月一八日に同国カリフォルニア州ロスアンジェルス市内で何者かに銃撃されて廃疾状態に陥り、その際ダイヤモンド指輪を強奪された旨の内容虚偽の事実を記載した甲野名義の海外旅行保険金請求書兼状況報告書、及びCが銃撃を受けた際に、甲野も同様に何者かに銃撃されて大腿部を受傷し、その際サングラスを破損した上、カメラを紛失した旨内容虚偽の事実を記載した甲野名義の海外旅行保険金請求書兼状況報告書を同アメリカン・ホームの代理店を営む日下祐二を介して提出した上、かねて甲野が同アメリカン・ホームとの間に締結していた被保険者をCとする海外旅行傷害保険契約に基づく保険金及びかねて株式会社フルハムロードが同アメリカン・ホームとの間に締結していた被保険者を甲野とする海外旅行傷害保険契約に基づく保険金の各支払いを請求し、右猪谷らをして、その旨誤信させ、よって、

一 同五七年二月一七日ころから同年六月二五日ころまでの間、前後六回にわたり、いずれも、フルハムロードの前記事務所において、同人らから、右日下を介し、甲野及びC両名の治療費用保険金等名下に、同アメリカン・ホーム振出名義の小切手合計七通(金額合計二五〇万三五七一円)の交付を受け

二 同年七月九日ころ、右猪谷らから、前記東海銀行原宿支店の甲野名義の普通預金口座に、Cの後遺傷害保険金名下に七五〇〇万円の振込送金を受け

三 同年八月三日ころ及び同月五日ころの二回にわたり、いずれも、右猪谷及び同人から依頼を受けたアメリカン・インターナショナル・アンダーライターズ・インコーポレイテッドをして、甲野及びCの両名が前記のとおり受傷した際に治療を受けたロスアンジェルス市ノース・ステイト・ストリート一二〇〇番地所在の南カリフォルニア大学メディカルセンターに対し、右両名の治療費用保険金名下に、同社振出名義の小切手合計二通(金額合計二万四〇四四ドル八六セント)を交付させ

もってこれらを騙取した」というものである。

二 予備的訴因

(一) 前記殺人の訴因中、「乙野と共謀の上」とある部分を「外一名と共謀の上」と、「同女に対し、その頭部に二二口径のライフル銃で銃弾を発射して命中させ」とある部分を「同所に白いバンで臨場した右一名において、同女に対し、その頭部に二二口径のライフル銃で銃弾を発射して命中させ」とし、

(二) 前記一一月一九日付け追起訴状記載の各詐欺の訴因中、「乙野をして妻Cの顔面を銃撃させ」とある部分を「外一名をして妻Cの顔面を銃撃させ」と、「あたかも同女が何者かによって銃撃されたかのごとく装って」とある部分を「あたかも同女が強盗によって銃撃されたかのごとく装って」と、「何者かに銃撃されて」とある部分を「強盗に銃撃されて」とし、

(三) 前記一二月一六日付け追起訴状第一記載の詐欺の訴因中、「乙野をして妻Cの頭部を銃撃させて同女を廃疾状態に陥れ、かつ、右乙野をして甲野の大腿部を」とある部分を「外一名をして妻Cの頭部を銃撃させて同女を廃疾状態に陥れ、かつ、右一名をして甲野の大腿部を」とし、「何者かによって銃撃されたかのごとく装って」とある部分を「強盗によって銃撃されたかのごとく装って」とし、「何者かに銃撃されて廃疾状態に陥り」とある部分を「強盗に銃撃されて廃疾状態に陥り」とし、「何者かに銃撃されて大腿部を受傷し」とある部分を「強盗に銃撃されて大腿部を受傷し」とする。

それ以外は、主位的訴因と同じである。

第二  当裁判所の判断

被告人甲野にかかる前記殺人の主位的訴因及び同予備的訴因、前記詐欺の主位的訴因及び予備的訴因については、いずれも以上に詳しく述べたとおりの理由により、合理的な疑いを差し挟む余地が残り、結局いずれも犯罪の証明がないことに帰するから、無罪を言い渡すべきものである。

よって、右の各事実について、刑訴法三三六条により同被告人に対し無罪の言渡しをする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官秋山規雄 裁判官門野博 裁判官福崎伸一郎)

別紙図面一〜三<省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例